あしおとを失くした少年
とあるそれなりに裕福な家庭に、一人の元気なおとこのこがいました。
おとこのこは、自由な時間であれば、いつも暗くなるまで走り回り続けました。
おとうさんに買ってもらった立派な革靴も、おとこのこにかかればあっという間に泥だらけ。
こつこつ こつこつ
春は目覚めた生き物たちとともに
夏は背を伸ばした草を掻き分け、流れ落ちる汗も気にせず
秋はぬかるんだ地面を踏みしめ
冬は雪の鳴る音をかみ締めながら
走り回ります。
1年、1ヶ月、1日、1秒と姿を変えていく世界を目に焼き付けるために
ときにはゆっくりと歩きながら、走り回ります。
こつこつ こつこつ
おとこのこは少し大きくなり、その間に大抵の場所は行きつくしてしまいました。
しかし、歩くこと、走ることは大好きだったので、もっと速く、遠くまで行くために、走る練習を始めます。
ザッザッ ザッザッ
「目標なんかない。ただ今より少しでも遠くに行って、まだ見たことのないものを見てみたい」
熱心に練習を続けた少年は短い間に、速く、遠くまで走れるようになりました。
しかし、あるときを境に少年の走る速度はまったく伸びなくなってしまいます。
走る距離を伸ばしても、走りこむ時間を増やしても、手の振り方、足の動かし方を変えても、一向に伸びる気配がありません。
少年は自分の可能性に落胆し、季節が2回ほど回ってからは、外で遊びまわることは一切なくなってしまいました。
少年の落ち込みように両親は心配し、一人の術師を見つけてきました。
「彼は人体に対する術式に詳しくて、お前の足をもっとよいものに変えてくれる」
自分の足をごっそり変えてしまうことにためらいはありましたが、このままでいるくらいなら、と少年は術師に足に術をかけてくれるよう依頼します。
あれだけ楽しかった世界も、慣れてしまえばこんなもの。
外で見る景色も、何も無い自分の部屋の窓から見る景色も、どちらも等しく、ただそこにあるというだけで。たいした違いには、決して意味などない。
――なぜそんなことを僕は知ってしまったのだろうか
でも、この足なら、もっと遠くまでいける。少年は、再び希望を取り戻したかのように見えました。
術によって変化した足も安定して、ようやく外に出られるようになった日。
少年はわくわくした気持ちを抑えきれず、早速外へと飛び出しました。
足はきちんと自分の足として機能し、あっという間にいままで超えられなかった限界を超え、彼はまだ見たことのない新しい世界へと足を踏み出したのです。
・・・・・・ ・・・・・・
しかし、なぜかよくわからない違和感が彼の背中に張り付いて消えません。
まるで、ふわふわと浮いているような、自分が本当に地面に立っているのか、そんな不安定な感覚に襲われていました。
そして、歩く最中、自分から足音が抜け落ちてしまっていることに気づいたのです。
どんなに地面を踏みしめ、足をおろしても、何も聞こえないのです。
前を向いて走ると、自分の体が一切見えず、足音が無いため、自分は本当に自分の足で歩いているのか、それともただ絵を見ているだけなのかわからなくなってしまいそうな。
先ほどまで素晴らしく見えていた世界が、急に嘘にまみれていくような。
少年は不安と気持ち悪さで足がすくみ、動けなくなってしまいます。
そこに、少年の足を「良いもの」に変えた術師がいて、彼に問いかけます。
「いかがでしょう、世界一の走者に負けない、素晴らしい足でしょう?」
それはまごうこと無き事実です。足が素晴らしいものに変わったからこそ、また新たな世界まで来ることができたのだから。
しかし、それよりも、少年には自分の足音が無くなったことの恐怖のほうが大きかったのです。
草花を踏みしめる音が好きでした
雪が鳴る音が好きでした
かかとで石畳を鳴らすのが好きでした
絨毯を踏む柔らかな感触と音が好きでした
家を出るときの、わくわくに満ちたあの一歩が作り出す音が好きでした。
自分の行きたい場所へ、どんな場所だろうと、足並みをそろえてともに付いてきてくれる、自分の鳴らす足音が、何より大切だとわかったのです。
あるはずのものが無い違和感だけではない、自分が足を踏み出して歩いているという確かな証拠が、なくなってしまった。
少年は、術師にお願いをします。
「確かにこの足は素晴らしい。けれど、これは僕の足ではない。遠く、遠くばかり見ようとしていたせいで、僕は何が好きで世界を走り回っていたのかを忘れてしまっていた」
だから、僕の足を元に戻して欲しい。
ズルをしてごめんなさい。
僕は、僕の世界をもっと大事にします。
こんなインチキな世界じゃなく、もっと正しく世界を見つけるために。
見たいものだけを愛するのではなく、見えるものももっと愛せるようになるために。
それから、少年が以前ほど速く走る練習をすることはなくなりました。
もちろんまったくやめてしまったわけではありませんが、早く走ろうとしすぎれば、近くにあるものを知らず踏みつけてしまう。そのことがわかったから。
きっと、いや必ず僕は、どこか遠くに行く。
だけど、僕はこれまで見つけた世界を忘れない。
だから、僕はこれから見つける世界を忘れない。
少年は今日も、その日、その場所に鳴る音とともに、彼の世界を走り回っていることでしょう。
ざっざっ、ざっざっ。