第三幕:疾歩(しっぽう)
――早光家・屋敷――
侍大は屋敷中を歩き回り、部屋の配置を覚えようとする。
『この屋敷……迷路みてえだ。トイレも自分の部屋もすぐわかるようにならねえと……恥かきたくねえ』
廊下を進むと、さっき通った庭に出る。士武が木刀で練習している姿が見えた。今度は侍が一人、傍で指導している。
『は?あのクソ野郎、個人レッスン受けやがって!?』
「若様、足の運びがこの技の要です。足の甲に力を込め、瞬発力を生み出さねばなりません」
侍大が割って入る。
「おい!俺だってこの技習う権利あるんだぞ!」
士武の傍らに立っているのは、大師堂祈跡――早光一族に仕える家臣にして、家老である。
鼻の高さに沿って顔を横断するような傷跡が一本刻まれ、髷を結った典型的な武士の風貌をしていた。
祈跡は侍大の方へ歩み寄ると、ゆっくりと、そして丁寧に頭を下げた。
「ごきげんよう、若侍大様。早光様と士武殿からあなたのことを伺っておりました。拙者は大師堂祈跡、父上様の家老であり、雷鳴瞬光刃流の指南役でございます。これからはあなたにも指導いたします」
「雷鳴…なんとか?」
祈跡は穏やかに笑いながら説明する。
「雷鳴瞬光刃流は、早光家の祖・早光剛三郎が創案した剣術でございます。居合術を基にした速攻の技が特徴で、父上様もさらに発展させられました」
「拙者は父上様の直弟子として、この流派を継承するため、ご子息たちを指導しております。どうぞ、まずは基本の型から……武士学園に入られる前に、少しだけお教えしましょう」
縁側から手を差し伸べる祈跡。侍大は明らかに照れくさそうにしながらも、その手を取る。
――生まれて初めて、これほどの敬意で扱われた。
その重みに、侍大はただただ圧倒されていた。
士武が彼の赤らんだ頬に気づく。視線を感じた侍大は、烈火のごとく睨み返す。士武は慌てて目を逸らした。
「現在、士武殿には雷鳴瞬光刃流の初伝『第一段:雷光斬』の基本を繰り返しております」
「これは中・近距離の敵を抜刀一閃で斬り伏せる技です。中距離の場合、足の踏み込みで体を空中に放り出し、軌道上で抜刀を完了させねばなりません」
「この踏み込みは『疾歩』という独立した技です。足の速さ、踏力、抜刀の精度が求められます。侍大殿は刀のご経験が?」
「…あります。妖怪や野盗と戦って…食い物を盗むために…独学で覚えました」
侍大は顔を背け、最後の言葉を噛みしめるように言った。
「で、でも!正式な修行なんてなくても、妖怪も野盗も何人も斬った!俺の腕は確かです!」
祈跡は温かく頷く。
「それは心強い。戦いの経験はどのような形であれ、財産です」
木刀を手渡し、祈跡は構え方を教える。手の位置、足の幅、腰の入れ方――一つ一つ直しながら、侍大の体を調整していく。
侍大の頬は真っ赤だ。まるで夢を見ている子どものよう。
士武は祈跡に教わった型を繰り返しながら、ちらりと弟を見る。
『あの子………まるで別人みたいだ。私にはあんなに殺気を向けていたのに……他の人には、すぐに心を開くんだな。いや、違う……私にだけ、あんな態度。なぜ?私がここに残ったから?彼が捨てられて、私が残っただけ……でも、それは私のせいじゃない。誰のせいでもない……ただの運命のいたずらだ。』
俯く士武。
『雷士や望巳だって、家族として接してくれているとは言いがたいし……父上の期待にも応えられなかった。そんな中で、また一人……新しい家族が増えたというのに……きっと、この人にも、好かれることはないんだろうな。』
その瞬間――
侍大の足が地面を蹴る。三メートルを一瞬で飛び、地面すれすれを滑るように進んだ。
疾歩だ。
雷光斬の理想的な発動――まさにこの動きだった。
士武は何ヶ月も疾歩の練習を続けてきた。だが侍大は、たった数分でその動きを習得した。
目をぎゅっと閉じ、悔しさを噛みしめる。
『この新参者の弟ですら……私より……』
一方、侍大は満面の笑みだ。祈跡が褒めている。
「見事です、侍大殿!疾歩の理合いを完璧に理解されました。ただし――」
「これは雷光斬の補助技に過ぎません。あくまで主役は抜刀の速さと精度です」
「心配いりません、祈跡先生!一週間で雷光斬をマスターしてみせます!」
「ははは。その意気や良し。ただし、そんなに簡単な技ではないので、焦りは禁物です」
祈跡が侍大の頭を撫でると、彼は嬉しそうに頬を緩めた。
夕暮れ時。雷士が屋敷の廊下を歩く。今日の稽古も終えたばかりだ。
――回想――
『母上、なぜ僕だけ別の先生なの?士武にい……いや、士武と同じでは……』
『雷士、あの子を追い越すには特別な方法が必要よ。同じ師匠では同じ成長しかできない。このままでは、父上の後継者にはなれないわ』
――現在・廊下――
雷士はふと、庭で稽古する士武と侍大の姿を目にする。祈跡の指導を受ける二人をじっと見つめ、やがてそっとその場を去る。
祈跡が手を叩き、稽古の終了を告げる。
「士武殿、侍大殿、今日はここまで。過度な鍛錬は体を壊すだけです。教えた型をあと十回ほど繰り返したら、必ず休むように」
「はい、祈跡先生。でも、俺はまだ続けられそうですが」
侍大はちらりと士武を見る。明らかに優越感に満ちた視線だ。
「その心意気は結構ですが、焦る必要はありません。力はおありです。あとは技術を磨くだけ。着実にいきましょう」
祈跡は縁側に上がり、一礼する。
「では、明日また。良い休養を」
祈跡が屋敷を去ると、庭に残された兄弟はそれぞれの練習を続けていた。
――その瞬間、侍大が士武に木刀を向ける。
「なあ、朝の決闘の続きをやらないか?」
士武は躊躇する。しかし、侍大の目には最早純粋な憎悪はない。ただの傲岸と自信――それでも見下しているのは変わらないが、確かに以前よりはマシだ。
「祈跡先生の言いつけを聞いてないのか? あと少し練習したら休むんだ」
「は? 練習してるさ。実戦だって立派な稽古だろ? それとも……俺に負けるのが怖いのか?」
士武は挑発に乗り、ため息をついた。
「わかった。だが真剣は使わない。それに、全力で打ち合うのも禁止だ。明日から毎日稽古があるんだ。おまえも明日から武士学園だろ?」
「はっ!俺の力を怖がってるんだろ?まあ、弱いくせに無理すんなよ」
「違う。学園に行けばわかる。木刀の稽古は力より技の正確さを――」
「はいはい、うぜえな。さっさと始めようぜ」
二人は庭の中央で向き合い、構える。侍大は一日かけてようやく正しい構えを覚えた。元盗賊時代の我流の姿勢とはまるで違う。
『この甘ったれボンボンに徹底的に負かしてやる。そうすれば父上の後継なんか諦めるだろ』
一方、士武は深く呼吸し、心を落ち着かせようとする。
『彼は本当に稽古がしたいのか?それとも…ただ私より強いことを証明したいだけか?』