第五幕:恋雨(こさめ)
――早光家・朝食の間――
新しい日の太陽が輝いていた。
士武はテーブルに座り、朝食を食べていた。顔にはまだ包帯が貼られ、憂鬱そうに、まるで夢遊病者のようにゆっくりと食事を進める。
そこへ雷士が入ってきて、躊躇いながらも彼の隣に座った。士武は驚く。
『変だ…雷士くんは普段、私を避けて別の時間かテーブルの端で食べるのに…』
しかし雷士の表情は穏やかで、何の感情も読み取れない。しばらく沈黙が続いた後、ようやく声を出す。
「兄さん…今日は…調子どう?」
「ああ…まだ顔がボロボロだし…弟にここまで憎まれるなんて、正直辛いよ」
士武はわざと本音を混ぜ、雷士の反応を探った。
雷士は少し固まり、答える。
「…僕は…兄さんのこと嫌いじゃないよ。でも…理由は言えない。秘密なんだ」
士武は胸が熱くなるのを感じた。この一言は、昨夜の治療薬よりもずっと彼の傷を癒した。
『ということは…雷士くんが私と距離を取ってたのには理由があるのか?望巳さんが止めてるのか?それとも…ただの恥ずかしさ?それとも…もっと他の秘密が?』
士武は礼として、雷士の髪をそっと撫でた。
雷士は顔を赤らめ、士武に見られないように小さく微笑む。
食事を終え、雷士が席を立とうとした時、振り返って淡々と言った。
「でも…僕は兄さんを越えます。侍大も。でも…こんな風に傷つけたりしません」
――早光家・門前――
質素な着物に身を包んだ少女が立っていた。腰まで届く長い黒髪には深紅のリボン。大きな瞳ながら、表情は全くの無表情だった。
門番が前に出る。
「おい嬢ちゃん、何用だ?早光家に用か?」
「はい。士武様に会いに来ました。恋雨っていいます。」
「士武様なら武士学園か稽古中だ。それに、嫡子に面会なんて簡単にできねえよ」
恋雨は首を傾げる。
「変ですね。今日は学園お休みですよ。士武様、ふだんこういう日はちょっと休んでから、祈跡先生と軍略の勉強してると思います。」
「な、なんでそんなこと知ってるんだ?…まさか、お前は敵藩の間者か!?」
もう一人の門番が駆け寄る。
「何やってんだ!この方は若様の幼なじみだ!屋敷への出入りを許されてるぞ!」
「えっ!?す、すみません!お入りください!」
恋雨が中庭へ進むと、士武が縁側に座って景色を眺めていた。彼女の姿に気づくと、笑顔で立ち上がる。
「恋雨!久しぶりだな!来てくれたんだ!」
恋雨は無表情を保ちながらも、士武の傷だらけの顔を見て目を丸くする。
「士武さん…どうしたんです?」
「ああ…それは…長い話だ。後で話すよ。座って。どうだった?どこを回ってた?」
「相模の村々で情報収集をしていました。青葉藩への襲撃計画の噂ですが…詳細は祖父が勝侍様と大名に直接報告します」
「そっか…大変だっただろう?3週間も留守にしてたもんな」
「18日です。お土産を持ってきました。葛餅です。食べてください」
士武が一口食べる。
「うん!美味い!恋雨は甘いもののセンスがあるよ」
「そうですか?前に持ってきた時は『微妙』って言われましたけど」
「え?そんなこと言ったっけ?」
恋雨が少し近づく。
「学園の方はどうですか?」
士武はゴクリと唾を飲み込み、葛餅でむせそうになる。頭を掻き、顔を背けて話題を変えようとする。
「あー…まあ、相変わらずってとこかな。恋雨は?相模で面白いもの見た?」
「まだ自分を『劣等生』だと思ってるんですね」
士武は俯いて、沈黙する。
「はい…私…本当に頑張ってるんです。手を抜いてなんかいません…でも…多分…私には才能がなくて…立派な…侍にはなれないんでしょう」
恋雨は無表情のまま、そっと士武の手の上に自分の手を重ねる。
「士武さん、いつまで自分の欠点ばかり見てるんですか?あなたは下手じゃない。私は何度もあなたの稽古を見てきました。あなたの力はわかっています。問題は才能じゃなく、自信のなさです」
士武は拳を握りしめる。
「でも…周りのみんなが…私より上手くて…」
「他人と比べすぎなんです。過去の自分と比べてみてください。半年前、一年前の士武さんと。そうすれば成長がわかります」
「でも…他人より遅れてる成長に意味なんて…!他人と比べるなって言うけど、基準がなければ…自分の実力も見えない。そんなの…ただの言い訳じゃないですか…」
「皆が同じ速さで成長すると思う方が幻想です。士武さんにとって一番大事なのは、自分の目標に『歩いて』たどり着くのか、『走って』たどり着くのか…どっちですか?思ったより遅く到達したからって、目的地の価値がなくなるんですか?」
士武は黙り込む。反論の言葉が見つからない。
――その時、廊下から声が響いた。
「おい!ヘタレ!練習サボってんじゃねえぞ!」
侍大が現れる。恋雨は侍大と士武を交互に何度も素早く見つめ、急に一歩後ずさる。混乱と警戒の色が浮かぶ。
一方、侍大は恋雨の顔を見た瞬間、真っ赤になって石化した。
士武は居心地悪そうに説明する。
「あ、その…これは私の双子の弟、侍大だ…」
「いつから双子の弟が?」
「だから…長い話だって…昨日来たんだけど…」
恋雨は士武の表情の変化に気づく。先ほどまでの穏やかさが消え、深い悲しみに覆われていた。
彼女は士武にわずか数センチまで近づき、問い詰める。
「その傷…彼の仕業?」
沈黙が重なる。士武は俯いたまま、答えられない。
恋雨は立ち上がり、今度は侍大に詰め寄る。鼻先が触れんばかりの距離で。
「士武さんを殴ったの?自分の兄を?来た初日に?こんな状態にして?」
指を士武に向けながら、声は氷のように冷たい。
侍大は完全にパニック状態だ。
・目が泳ぎ、焦点が定まらない
・顔は血のように赤く、汗が滝のように流れる
・鼓動が雷鳴のように響き渡りそう
・声はかすれ、震え、言葉にならない
「あ…えっと…その…わかんねえ…」
「家族のことに口出しはしない。でも…兄弟を傷つける奴だけは許せない」
「す…すみませんでした…」
「謝るべきは私じゃない。あなたの兄です」
侍大は卒倒しそうになり、その場から逃げ出す。後ろも振り返らない。
恋雨は士武の隣に戻り、葛餅を手に取る。
「で、説明してくれる?それとも…『技』を使って調べる必要がある?」
――井戸端――
侍大は顔を水で洗い、冷静になろうとする。まだ震えが止まらない。
『こ…こいつ…めちゃくちゃ美少女じゃねえか!?あのバカの彼女か?まさか…あいつ、もう彼女できたのかよ!?しかもあんなに可愛いなんて…!クソッ!ボンボンのくせに!彼女までいるとかふざけんな!
しかも、あいつ…きっと全部話したんだろ、俺がやったこと…。あの子、絶対俺のこと一生嫌うじゃねえか…みんなみたいに…』
バケツを蹴り飛ばす。
『クソッ!!なんでだよ!?なんでいつも俺ばっかり…!?なんで全部俺だけうまくいかねえんだよ!?神も仏も俺を虐めて楽しんでるのか!?』