第六幕:火蜥(かせき)一族
――早光家・玄関――
勝侍が馬で屋敷に戻ってきた。一人の男を連れている。昨日、侍大が到着して以来、初めての帰宅だ。
同行する50歳ほどの男は、ごく普通の職人風の格好をしている。二人は座敷に入る。
「茶を二人分用意せよ。それと、士武と侍大を呼べ」
「はい、早光様」
――井戸端――
侍大がぼんやりしていると、使用人が近づく。
「若様、父上が客間へお呼びです。すぐに」
「は…はい」
侍大は状況の重さに気づき、胸が再び高鳴る。
父・勝侍は昨日から一度も家に戻っていなかった。
にもかかわらず、今日わざわざ戻ってきた。自分のために何か重要な仕事を中断してまで――
『やべぇ…よく考えたら、昨日のこと…士武にやったあの仕打ちを知ったら、親父様は俺のこと…どう思うんだ?やっぱり…俺を受け入れたのは間違いだったって思って、また俺を…追い出すんじゃねえか…』
侍大は冷や汗をかきながら、胸を押さえ、ゆっくりと客間へ歩き出す。
まるで処刑台へ向かう囚人のように。
命懸けの戦いなんかより、よっぽど怖い。
父に嫌われること。父を失望させること。
それは、侍大にとって――死闘の百倍も、恐ろしいことだった。
――客間――
襖を開けると、勝侍、士武、恋雨、見知らぬ男が厳しい表情で待っていた。
士武は俯き、恋雨は冷たい視線。勝侍と謎の男は無言の圧を放つ。
勝侍が静かに命じる。
「座れ、侍大。話がある」
「は、はい…お…父様…」
侍大は声を殺して答える。震える手で座ると、偶然恋雨の隣に。頭を深く垂れ、喉が鳴る。
「侍大、こちらは我が家の盟友・火蜥炎嶽様です。火蜥一族は大名に仕える忍の一族。故に普段は職人風の扮装をされている」
「炎嶽様の素性は極秘だ。表ではただの刀鍛冶として振る舞え。だが礼節は忘れるな」
「か、かしこまりました…」
「そしてその隣は炎嶽様の娘で後継者、恋雨です。士武の幼なじみで、忍術の達人でもある。大切に扱え」
侍大は微かに恋雨の方へ顔を向け、こくりと頷くだけ。恋雨は無表情のまま。
勝侍が続ける。
「炎嶽様は儂の父の親友で、早光一族の地位向上に尽力された。彼なくしては儂が上士になることもなかった」
炎嶽は工具箱から酒瓶を取り出し、杯に注ぎながら朗らかに話し始める。
「勝侍くんからお前さんの話は聞いたぞ。ほろ苦い人生だなぁ。いい物語が書けそうだ。お前たちの祖父も筆が達者だったが…生きてたらきっとお前の半生を記してくれただろうに」
炎嶽は少し飲んで、話しながら新しい一杯を注ぎ始めます。
「だがな、お前さんの祖父の最大の欠点は厳しすぎたことだ。勝侍くんも随分苦労して今の地位に就いた。どうやら子育ても同じ手法らしい」
「炎嶽様、朝から酒では…」
「ほら見ろ!石頭め。せめて屋敷では『様』じゃなく『さん』でいいだろう?任務で18日も禁酒してたんだ。休みの日くらい堪能させろ」
勝侍はかすかに微笑む。侍大の肩の力が少し抜ける。どうやら叱責ではないらしい。
「侍大、炎嶽…さんを紹介するだけが目的ではない。彼は我にとって非常に大切な存在で、叔父のようでもあり、時には父親代わりのようでもある。雷士が生まれた時も立ち会った」
「お前たちが生まれた時は色々と問題があってな。炎嶽さんもすぐに立ち会えず、お前の顔を見ることもできなかった。それを今になって補いたい。まるで今、あらためて祝福を授けるかのように。」
炎嶽が頷く。
「双子とは実に興味深い。まだ二人の違いがわからんほどだ」
「もう一つ。炎嶽さんと共に、数日後から一月ほど使命で出る。その間、お前たち三人で早光家を守れ。祈跡殿も残る」
「侍大、そろそろ武士学園に入る準備をせよ。そこで士武を引っ張っていけるよう、期待している」
士武は小さく縮こまる。一方、侍大は胸を張って宣言する。
「任せてください、父様!すぐに学園一の生徒になってみせます!早光一族の後継者としての力を見せつけます!」
炎嶽が豪快に笑う。
「ははは!その意気だ!いいか、お前さんにはここで育てられなかった利点もある。この生命力と柔軟さは、兄弟にはない宝物だ」
侍大は照れくさそうに鼻をこする。
「さて、わしはそろそろ引き上げるとするか。相模への準備がある。恋雨、お前は?」
「はい、おじいちゃん。夕食までには戻ります。お酒のおかわり要りますか?」
「いや、今日はたっぷり持ってきたからな。じゃあ、士武くんとゆっくりしてくるがいい」
炎嶽は勝侍に会釈し、部屋を出る。士武と恋雨も続こうとした時――
「士武、少し残れ。恋雨は外で待っていてくれ」
恋雨が頷き、襖を閉める。侍大は自分にも話があるかと固唾を飲む。
「士武…その顔だが、まさか侍大の仕業か?」
侍大の心臓が止まる。噴水のように汗が吹き出す。
士武は俯いて答える。
「は、はい…祈跡先生がいなくなった後、稽古で…」
「では、侍大がお前を倒したと?」
沈黙が部屋を覆う。侍大は意識が遠くなりそうだ。
「侍大、学園で頭角を現したいというその意気は良い。これまでの生き様は知らんが、強靭な少年に育ったようだ」
「士武は幼い頃から剣に打ち込み、努力を重ねてきた。正式な修行なしで彼を倒すとは…驚きだ」
侍大は息を呑み、目を見開く。
『え…?これ…褒められてる…?』
侍大の顔に笑みが広がる。目尻が下がり、喜びが溢れ出す。一方、士武はさらに深く俯く。
「だが、真の侍は力の制御をわきまえる。訓練で兄弟に重傷を負わせる理由などない。
真の強さとは、力を使わずに済ませられることだ」
侍大はようやく呼吸を整え、父の言葉に驚きの表情を浮かべた。
侍大は再び静止する。心の中で考える。
『じゃあ…士武の方が真の侍ってことか?雷光斬で俺を斬れただろうに…あの時わざと手加減したのか…
――あの馬鹿は、俺とは違って、その一撃を振るわない判断ができたんだ…』
侍大は恥ずかしさに頭を垂れる。一方、士武は父の言葉に救われることはなかった。
なぜならそれは、兄である自分にではなく、弟である侍大に期待しているという宣告だったからだ。
「これ以上、兄弟を傷つけることがないようにな。己の力を制御せよ。士武…お前もさらに精進しろ。侍大に遅れを取るな」
勝侍の声にも表情にも、怒りはなかった。ただの教訓――だが、二人の息子にはそう聞こえない。
勝侍が立ち去ると、士武は侍大を一瞥し、すぐに部屋を出る。縁側で恋雨が待っている。
侍大の頬を一筋の涙が伝う。素早く拭いながら、拳を固く握る。
『泣くんじゃねえ…泣いたって何も変わらねえ!這い上がるんだ…士武を越え、学園の連中を越え、父上の期待を越えてやる!
この世界のどんな困難だって、俺は全部乗り越えてやる!』
――廊下――
士武は父の言葉を反芻しながら歩く。
『そうか…父上は侍大の方が才能があると思ってる。そうだ…もう分かってたことだ。私は…弱いんだ…。きっと、あいつはすぐに私を追い越して、武士学園でも私以上になる…』