第七幕:和解の試み
――早光家・庭に面した部屋――
士武が全面開きの襖から部屋に入ると、恋雨が座っていた。彼女は横を軽く叩き、自分と並ぶよう促す。士武が座ると、恋雨は袋からいくつかの品を取り出し、彼の傷の手当てを始めた。
「何をする気だ?」
「火蜥一族秘伝の薬と軟膏よ。例えば…戦闘中に敵に顔を殴られ、黒目を作ったとする。でも次の日もスパイ活動を続けなければならない。どうすると思う?」
「さあ…変身の術とか?」
恋雨は無表情で士武を見つめる。
「何度も言ってるでしょ。私たち忍者は狸や狐じゃありません。顔の傷やあざを早く治す特別な薬があるの。くノ一たちは冗談で『忍化粧』って呼んでるわ」
「へえ…そういうのを普段も使うの?」
「化粧品として?もちろん違うわ。これはあくまで薬よ。変装用の高級化粧品も別にあるけど、上流階級に扮する任務は稀だから、ほとんど使わない」
「でも…試しに使ってみたいと思わない?ただ…どんな感じか知りたくて」
「私が醜いって言いたいの?」
「いや!そんなことない!ただ…普通の女の子なら一度は気になるだろうなって…」
恋雨は半透明の軟膏を士武のアザに丁寧に塗り続ける。二人はためらいも遠慮もなく会話を交わし、まるで実の兄妹のようだった。無表情な恋雨から感情を読み取るのは士武にとって難しく、彼女は少し考えてから答えた。
「ええ。使ってみたいと思ったことはあります。化粧で私が綺麗になるのか知りたくて」
「私が少し調達してみましょう。小夜に頼んで恋雨さんに付けてもらえば」
「一日中化粧したまま無駄に過ごすの?」
「そうだね。じゃあ、使いたいときが来たら言って。私が用意しておくよ」
「ふむ。祭りの日に合わせておくのがいいかもしれないわね。その方が実用的だし、町娘のふりをしてる私にとっては目立たなくて済むから」
二人の会話は、庭で木刀を振るう侍大の音で遮られた。侍大は距離があり、二人に見られていることに気づいていない。
「彼はあなたを憎んでるの?」
「そう...だろうね。私がここで恵まれた生活を送ってた間、彼は貧困の中で...生きてきたから。どんな生活だったか詳しくは知らないけど、着ていた服からすると...盗人みたいだった。『生きるために戦った』とよく口にしてる」
「なるほど。怨恨ね。話し合おうとはしなかったの?」
「いつも酷く粗暴なんだ。私に対する怒りでいっぱいだ。どうして私にこんなことをすると思う?」
恋雨は再び士武の目を間近で見つめる。これは彼女の癖のようだ。
「士武さん、お父様を継ぎたいんでしょ?偉大な侍は強さだけじゃない。戦略的で、時には外交的でもある。早光一族が低い身分からどうやって頂点に立ったと思うの?多くのライバルを抑えて。あなたはせめて弟さんと同盟を結ぶ方法を見つけなきゃ」
士武は沉思にふける。父から聞かされた双子誕生の物語を思い出していた。早光一族の地位と桜神社からの信頼を守るため、父は自らの意志に反して弟を犠牲にせざるを得なかったのだ。
『恋雨の言う通りだ。侍は犠牲を払い、対立する者や考えとも向き合わねばならない』
「でも...どうすればいい?」
「考えなさい!弟の弱点を見つけるのよ。共通点か、彼にも利益があるように説得するか。彼を知れば道は開けるわ」
士武は腕を組み、思考を巡らせる。
『あの野蛮な態度とは裏腹に、侍大は愛情や敬意を示されると照れる。それに...私以外とは比較的穏やかに接する。恋雨への態度も極めて...異様で、反論すらできなかった』
「私の代わりに話してくれないか?」
「逃げて責任を私に押し付ける気、士武?男らしくしなさい!自分の弟と直に向き合う勇気を持ちなさい」
「そうじゃない!頭を使えって君が言っただろ?今のところ分かっているのは、侍大が無礼なのは私だけだってこと。他の誰とでも礼儀正しく話せる。お互いが信頼する仲介者が最初の一歩かもしれない。そう思わないか?」
「君たち忍者はこういうのよくあるだろ?敵対するグループの間で共通の知り合いを見つけて、休戦や同盟のきっかけにする。よくある戦略じゃないか?」
「分かったわ。調停戦略がやりたいのね。私を仲介者にして弟君と話をさせたいのね。ええ、確かにそれは良いアプローチだわ」
「ああ、でもまだ直接的にじゃない。あいつの性格からして、私が君を利用してるって気づいたら逆に激怒するかもしれない。それに君に頼まれたから仕方なく和解するようなことになったら意味がない。まずは彼をもっと知るべきだと思う」
「じゃあ、私が弟君を説得する代わりに、あなたの代わりに話して彼をもっと理解してあげればいいの?」
士武は嬉しそうに恋雨の肩に手を置く。
「そうだよ、恋雨!君は本当に頭がいいな、まるで私の心を読んでるみたいだ!全部理解してくれたんだね。じゃあ、これでうまくいくかな?やってくれる?」
「私はあなたのためにたくさんのことをしてきたわ、士武。でも今回はお願いというより、忍者として雇われてるみたい。だから今回は代償をもらうわ」
「ああ、そうだな。その『サービス』の料金は?」
恋雨は立ち上がり、庭園の方へ歩きながら言う。
「次回の祭り用の高級化粧セットと、とても素敵な緑色の着物でいいわ」
士武は嬉しそうに笑い、うなずいて同意する。
庭園では、侍大が激しい訓練に没頭していた。始めたばかりなのに、もう全身が汗でびっしょりだ。周りに全く注意を払っておらず、恋雨が近づいてくるのも気づかない。
そこで恋雨は彼を驚かせることにした。彼女は舌を伸ばし、侍大の木刀を3メートル先でぴたりと止めた。
侍大は突然のことに驚き、木刀を離す。恋雨は舌を引っ込めながら木刀を自分の方へ引き寄せた。恋雨だと気づいた侍大はすぐに緊張して顔を赤らめた。
「ど...どうやってそんな?」
「聞いてなかったの?私は忍者、くノ一よ。火蜥一族の血族には生まれつきの能力があるの」
「まじかよ?舌をあんなに伸ばすとか?」
「それだけじゃないわ。簡単に言えば、火蜥一族は山椒魚の特性を真似できるの。山椒魚にできることは全てできると思って」
「は?それ妖怪みたいな話じゃねえか」
「そう、基本は同じよ。超自然的な能力を持つ多くの忍びの一族は、妖怪との繋がりからその力を得ている」
「ある者は契約を通じて、ある者は妖怪の血や臓器の移植で、中には特定の妖怪と交わって半妖を生み、その能力を血統として受け継がせる一族も。他にも、生死を問わず妖怪を材料にして、かなりおぞましい儀式を行う一族も存在するの。」
恋雨はそう言いながら、長い舌を指のように器用に動かしてみせる。侍大は少し畏怖を感じたが、会話中ずっと恋雨を直接見るのが難しい様子だった。激しい鼓動も集中の邪魔をしている。
「あんた...俺のこと怒ってんのか?」
「ええ、怒ってるわ。あんな風に自分の兄を殴るなんて許せない。私は士武が言葉を覚える前から知ってるの。理由もなく大切な人が見知らぬ人に傷つけられるのを見て、怒らない人がいると思う?」
侍大は恋雨の言葉を聞くとすぐに土下座し、頭を地面につけて謝罪した。
「すみませんでした!許してください!」
恋雨は侍大に近寄る。彼女の足元に、頭を低く下げた侍大がいる。
「もう言ったでしょ?本当に謝りたいなら、私ではなく兄にしなさい。私は関係ないわ」
「で...でも...じゃあ、何をすれば?」
「あなたをもっと知りたいの。士武はあなたのことを何も知らないって。だから直接聞こうと思った。なぜそこまで士武を憎むのか」
「それに、私たちの一族は同盟関係なのだから、最低限の付き合いは必要よ。士武と同じように。仕事であっても。だから立ちなさい。簡単に女性に跪く男は好きじゃない」
侍大は立ち上がるが、庭に座り込み、うつむいたまま。恋雨はしゃがみこんで彼を見つめ、侍大をさらに動揺させる。侍大は背を向けてようやく話し始めた。
「あんた...青葉藩の外がどんなか知ってる?」
「ええ、何度も。飢餓、死、病、戦争、人を喰らう妖怪...青葉藩の外は地獄のような所よ。強い者だけが生き残り、弱い者は死ぬか、苦痛と悲惨な人生を送る」
「そうだ。だから俺は強くなるしかなかった。じゃあ...もし自分が味わった苦しみが全て不必要だったと知ったらどう思う?運だけで何不自由なく裕福に暮らしてた双子の兄がいて...理由もなく捨てられたって知ったら?」
「確かに、それは辛いわ。でもそれなら、士武ではなくお父様を恨む方が『公平』じゃない?結局あの人に捨てられたんでしょ」
「親父はそんなつもりじゃ...!!」
侍大は怒りと苦渋に満ちた表情で恋雨に向き直る。泣き声を押し殺しながら叫ぶようにそう言うと、少し落ち着いて再びうつむいた。
「父さんは...俺を...抱きしめて...受け入れてくれた...『強く生きて帰って来いと願っていた』って...父さんは...俺がここにいることを...望んでた...俺を...欲してたんだ...」
侍大はもう涙を堪えきれず、恋雨に向かって泣きじゃくりながら話し始めた。
「俺は...真実を知りたくて...来た。なぜ捨てられたのか。最初は復讐のために士武も父さんも殺すつもりだった...失敗して死ぬと分かってても...でも...父さんが抱きしめてくれた時...初めて...家にいる感じがした...愛されてるって思えた...」
侍大は泣きじゃくって言葉が続けられない。恋雨は彼を抱き寄せ、落ち着くまで慰める。士武は遠くからそれを見ていたが、これは侍大にとってプライベートな瞬間だと気づき、障子を静かに閉めてその場を離れる。泣き止んだ後、恋雨は侍大にハンカチを渡し、彼はそれで涙をぬぐった。
「少しあなたのことが分かってきたわ、侍大。でもね、ためらいなくあなたを受け入れたお父様はすぐ許せたんでしょ?じゃあ士武もあなたを愛している可能性は考えなかったの?」
「俺は...あいつの愛なんか要らない!全部あいつのせいだ!あいつさえいなければ...何も起こらなかった!予言も、捨てられたこともない。あんたの『幼なじみ』も、本来は俺だったはずだ。早光家を継ぐのも俺だった。地獄みたいな生活もなかった。あいつを受け入れるなんて...俺が捨てられて当然だったって認めるようなものだ!」
恋雨は、少なくとも今は侍大と士武の和解は不可能だと悟る。士武の予想通りだった。彼女は考えた――まずは侍大の信頼を得て味方になり、将来士武との仲介役を務めるのが最善だと。士武が頼んだように。
「そうね、士武にはお土産を買ってきたのだから、あなたにも公平に渡すわ。相模にいた時はあなたの存在を知らなかったから、特別なものは準備できなかったけど...今回はこれで許して」
恋雨は袋から美しいターコイズブルーのマフラーを取り出した。高級な生地で作られているようで、侍大が今まで見たこともない質感だった。早光家で貰った新しい着物ですら及ばない上等さだ。
恋雨はそのマフラーを侍大の首に巻きつける。侍大は顔を真っ赤にし、彼女の接近と接触に動揺を隠せない。
「私からのお土産として受け取って。元々は自分のために買ったものだけど、あなたの方が必要だと思ったわ。今日からの私たちの友情の証として」
恋雨は侍大の左頬に軽くキスをすると、立ち上がって別れを告げた。
「また会いましょう、侍大ちゃん。約束してね、せめてこれからは兄さんを殴るのはやめて。私を悲しませたり怒らせたりしたくないでしょ?」
恋雨は庭を後にし、屋敷へ戻っていく。侍大は完全に石化したようだ。呼吸もまばたきもせず、まるで時間が止まったかのようだった。
一方、恋雨は屋敷の別室で士武と落ち合う。侍大との短い会話の内容を説明すると、士武は弟の本心を知って深く感動していた。恋雨は早光家の門前で士武に別れを告げるが、最後に一つ質問した。
「士武、今日は雷士に会わなかったわ」
「望巳さんと出かけてる。買い物か何かだと思う。どうして?」
「じゃあ、これを彼に渡して。雷士へのお土産よ」
恋雨は士武に葛餅を渡した時と似た箱を手渡す。そして士武の右頬にキスをして別れた。
「またね、士武」
「ああ、またな、恋雨」
夕日が沈みかけていた。小夜が庭で石化したままの侍大を発見する。恋雨が去ってから全く動いていない様子に、彼女は恐怖で叫んだ。
「千代さん!早く来て!若侍大様の様子がおかしいです!」