フォトジェニックな娘たち
(一)
谷口商事の女子庶務課員を束ねているのがなぜか秘書課の上杉麗子、猫眼美女のお嬢さまだ。社内で気の合う仲間を集めるとなれば課内だけというわけにも行かないものね。麗子は社員と派遣は仲良くしなきゃいけないと言って、事あるごとに桃子に声をかけてくる。そして桃子をひんぱんにお昼に誘う。ありがた迷惑。誘われる方はたまらない。
……社員が派遣を割り勘で誘うなッ! アンタらが発散したストレスがこっちに溜るんだ。派遣はアンタらのゴミ箱じゃないッ!
同じ仕事をしながら派遣は安い。でも社員と派遣の差なんて、もともとたった一つの偶然でしかない。それを正社員という立場は自分の努力で勝ち取ったと信じて疑わない者もいる。そいつらのおかしなプライドで、派遣は当然の格差の他に精神的にも傷つけられる。派遣の置かれた事情を知りつつやる意地悪と、知らずにやる無神経さの両方に傷つく。派遣はバカ社員にバカにされても逆らえない。……あゝ、ここまで成り下がっても人間関係があるなんてね。仕事だけって職場はないかなァ……。谷口商事の時給は悪くはないよ。少しは貯金も、と思っても、こう出費が多くちゃね。意地悪だな、やっぱり。ネコを被ってネズミをいたぶるってか。でも、女子社員たちに取り囲まれて一本釣りされると断わるってむずかしいよ……。
……仲間は欲しいけどね、まさか派遣の久美ちゃんは誘えない。同じ立場の人を巻き込めるわけないよ。被害は自分で食い止める、それが仕事人の仁義だもの。久美ちゃんは偉いなァ。「私なんかと話してもおもしろくないですよ」とキッパリ言って、派遣をサカナにする性悪社員を寄せ付けない。カラオケに誘われるなんて私にスキがあったんだ。断れない弱さに自分でも呆れるけど、猫眼の考えてるとこがイマイチ解らないからね、それなりにつき合わないと。それにしても麗子の「仲間ぶる」のは頭にくるなァ。
麗子のグループがまた海外へ出かけるらしい。職場の昼休みがその話で盛り上がっている。小型で分厚いアルバムを何冊も見せあって、咲かせた思いで話に黄色い笑い声が混じる。夏冬のボーナスと月々の手当て。アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン、オーストラリア……一度の旅行で何カ国まわるのか知らないけど、出入国のスタンプがベタベタとページを埋めている。二年に一度だと言うから彼女たちもそこそこの年齢だ。
……仲よきことは美しき哉、見聞を広めるのも結構。けどさ、なんでガイドに連れ回されて名所めぐりをするだけで満足してしまうかなァ。なァ〜んか「◯◯町老人会ご一行様」みたいだ。いや、張り合おうなんて思ってないよ。日本から毎年百五十万人が行くというハワイすら未経験の私だもの、話しが合うはずない。やっぱり派遣のヒガミかな、桃子は苦笑する。
派遣の桃子も数次旅券をハンドバッグに入れてある。海外にも出ないのに絶えずパスポートを持ち歩くには理由がある。桃子のパスポートには東南アジアの風景と現地の子供の写真が数枚はさんであるのだ。大輔との初めて行った海外旅行のときのもの。でも、桃子は大輔本人の写真は持ち歩かない。売れない写真家だけれど自分の仕事をする男だ。一年の半年をスタジオ仕事で稼いで、残りの半年は雑誌も買上げてくれないアジアの農村なんかを撮りまわっている。貧しい国の風景と子供たちの写真から彼の生き方を反芻するのが桃子の楽しい日課になっている。言い換えるまでもない、桃子は大輔に惚れている。
自分の写真を見て撮ってくれた大輔を思うとしあわせな気分になれる。そのジワジワッの後に来るジィ〜ンという感じが好きだ。カメラに隠れた彼の真剣な眼を想像するのが好きだ。自分の写真を見て「これが自分なのか?」と思う感じは悪くない。桃子はパスポートの写真がとても気に入っている。彼がどんな思いで撮ってくれたのか、私に何を求めて撮ったのかが分かる気がする、生意気な言い方だけれど、大輔くんの写真はどれも被写体との一体感にあふれてる……。
(二)
……最初がまずかったんだ。私のウッカリで大輔くんにはホントすまないと思ってる。
この谷口商事に勤め始めたとき、桃子は何の考えもなく商社時代に着ていたデザイナーブランドのスーツを取っ替え引っ替えして出社した。目敏い麗子が対抗心に猫眼をランランと輝かせ、デザイナーと値段を言い当てたのには正直驚いたけど、そのとき気づいても遅かったんだ。ゆくゆく大輔くんと結婚するから、浮かれ騒いじゃいられないのに……。特別なものとも思わなかったフレンチも懐石も、二つのCが背中合わせの服やバッグも全部やめた。大輔について行くと決めてから何一つ買ってない。あるもので間に合わせたけなんだけど、麗子はスーツで私を同類だと思ったんだわ。ちがうってのに……。
谷口商事もそこそこの会社だけど、社員の品格はさほどとは思えない。なかでも社内恋愛はなやかで、桃子の一クールのうちに、くっついて離れたのが庶務課の女子の四分の三。ブロークンハーツに付き合わされて、食って飲んで、愚痴られて、カラオケになだれこんで……バカらしい。それでも会社が桃子を買ってくれて、継続雇用から正規採用を望んでるらしいというのは有難い。でもねぇ、ここのお嬢さまたちとは付き合えない。桃子が本気で仕事をすれば、麗子グループとは対立する。仕事はますますやりにくくなる……やっぱり先は暗いな、と桃子は思う。
桃子が総合商社を辞めたのは、初めて計画した三週間ほどの海外旅行のためだった。大輔の取材旅行に同行したもので、実質的には新婚旅行だった。海外にことさら興味はなかったが大輔のすべてを理解するたった一度の機会だと思っていっしょに行くことにした。会社の規定で新婚旅行は一週間までと決まっていたし、有給休暇はいったん会社に買い上げられると買い戻せないのだった。桃子は仕方なく会社を辞めた。式も挙げずに馬の骨カメラマンと旅行に出る彼女をクレージー扱いして、誰もコトブキ退社だとは思ってくれなかった。「考え直せ」という助言と忠告ばかりだった。家族も惜しいと言って反対した。それでも桃子は会社を辞めた。大輔くんと会社と、どちらを選んでも変わらないなら、そんなのは選ぶうちに入らない。少し向こう見ずではあったかもしれない。
自分で選ぶなどと言うと、視野が広そうで聞こえはいいが、桃子の本音は「身も心もさらってくれる男がいい」という漠然としたものだった。彼女も恋をしたい乙女だった。でも会社では彼女の身と心のどちらも、ついに奪れなかった。総合職でなければいずれは肩をたたかれる。会社なんて広いようで狭い。そのなかから次々とカップルが出来ていくほうが桃子には不思議でならない。出来ちゃった結婚も何組かあったけれど、あれって何だか恥ずかしい。桃子は自分でも少し古いかなと思う。そんな桃子が男といっしょに旅立つ決心をしたのだから、それなりに大変な選択だったのだ。
……木材の買い付けに駆け回る営業の社員にほのかに憧れたことはあった。でもあれって、人柄よりも男の仕事に憧れたせいだろう、と今では思う。私も男だったら世界を胯にかけて仕事をするのは悪くないと思っていたから……。木材の買付けの現場にもまったく無知で仕事は数字でしかなかったったから。ノートパソコンを抱えて東南アジアや南米をかけまわり会社に莫大な利益をもたらす社員。白雪姫でもない娘が白馬の王子を待つのを空想という。憧れの男は平凡な女子社員の純情を当然のように無視した。桃子には入社より倍率の高い社内結婚の現実だった。
(三)
武田大輔と会ったのは高校の同窓会。勤め始めて四年、高校を出てから八年が過ぎていた。桃子の憧れが、背広にパソコンの営業課員から、毎日をカナダの樵夫のような格好で暮らし、重そうなカメラを何台も首や肩にぶらさげた熊のような男に次第に移っていった。わずかしか話せなかったが、大輔の言葉が桃子には新鮮なショックだったせいもある。
「木材の買い付け? 前時代的って言うより、犯罪だな、それ」
ひと言だった。桃子は後頭部を鈍器でガンと殴られた気がした。
「なんでウチの会社を批判できるのよ、あなたが?」
そう言いながら桃子は動揺している自分に気づく。……やだァ、私。「ウチ」の会社だなんて、どうかしてるわ。分が悪くなると◯◯組の名前を出して凄むチンピラみたい、バカみたい……。桃子はとりとめなく大学時代を思い出す。
……法学部の授業はうんざりだったな。文学部で夢を紡いでいる方が「私向き」だったろうけど、就職を考えたら好き嫌いじゃすまないし……。偏差値だけで大学を選んだことを後悔しながら就職活動に明け暮れた。もともと司法試験や上級公務員に受かる頭はない。桃子のS大法学部は一握りの優秀な学生がその道に進んで看板になる。その看板を見えない所で支えるのが桃子のような一般企業就職組だ。高い授業料を払っても元がとれない。
……「ウチ」の会社かァ、ふうっ。自分の力が足りないからブランドに頼るのよね。借りているうちに自分がブランドにふさわしいと思い込んじゃう。一握りの者たちのおこぼれに蟻みたいに群がって。大企業と言っても大した仕事をしてるわけじゃないし……。会社の厄介者でもないんだろうけれど、決してバリバリじゃないしねぇ。
「批判してるのは俺じゃないよ、世の中だよ。来るべき世の中が批判してるのさ」
桃子は大輔の声にハッと我にかえった。
……なにぃ? 来るべき世の中だァ? よう言うねぇ、偉そうに。君は大学へ行かなかったんじゃなかったっけ?
……ん? それにしても私って、何でもない大輔くんになんでキツく当たってるの? 桃子は自分でわからない。大輔が言葉を継いだ。
「大学へ行った君が知らないことはないだろけど?」
「何を?」
「マハティール首相……」
……誰よ、それ? 桃子は危うく問い返すところだった。やばい。東南アジアの、たぶんその人だと思うけど『自国の森林を伐採してどこが悪い、君たち先進国が昔やったことだぞ。それを環境破壊だの何のとイチャモンをつけるなッ』だったかな……。スカッとしたことを言うオジさんだとは思った。アジアなんて汚くて貧しくて、自分とは関係ないと思っていた桃子の認識はその辺りぼんやりしたものだ。就職に役立たない教授の講義なんか聞いてらんない。出席したのは卒業単位のためよ。大輔くんも何言ってんの。問題は現実なんじゃないの? 時流に乗り切れなかった貧乏人のたわ言を真に受けてさ。「勝てば官軍」が世の中じゃないの? 能力を発揮して、いただくものはいただく、それだけじゃないの。ウチだってきっとマハティールさん所からも買ってるよ。
「大輔くん、高校から写真学校へ行ったんだったよね、たしか」
「いや、学校は行ってない。ウチの師匠に弟子入りしたんさ。それが何か?」
「いえ、別に。アジアのこと詳しいのね。勉強したの?」
「からかうなよ、常識だろがァ」
ヒゲづらの大輔はかわいい眼をして照れた。桃子のなかで存在自体がかすかな記憶でしかないこの男は、いつ頃からそんなことを考えていたのか。大輔くんは何やらむずかしいことを言った。
(四)
「自分で見たものを自分の頭で判断してさ、自分と世の中の関係をつかむのさ……まず見ることだよ。頭のなかが先じゃなくてな、見えるものが先。頭のなかに出来ちまったイメージを押し広げて現実をおおってしまうとな、必ず相手を誤解する。相手より自分が上だと思うのって、おごりだろ? アメリカやヨーロッパには二歩も三歩も譲っておいてさ、その分アジアを見下して自分だけのバランスを取る。明治時代の伊藤博文からちっとも進歩してないよ。川中島さん(桃子の姓)はどう思ってるか知らないけどさ……」
……男の子の話って、どうしていつも政治や歴史なんだろう? 興味なんかないし、私にはちっとも現実的じゃないよ。なるほどウチの営業と大輔くんの生き方は根本から違ってる。大輔くんは自分で生きているという感じがする。それはそれでいい。それでいいとすると? ウチの営業たちは会社に飼われてるなァ、たしかに。収入が増えて自分の生活が潤うために組織の階段を昇ること以外は考えていないもの。大輔くんは、自分の人生の立ち場が見つかったということなのね、ふ〜ん、大輔くんってすごいんだ。
「ね、それなぁに? 胸のポケットの……」
「何って、これか? パスポートだよ」
大輔が分厚く丸みを帯びたパスポートを引き抜いてテーブルに投げ出した。ボンと低い音がした。
「へえ〜。ずいぶん色んな国に行ってるのねぇ。何カ国?」
「一〇かそこいらだろ。アジアだけだけど」
「写真、見るよ?」
「あゝ、ろくなのないけど」
「あらぁ、このおばさん、すてきな顔してるわ」
「だろ? 川中島さん、わかるねぇ。すてきなおばさんだったよ」
「どんな人?」
「売春婦」
「え? ばいしゅん……」
「ダンナが材木伐採の事故がもとで死んじゃってさァ……」
「まァ」
「そっから小学六年の息子をバアちゃんにあずけてウバ桜の売春稼業。息子が中学出て消防に入ったとたんに訓練死。息子の葬式の帰りだったんさ、そのおばさん」
「……」
「家族いっしょの写真を撮ってやりたかったな、って言うとな」
「と言うと?」
「おばさん、俺の袖ひっぱってな『あんた、いい人だね。タダでいいよ』だってさ。おう、参ったぞ、あれにゃ、あっはっは」
「大輔くん、女には笑える話じゃないよ」
……ホラ話かもしんないけれど、大輔くんはたしかに現実を見てる……。
(五)
大輔と話すと、桃子は大学時代も商社に就職してからも、何ひとつ自分の頭で考えて来なかったような不安に襲われる。
……大輔くんは上を見ていない、出世とは縁がないという意味で。でも、ちゃんと身の丈でものを見ている。そうするとホンモノが見えるってことなんだろうか? 向上心は他人と比べるものじゃないしね。それなのに、私は偏差値とか年収とか、他人のものさしを今だに振りまわしているんだわ。いい加減イヤになるな、自分が……。
桃子は自分がぐっと大輔に近づいてしまったのがわかる。……くそッ、高卒の熊男め。こんなはずじゃないのになァ。調子狂っちゃう。でも、そうだよね、名前だけ大学に通っても私みたいじゃあね。大輔くんは自分で学んできたワケよね。『我以外皆我が師』とか何とかジジ臭いことを言うのも、そういうことなワケね。ちょっとぉ、大輔くん、私も大輔くんから色々教われば本当の自分になっていけるんかなァ、なぁんて思い始めちゃってるよ、私。でも、これって、やっぱ甘えだよねぇ。
上杉麗子は同じ大学の英文科卒だ。でも同僚や子分たちに桃子と同期だとは言わない。K大やW大より彼女たちのS大は偏差値が低い。それでも谷口商事ではピカピカのトップだ。麗子の子分の雅美、由加利、恵理たちが出た「雨後筍大」とは歴然とした開きがある。麗子が女王さまでいられるのも入社が古いだけでなく母校S大のネームヴァリューがある。この会社で秘書課の上杉麗子と言えばS大出の才媛なのだ。
そのS大も学部によって偏差値がちがう。桃子の法学部は麗子の文学部より上だもんだから、秘書課の見えっ張りは子分たちの手前、それが言えない。それで麗子は考える……アタシは正社員で桃子は派遣、アタシは美人で桃子は十人並み、アタシは英検準一級で桃子は簿記2級、アタシはシトロエンで桃子はワゴンR、身長もアタシの方が四センチも高い……。女王にも悩みはあるものだ。……麗子が声をかけてくるのは私への牽制だ、と桃子は思う。
人事の書類で知ったのか、谷口商事に入るとすぐに麗子は昔からの知合いのように桃子に話しかけてきた。作り笑いが透けて見える。……いずれはバレることだけど、私が総合商社から「堕ちた」のがそんなうれしいかァ。んなら自分の所に堕ちてきたのが不運だっちゅう顔をするなッ。イヤミな女だ。せっかく美人なのに。いや美人だとよけいにああなのかな。時折のぞくあの眼つき、敵愾心に近い対抗心が見て取れる。気になる低姿勢だなァ。
桃子は麗子の低姿勢をコンプレックスと読んだ。
……法学部のほうが偏差値は高いのはたしかだけれど、そんなにしてまで法学部に勝ちたい? もっとも私の法学部なんて看板だけだもの、アンタがビビることはないのよ。麗子さん、アンタはしっかり「勝ち組」よ。それでいいじゃない? 私は仕事をするだけの派遣。でも、打ち解けるまでは〈桃ちゃん〉なんて気安く呼ばないで。学生時代からの知合いじゃないんだし、ちゃんと「川中島」って苗字で呼んでッ。公私の区別くらいつくんでしょ。なんか、卑屈すぎやしない? それって傲慢の裏返し?
(六)
「桃ちゃんも海外旅行は行ったんでしょ。あなたのを見せて」
麗子が言えば子分たちが唱和する。密かな自慢と仕方なしの二つの気持で桃子はバッグからパスポートを取出した。
「タイ? ベトナム?」
子分たちは『そういう国って海外とは言わないでしょ?』と真顔だから開いた口がふさがらない。
麗子だけは様子がちがった。もう何分も桃子のパスポートの写真に見入っているのだ。麗子の猫眼が写真の桃子を探査している。……どこがどうとは言えないけど、でも、ちがう。この写真は……。自分のパスポートの写真を頭に思い浮かべ比較しているのだ。
「先輩、やですよぉ。そんなに見詰めちゃあ。穴があいたら先輩のせいですからね」
そう言いながら桃子は気分がいい。密かな自慢の方が適中したのだ。……ざまァ見ろ、文学部……。
派遣だからといってよそよそしくも出来ない。大学が麗子と同期といっても桃子は早生まれだ。それで会社では麗子を「先輩」と呼んでいる。それは麗子も悪い気はしないらしい。相手より優位に立てればこの女は機嫌がいい、悪い意味でどこまでもお嬢さまなのだ。
桃子の写真。少しカメラをいぢった人ならわかる。モデルの無防備さが雰囲気だ。うまい。ズレを証明用の限度ギリギリにおさめながら、微妙に正面を外している。顔をほんの気持だけ左下に向かせ、視線を逆にわずかに左上にずらせて指名手配写真を脱している。全体の印象はアメリカのハイスクールの卒業写真のように表情がある。キャッチライトがきれいに入って、生き生きした桃子だった。微笑みかける瞬間のハツラツとした若さが写っていた。女性が誰しも自分を不美人と思わないのは彼女らの勘違いではない。化粧するほどの女なら誰だって自分にこうした美人を見出しているものだ。
麗子が尋ねた。写真のなかの桃子のなかの美人を見抜いたのだ。
「ね、この写真、どこで撮ったの? そのスタジオ、教えてッ」
言葉が早口になったのは麗子が真剣な証拠だ。
「やだァ、スタジオだなんて。シロウトとですよぉ。彼が撮ってくれたんです」
「シロウト? 信じられないなァ。いいわねぇ、これ……。ね、アタシも桃ちゃんの彼に頼めるかしら? もうじきパスポートもエクスパイアするし、ね」
……エクスパイア? 日本語で「切れる」って言え、切れるって。私がブチ切れてあげよか? 桃子はそう思うけど、やっぱり思うだけだ。
麗子のパスポート写真はモデルを撮るプロに無理やり撮ってもらったものだ。彼女の父親が知合いのTV局の重役を介して強引に頼んだのだ。写真家は仕度をぜんぶ助手に任せて、ピントも合わせずに無愛想なシャッターを二回切っただけだ。それでも麗子にはプロの写真だ。その写真家が撮影の前に『俺に証明写真を撮らせるのかッ』と助手を拳で殴ったいきさつなど上杉麗子が知る由もない。
パスポートの麗子は人形のような美人だったが、やはり指名手配中だった。プロが撮った写真はついさっきまで麗子の自慢だった。それが、桃子のパスポートを見て、急に自分のものが気にいらなくなった。お嬢さまである。写真を見比べれば、美人の度合いでは麗子でも、写真としては桃子に軍配があがってしまう。昼休みの子分たちも一人残らず桃子の写真にため息をついた。女だからわかるのだ。それが自意識過剰の麗子にはおもしろくない。麗子の表情から、桃子は「コンプレックスが再燃したな」と思った。
(七)
幼稚園からずっと美人のお嬢さまで通ってきた麗子には屈辱だったわけだ。なんで派遣の桃子ごときに……。麗子は勝ち気おんなの常套手段に訴えてきた。案の定、大輔に頼んでくれという。自分はプロに頼んで子分たちを出し抜いておきながら、桃子には「カメラマンが同じでないのはアンフェアだ」と言わんばかりなのだから呆れる。写真の負けをアッサリ認めたことも、自分が立場を利用して桃子に「命令」していることも気づいてない。同じ条件なら自分が勝てる、もうそれしか頭にないのだ。……そうまでして法学部に勝ちたいか、文学部。
『まだヒヨッ子だし、イケ面でもないけど、腕はほめられるらしいんですよぉ』
自慢して後悔した。桃子は桃子で麗子を大輔に近づけたくなかった。……大輔くん、やさしいからなァ。麗子は彼のやさしいさをきっと自分が美人なせいだと勘違いする……。心配と優越感とが交差した。
大輔は師匠が小遣い稼ぎに女の写真を撮るスタジオを借りた。そこへ桃子に伴われて麗子が入ってきた。半ば、いや、四分の三くらいの強引さで「撮らせ」に来たのだ。
麗子はスタジオの隅で大輔に背を向けてドレスに着替え出した。
……な、なんだァ、この女? マリー・アントワネットか? パスポートの写真になんでドレスだよ? カメラマンの前で着替えるなんて、シロウトを卒業して女優のつもりかァ?
「ねぇ、大輔さん、小松省二さんって方、ご存じよね? 今のパスポート写真はその方に撮っていただいたの」
大輔はカチンと来た。……ずいぶんなれなれしいじゃねえか。アンタと桃子は社員と派遣でも、俺とはカンケーねえだろッ。何が言いてぇんだよ、おめぇは? そっちから写真屋のヘソを曲げてくれるか。いい写真は出来ゃしねぇぞ、どシロウトめ……。
少し、いや、大いに様子のちがうシロウトを大輔は桃子に手招きして麗子と反対の隅に呼んで戦意喪失を告げた。撮る気になれない。
「ごめんねぇ、無理やり頼み込まれてさ。悪いとは思ったけど、私もムカッときててさ、大輔くんのこと自慢したらヒッコミつかなくなっちゃった。ほんとゴメン」
桃子は両手を合わせて大輔を拝んだ。
「ったくこんな仕事を引き受けてさァ、なんだよ、あのバカ女。桃よ、言っとくけどこっちはプロだぜ。プライドって厄介なもんがあるんだよ。てめぇで美人だなんて思ってるヤツなんざぁ、おてんと様の下でチョキ出してりゃあ、素人がうまく撮ってくれるじゃねえかッ」
「だっから、ゴメンって謝ってるでしょ」
「桃よ、あれがおまえに何のかんのってしつこいってヤツなんだろ、その、何てったっけ?」
「麗子、上杉麗子」
「上杉? 気に入らねえ苗字だな。お前、仕事やりにくいって言ってこぼしてたのによぉ」
「お嬢さま風を吹かせたいだけだから。もう何とも思っちゃいないけどね。ね、今回だけ。じきに会社は辞めるかもしんないし……」
「そうか。なら、桃子。ちょっとイタズラしていいか?」
「イタズラ?」
「アイツのパスポートの更新って、いつだ?」
「急いだ様子もなかったけど、じきのはずよ」
「よし、ギリギリになるまで今日の写真は渡すなよ」
「どうゆうこと?」
「はっはっは。いいから任せろって」
(八)
大輔は着替え終えた麗子に向かって念を押すように言った。
「あ、桃のみたいな写真でいいんでしたよね?」
「そう、ああいうのがほしいのよ。大輔さん、注文をつけて。言うようにするから」
……おうおぅ、大女優だな……
大輔はレフ板を一枚外し、ライトを二つ落とした。スタジオの中がぐっと暗くなった。
「さァ、雰囲気でましたァ。いきまぁ〜すぅ」
麗子は上機嫌だった。なにしろサイコロ型のカメラでプロが一〇枚以上も撮ったのだ。
「はぁ〜い、お疲れぇ。期待していいですよ」
お愛想を言われた女優は満足そうに微笑んだ。
「さぁて、じゃまものは退散しますね。これ少ないですけど、お二人で水入らずのお食事でも」
麗子が大輔に封筒を差し出した。桃子は辞退させようと大輔の腕をつかんだ。
「ご好意なんだからかえって失礼だろ。俺だって一応プロなんだしさ」
大輔はひと言『ども』と言って封筒をポケットに捩じ込んだ。
大女優は衣装バッグのジッパーを締めながら大輔だけを見て言った。
「たのしみだわ、大輔さん」
はっきり桃子を無視して、麗子はツンと鼻を上に向けると、モデルのような歩き方でスタジオを出て行った。桃子は麗子が出て行ったドアに向かって口をとがらせた。
「なっによッ、大輔さん、大輔さんって。宮川花子かッ。私の大輔くんを何だと思ってんさッ。ざけんなっちゅーのッ、ったく」
「あっはっは、妬かない、妬かない、あれくらいで」
……大輔くん、やさしすぎるよ……。
写真の仕上がりを何度聞いても大輔は「まだ、まだ」としか言わない。
……ジラせて楽しもうってのかな。あんまりいい趣味じゃないよ……
「パスポート、間に合わなくなったら責任の取りようないよ」
「ギリギリっていつだァ?」
「明後日には申請しとかないと……」
「そんなら今日が限度だな。あいよ、これ」
「ねぇ、大輔くん? やっぱり出会わない方がいい人って世の中にはいるよね?」
「それは会ってみねえと分かんねえだろ。俺は誰と会ってもたのしいけど……」
「上杉麗子みたいんでも?」
「う〜ん、ま、あの辺が限度かなァ」
大輔がカメラバッグから取出した洋封筒を桃子は自分のバッグにしまった。
(九)
もうギリギリだ。麗子は手続きを今日のうちにやらなくてはならない。しかし、昨夜見てしまった写真が気になって桃子はどうしても出社する気になれない。仮病を使って今日は欠勤した。でも、写真だけは渡さなければならない。昼近くになってやっと桃子は秘書課の麗子に電話をかけた。
「あ、川中島です。パスポートの写真、出来ました。遅くなってすみません」
「あら、いいのよォ、間に合えば。それより桃ちゃん、具合はどうなの? お休みしたんでしょ?」
麗子の声はいつもと変わらなかった。……女優だな、私より写真のほうが気になってるくせに……
桃子の察しの通り、麗子は仕事ならとっくに怒鳴っているくらいカリカリしていた。桃子の電話がなければ自分からかけるところだった。
「交付日は申請日を含めて、土・日を除いての六日目からだから……週をまたぐとちょうど来週の今日です。ご自宅の方へお持ちしましょうか? 先輩のお住まいは府中でしたよね。当日は調布からリムジンで成田へ直なんでしょう?」
自分が百も承知のことをくどくど言う桃子にいら立ったが、麗子はそれを悟られたくなかった。
「さすがね、とても海外旅行に一度しか行ってないなんて思えないわ、桃ちゃん。そうしてもらえると助かるけど、具合が悪い人にそこまで甘えないわよ。ううん、いい。申請も交付もアタシがやる。写真だけちょうだい」
「立川ルミネの九階にパスポートセンターがあります。そこで申請をしてください」
「ルミネの九階? わかった。でも、桃ちゃん、出てこれるの、だいじょうぶ?」
「ええ、立川までなら……」
「私も午後は仕事の予定は入ってないからOKよ。三時になったら立川へ直行するわ」
「じゃ、ルミネで……」
桃子はやっとのことで電話を終えた。
前日の桃子は写真をすぐにでも麗子に渡そうと思っていた。封筒の中をのぞくつもりはなかったけれど、「桃子のパスポート写真と同じように撮る」と麗子に言ったことが気になった。……私が気に入っているあれと同じように撮ったんだろうか。大輔くんは私だから撮れた写真だと言ってくれたのに、あの娘にも同じことがしてやれるのか。それをプロというなら仕方ないけど……。桃子は机の上に封筒を投げ出したまま、冷めた紅茶をすすりながら考えた。見たい、見たくない。気持は半々だった。
ノリのついていない封筒の折り返しを人さし指ではね除けると写真がのぞいた。桃子は思わず息をのんだ。写真の麗子は化け猫だった。……これが大輔くんのイタズラ? 私に加担してくれたのは分かるけど、うれしくない。ひど過ぎる。大輔くんがここまでやるなんて思わなかった。イタズラ、いや、人格的にもちょっとどうかという気さえする。麗子にイヤな思いをさせられているのは事実よ、でも、この写真は誰が見たって気分がよくない。大輔くんへの信頼も目減りしたように感じちゃうじゃない。大輔くん、なんて写真を撮ったの? ギリギリまで渡すなと言ったのは、これをパスポートに貼らせるため?
……今さら大輔くんが失敗したと言って謝まるわけにも行かないし……。これで彼女との関係はよくならないまま終るけど、この写真は残酷だよ。いい気味だと思わないと言えばウソになる。でも免許証にだってパスポートだって写真が気にならない女性なんていないのよ。そんなことも分からないでここまでやってしまう大輔くんって不安よ……。自分の愚痴が原因で大輔にこんな事をさせてしまったのかと思うと、桃子はそれが自分のことよりも悲しくて涙がこぼれた。
麗子は待ち切れずに待っていた。
……来た。桃子だ……
パスポートセンターに現れた桃子に麗子は気づいていた。でも、桃子のほうから声をかけさせて自分の優位を確認するまでは文庫本から目を離さない。バカ女である。
……いいのよ、別に、間に合いさえすれば……桃子には何度もそう言ってきた。桃子の写真の、天の配剤としか思えぬ美しさが、いよいよ自分のものになる。興奮しないほうがおかしい。思わず口もとがほころぶ。……一分でも早く見たい、でも、でも、舞い上がった自分を桃子に見られてはならない。手続きはよろこびを噛みしめながら一人でやろう。いい? ギリギリまで余裕を見せなきゃダメよ。さ、落ち着いて。麗子は自分に言い聞かす。彼女には三度目の西海岸よりパスポートなのだ。
麗子の目が笑っていた。内心とは裏腹に落着き払った麗子は大女優だ。……ふんッ、アジアの田舎まわりを海外旅行だなんて笑わせるわね。これですっかりあなたに勝ったわ。それにしても自分から手を貸して負けるなんてね。大輔さんもあなたもお人好しが過ぎるわ……。
「じゃ、先輩、お気をつけて。楽しんでくださいね」
「悪かったわね、桃ちゃん、最後の最後まで。さよならパーティもしてあげられなくて。あ、アタシはもう先輩じゃないのかぁ。桃ちゃん、大輔さんと幸せになるのよ。いい?」
「ありがとう、麗子さん。それでは、失礼します」
桃子は麗子の猫眼が見られなかった。封等を手渡すなり、スウッと人混みのなかへ消えて行った。逃げるように……。ぎごちなくよそよそしい応答の原因は桃子のほうにあったのだが、写真への期待が大きい麗子はそれに気づかなかった。
駅に向かう人混みのなかで桃子は自分に言う。……さよならパーティ? 麗子のなかじゃ私はもうとっくにお払い箱になってるんだな。なぁにが『幸せになるのよ』だ。ホンマモンの先輩みたいな口をきくなっ。……とは言っても、優しくなくもなかったな、さっきの麗子さん。自分の負い目がそう感じさせるのかな。でも……。もういい、もういいよ。全部終ったんだから。何も言わなくていいよ、桃子……。
(一〇)
麗子は桃子の後姿が見えなくなるまで待ちに待って、やっと封筒から写真を取出した。指先がふるえて、心臓の鼓動が聞こえてくる……。麗子の顔がサッと曇って眉間に深いシワが寄った。
……なにぃ、これえッ! 美女の顔が大きく歪んだ。……なんでこれがアタシよッ、冗談じゃない。麗子は信じられないものを見てしまったのだ。かつて経験したことのない屈辱だった。腹の底からムラムラと込み上げた怒りが両眼にいたってメラメラと燃えさかり、麗子の形相を一変させていた。……チッキショー。下手に出てりゃつけ上がりゃがってぇ、あのクソあまァ、恩をあだで返しゃがったか。派遣女めッ。く、くやしいッ。くそうっ、桃子のヤツめぇ……。麗子は汚い言葉を吐いたあとの唇をキッとかんだ。
(十一)
大型連休に入った職場に社員の姿はなく、派遣の桃子と久美の二人だけが半端な仕事をしている。庶務課長だけが監督責任から出てきているが、桃子の意志を確認するためだ。桃子は辞めるか次のクールも継続するか返事をしなければならない。
……仕事はともかく、今回の写真の件で桃子は谷口商事で働く意志を持ちつづけるのは無理だと思う。今日だって麗子がいないから出て来れたのだ。桃子は考えるのがめんどうくさくなって、大きなため息をついた。前のデスクの久美ちゃんが何かあったのかと心配してくれたが、桃子は気の乗らない作り笑いでごまかした。……麗子たちも明日は西海岸だ。出発の準備はすませたろうけど、写真はどうしたろう。納得できるわけないよ、あれは。パスポートがなけりゃ海外には出られない、麗子は今どうしてるんだろう。とてもこちらから電話はかけられない。麗子からもかかって来ないのがなんとも不気味だ。ゴルフクラブを磨いている課長の遺留を振り切って辞めると言ってしまえば気分も多少楽になるかもしれない。でも「逃げた」という負い目はずっとまとわりついてくるだろう。麗子が沈黙しているのは過ぎたイタズラのつぐないをさせているのか。私だってこんなに苦しんでるのに……。
当初の予定から言えば、麗子たちが成田を発って機上の人となっている頃、桃子と大輔の二人は焼き肉屋の無煙ロースターをはさんで向かい合っていた。麗子の提案どおりの水入らずの食事だった。麗子の困った顔を想像するとおかしくてたまらないと大輔は大笑いしたが、桃子は黙ったままだ。
「桃も見たんだろ?」
「見たわよ。あれはこんな御馳走に化ける写真じゃないよ、気の毒だな、彼女」
「何言ってんだ。いいんだよ、あれはあれで。それよか、タン塩食え、うめぇぞ、これ。あっはっは」
……大輔くん、あんなことして、なんで笑っていられるの?
「証明写真にプロがお出ましになるなんて聞いたことねえよなァ」
「彼女、旅行に出る度に思い出さないわけに行かないよ。やっぱ、気の毒よ」
「だっからいいんじゃねえか。え? おまえ、ほんとに封筒を開けて見たんだろ?」
大輔はそう言いながらくったくなくタン塩を口に運ぶ。この男はいったどういう神経をしているのか。桃子には大好物のタン塩が少しもうまそうに見えない。
(十二)
ここで桃子から写真を受取ったあとの麗子の様子を確認しておこう。
西国分寺で乗り換えた府中本町行きの電車の中で麗子は憔悴していた。……今日アタシに起きたことは一生忘れない。あの二人を生涯許さない……。シワくちゃになるほどパスポートを握り締めると口惜し涙が頬を伝った。写真には処刑前夜のアントワネットが俯いてどんよりした眼で写っていた。眼には光が届かず、屠殺場に曵かれていく牛の、黒く塗りつぶしたような眼だった。亡霊のように暗い女だった。
パスポートセンターにはインスタント写真のブースがあるにはあった。でも、撮り直す時間はもうなかった。この日、麗子が申請書類を出した最後の一人だった。……見栄をはってギリギリまで時間を無駄にしてしまった。いまいましいが泣くにも泣けない。麗子は仕方なく、おそらく生まれてはじめての屈辱に耐えながら、それもやけくそで、亡霊写真と書類を係官につッと差し出した。係官は事務的なふうをよそおっていたが、写真を見た目が怯えていた。彼の目がしゃべればこう言っていたはずだ、『ほ、ほんとにこの写真でいいんですか?』と。
麗子は更新を済ませた。写真が手もとにないのだから、そういうことだ。あとは亡霊写真付きのパスポートの交付を待つだけだ。頭のなかで彼女は大輔とののしりあっていた。
『それがアンタじゃないなら、誰だって言うんだよッ。レンズはウソをつかねぇよ』
『そりゃ、アタシには違いないけどさ、もっと上手に撮れないもんなのッ。何がプロよ、シロウトだってこんなにひどくないッ! アタシがあなたに何をしたってゆうのよッ。悪意としか思えないわよッ!』
『桃子みたいに撮ってほしいって言ったのはお前のほうだろッ。上手も下手もねえよ。アンタが知りたがらなかったアンタがちゃんと写ってんだから。どんな女の中にも美人と不美人がいるってことさ。どっちが俺の目に映るかなんて俺にだってわからねえッ。俺は見えたものを撮る。桃子のそれを撮ってアイツのパスポート写真にしてやった。なめんなよ、こっちはプロだぜ」
(十三)
話は再び焼き肉屋にもどる。
桃子はやっとの事で言葉を口にした。
「大輔くんねぇ、私、少し考えたいことがあるからちょっと実家に帰るね……」
「ん? 何かあったのか?」
……自分のやったことがどんなことか分かってないのか、この男は。法に触れなきゃ何をやってもいいのか。小さなことのようでも大事になるのは決まってこんなことなんだろう。男は女を分からないと言い、女は男を分からないと言って、気づいてみれば心が離れている、そんなのはイヤだ。実家の両親は「それ見たことか」と言うだろうか。いや、大輔くんを選んだことは間違っていないと思う。今、私の心のなかの小さな翳りのようなものをどうすればいいか、それを考えたいのだ。完全な人などこの世にはいないのだと言う。神のように完全なら信じられるのだろうか? 問題は〈信じられる〉ではなくて〈信じる〉かどうかだという気がする。惚れた弱味で、ヒゲ面の熊おとこを完全だと思いこんでしまったんだろうか。そうじゃない。
私は大輔を〈信じた〉のだ、あのときに……。大輔に初めて抱かれたときに信じたものを今になって信じなかったとは言えない。今でもやさしい男だと思ってる。しかし、私のこの小さな翳りが大きくなって大輔くんに知れてしまったら……、あのパスポート写真のようなのは撮れなくなるような気がする。私の方が無防備になれないってことでもあるし……。そんなことが、二人にとって致命的なことになるような気がしてしまう。大輔とこれからどう関わっていくか、それを一人になって考えてみないと……。相変わらずタン塩をパクついている大輔を見ながら、半同棲生活も終わるかもしれない、桃子はすっかり弱気になっていた。
桃子のハンドバッグの中でメールの着信音が鳴った。大輔が今度連れて行ってくれることになっているインドネシアの曲『ブンガワン・ソロ』だ。大輔は桃子を見て『その約束はわかっているよ』とニッと笑うが、今の桃子には笑顔がつらい。メールは麗子からだ。恐くて開けられない。
「誰からだ?」
「麗子」
「じゃ、桃が済んだら見せてくれッ」
……大輔ってバカなんだろうか? 私が見られないものがアンタは見られるのね? 大輔が少し遠のいたように思えてしまう。
「桃ちゃん、やってくれたわね〜(笑)」
うわッ。桃子は思わず眼をつぶった。一行めから……。ん? この(笑)はいったい? 桃子は気をとり直して先を読む。
「ここまでバカにされたらたくさんだと思いましたよ」
桃子は携帯を放り出して泣き出した。大輔は顔色ひとつ変えずそれを拾うと、スクロールしながら読み上げた。
「桃ちゃんにも何ひとつ勝てなかったけど大輔さんには完敗です。アタシは今、亡霊女のパスポートを持って雅美たちと楽しくキャリフォーニァを飛びまわってます。ええ、ショックでしたとも。でも、あれだって他でもないアタシです。気に入らないからといって抹殺する訳にも行きません。周囲の人たちには私の亡霊しか見えてないのかとパスポートを呪いました。同じ封筒だったので気づかなかったのですが、二重になったもう一つにはバカなアタシを有頂天にさせる写真が入ってました。早く気づけば差し替えられたのにと口惜しかったです。二種類撮ってくれたのは『気に入らない自分も認めなさい』というメッセージだったのですね。惨めで不幸な亡霊女のパスポートは大事にしなくてはと思い直しました。完敗です。桃ちゃん、大輔さんを離しちゃダメよ、何があってもね。羨ましいけど羨ましがらない女に成長した麗子より、限りなき感謝をこめて。」
「……だってさァ、あっはっは。ほらなッ、バッチリだ!」
「ち、ちょっと、なによ、二枚目の封筒って? そんなのあったぁ?」
「なけりゃ彼女からメールなんか来ねえだろがぁ?」
桃子の心にわだかまっていた重いものは、悪霊が祓われたように消えて、全身の力が一気に抜けた。
「大輔ッ、てめぇ、このヤローッ、心配させやがってえーッ」
桃子が甘えてテーブル越しに大輔をぶつまねをした。大きく腕を振上げたとき、急に浮かせた桃子の尻から小さなおならがでた。
「いいよな、お前は何をやっても可愛くって。あっはっは」
カメラがあれば桃子の可愛い泣き笑いの表情を大輔は逃さなかったに違いない。(了)
自分が愛する女性に他人にはわからない美しさを発見できる男はしあわせだということ書いたまでで、二重封筒に気づかなかった女性たちが現実を見る眼を持たないとか、自己中心的な想像から人を誤解しやすいのが女性だとかを言ったつもりはありません。どう読むかは読者の皆様にお任せる以外にありませんので、謹んで(^^)。