第二十三幕:黄昇(こうしょう)からの出立
侍大は早光家の屋敷の外へ歩み出た。誰かを探している様子だった。すると、一人の女中が近づいてきた。
「士武様?」
侍大はびくっとし、慌てて振り返ると、必死で取り繕おうとした。
「な、なんだ?いや……何か用か?」
「大師堂様がお探しです」
侍大は祈跡のもとへ向かう。まだ少し緊張しており、自分が侍大だと気づかれるのではないかとヒヤヒヤしていた。祈跡は『士武』に話しかける。
「士武殿、弟君の準備は整いましたか?」
「ああ……侍大か?あのバカ……いや、あの馬鹿者は先生の昨日の説明をろくに聞いてなかったんだ!今頃になって慌てて支度してるぜ。ははは!」
侍大は話しながら少し汗をかいた。祈跡は片眉を上げる。
「そうだろうと思っておりました。無論、彼が学園で必要なものは全て準備してあります。新しい着物も仕立てさせました。家紋を入れるのに時間がかかりましたが、裃、小袖、袴など、早光家の後継者にふさわしい装いを整えました」
侍大は目を丸くし、少し感動した。
『え…先生は本当に俺のために全部準備してくれてたのか?』
「しかし、士武殿が弟君のことをそんな風に話すのは珍しいですね。普段はもっと敬意を持ってお話しになるのですが」
侍大は喉を鳴らし、正体がバレたかと焦った。
『ってことは…あのバカ兄貴、先生の前では俺のことを褒めてたのか?』
「えーっと……その……だんだん慣れてきたってことです、先生。あいつは弟ですし……まあ……」
「それは素晴らしい、士武殿。やはりあの試練の後、お二人の関係は良くなったのでしょう。士武殿なら侍大殿と打ち解けられると信じておりました。あの子は……」
侍大は凍りつき、否定的な言葉を待ち構えた。
『先生は俺のことをどう思ってるんだ……?』
「……少々せっかちなところがあります。だからこそ、月下楓の試練を考えたのです。
士武殿には、弟君に忍耐を教えてほしかった。あの子は何事にも勢い余ってしまいます。
もう少し落ち着くことを学べば、立派な侍になるでしょう」
侍大は悪く言われなかったことに安堵する。
「じゃあ……『忍耐』の紋章はあいつ《俺》のためだったのか?」
「その通りです。士武殿が月下楓の伝えを通じて、侍大殿に忍耐を教えるためでした。
『勇気』の紋章が侍大殿から士武殿への教えであったように。
そして『信頼』の紋章は二人のためのものでした。月影の森で刀を一本しか持たずに向かう以上、どちらが持とうと、互いを信じ合う必要があったのですから」
『……やっぱりあのバカ兄貴、先生の意図を全部理解してたんだな』
「では、侍大殿の様子を見て参りましょう。失礼いたします、士武殿」
侍大は屋敷の入口へ向かった。そこには二つの駕籠、五頭の馬、そして十数人の従者が待っていた。
雷士も既に到着していることに気づく。侍大は少し躊躇いながら、緊張した面持ちで彼に近づいた。
『俺は今…士武のフリをしてるんだから、雷士も拒絶しないよな?でも……
今朝あいつが距離を置いてきた理由があの女将のせいだとしたら?
士武としても拒まれるのか?旅が始まってから話しかけた方がいいかも…?』
侍大が考え込んでいるうちに、突然誰かが彼の肩に触れた。あまりに集中していた侍大はびくっと飛び上がり、小さな悲鳴まで上げてしまい、周囲の視線を集めてしまった。
振り向くと、そこには恋雨が立っていた。
「士武様?大丈夫ですか?」
「あ、ええ!大丈夫です、恋雨ちゃ…いえ、恋雨…」
恋雨は「士武」の奇妙な反応に眉をひそめ、じっと目を見つめてきた。侍大はその接近と視線に耐えきれず、汗をかき、顔を真っ赤に染めていった。
『ああ…もう…士武のフリするのやめたい。こいつ…可愛すぎるんだよ!こんな風に見つめられたら……俺……耐えられねえ……』
恋雨は「士武」の異常な反応を察したが、普段から無表情なため、侍大には彼女の考えが全く読めなかった。
そこへ、本物の士武が祈跡と共に到着する。
「さて、全員揃ったな。そろそろ出発しよう。長く危険な旅になるが、問題はないだろう。士武殿、侍大殿、雷士殿。駕籠は二つある。誰か二人は同乗せねばならん」
士武がさっと前に出て提案した。
「兄上は恋雨ちゃんと二人きりになりたいだろうから、俺が雷士と一緒に行くよ」
侍大は凍り付いた。
『えええええええええ!?俺が……恋雨ちゃんと二人きり……!?何日も………!?死ぬ……バカ兄貴!!!大嫌いだ!!!』
「雷士殿、それでよろしいかな?」
雷士は無言で頷いた。
「では、出発とする。駕籠に乗れ」
侍大が駕籠に乗り込もうとした時、一人の護衛に気が付いた。
背の低い、白いウェーブのかかった髪の男で、顔を覆う仮面を着けていた。無表情な目をしており、侍大の駕籠の横に馬で並ぶように移動した。
駕籠に入る前に、侍大は祈跡に尋ねた。
「あの、祈跡先生…父上は?俺……私たちを見送りに来ないんですか?」
「勝侍殿は今、些事にお忙しい。だが心配するな、士武殿。
父上がお前に話した通り、すぐに相模への任務で旅立たれる。
数日のうちに緑環都で大名家と会う予定だ。
ましてや、特に侍大殿のような、ようやく戻ってきた息子を見送らずに旅立たれるはずがない」
侍大は凍りつき、胸が熱くなった。
「侍大…と?」
「そうだ。まだ侍大殿が帰ってきてから日が浅い。
勝侍殿としては、もう少し親子の時間を持ちたいところだろう。
だからこそ、すぐにまた会えるこの機会を逃さず、今は見送りを控えたのだ」
侍大の心は熱く震えた。外見は冷静に「士武」を演じ続けていたが、内心では泣き叫びたいほどの感動に包まれていた。
駕籠に乗り込むと、そこには既に恋雨が待っていた。侍大は完全に硬直し、額には滝のような汗、顔は俯いたまま、激しい鼓動で胸が波打つのが分かるほどだった。
『ああ……もう死ぬ……誰か助けて……!心臓が爆発しそうだ!!!』
侍大はちらりと恋雨を見て、すぐに目を逸らした。
『兄貴と恋雨ちゃんは付き合ってるはずだ。もう…口づけぐらいは交わしてるのか?
あのスケベ兄貴のことだ…当然だろ!もっとえげつないことしてるのも見たことあるし!
じゃあ今度は俺に口づけしてこようとするのか?二人きりだし…!?
神様…仏様…!俺まだ準備できてねえ!!!』
「士武様?」
「は、はい!!!」
「もう『あのこと』をなさるお時間では?」
「あ、あああああのこと………ど、どどどどれですか?」
「いつも一緒に旅する時にするあれです。お忘れですか?」
「い、いっしょにする……?」
侍大は泡を吹いて気を失った。純情な心には刺激が強すぎた。恋雨は彼を寝ているようにうまく姿勢を整えた。
『やはり侍大だったわ。敵よりはましでしょう』
恋雨は|青葉藩三大忍び衆の一角・火蜥家の嫡女であり、早光家の直臣である。
そのため、常に周囲の些細な違和感を見抜く訓練を受けていた。別人が偽装するのは稀だが、特に顔見知り相手なら尚更難しい。
だが、化け狸や妖狐、あるいは高等変装術を使う忍者も存在する。
さらに忍術の性質上、熟練した忍者は常に未知の術――特に超常的で予測不能な能力に警戒する。奇妙な能力を持つ忍者との遭遇は珍しくない。
恋雨はそのような未知の能力を即座に見抜き、弱点を見つけ、対処法を考える訓練を受けていた。
屋敷で「士武」が不自然に立ち去るのを見た時、彼女はすぐに本物ではないと気付いた。
士武は彼女が最もよく知る人物だったからだ。幼い頃からの付き合いゆえ、些細な違いも見逃さない。
怪しんだ恋雨はわざと曖昧な言葉で試した。実際、彼らに「旅の習慣」など存在しない。平民を演じる彼女が同行することなど稀なのだ。
この偽物が士武らしく反応しなかったことで、疑惑は確信へと変わった。
だが、この偽物が赤面し動揺する様子は、侍大の特徴に一致した。ゆえに彼女は過剰な警戒はせず、静観することを選んだのである。
***
――もう一つの駕籠では、士武がくつろいだ姿勢で座り、雷士は端正に瞑想していた。
『こんなふうにだらしなく座るの初めてだ...意外と悪くないな。【模範的な嫡男】じゃなくてもいいんだ』
「侍大さん。そのような無作法な座り方でよろしいのですか?
祈跡先生はそう教えられましたか?
それに、駕籠を担ぐ者たちのこともお考えください。姿勢が乱れると余計な負担がかかります」
士武はすぐに姿勢を正した。
『しまった!本物の侍大なら雷士の言うことなんて聞かないのに…でも人足たちにまで無礼はできない。五日間も担いでくれるんだぞ』
士武は瞑想する雷士を観察した。
『考えてみれば、雷士は私に心を開いたことがない。避けてる時もあれば、好意を見せる時も…侍大のフリをすれば、近づけるだろうか?』
「おい、ガキ!お前剣術どうだ?あの…雷光斬とか使えるのか?」
「なぜ知りたいのですか、侍大さん?」
「えっと…その…俺、今週から雷光斬と雷鳴瞬光刃流の基本を習い始めたんだ。
あんたたちとどれくらい差があるのか知りたくて…。俺は…あんたたちを越えなきゃいけないから」
「敵にそんな情報を明かす理由がありますか?」
士武は言葉に詰まった。
『【敵】? 雷士は侍大のことをそう見てるのか? それとも…私のことも?』
首を振って否定する。
『違う、そんなはずない!侍大は私を憎んでるし、雷士は私を敵視してる。でも…私たちは兄弟だろ?こんな関係でいいはずがない!』
『試練で侍大から学んだ。あいつは私を憎んでいても、協力する勇気を持ってた。
それどころか、赤面しながらも私に頼み事できた。憎んでる侍大でさえ近づいてきたんだ。
雷士だって…』
『それに、雷士は私を憎んでないはずだ。
侍大が来た日、私が殴られた時も心配してくれた。
橘子の【事件】の時も、私が切腹するんじゃないかと本当に怖がってた。
距離を置いてるのには、きっと理由がある』
『とにかく、雷士が侍大にこんな態度を取るままにはできない。私が…二人の兄として、何とかしなきゃ!』
***
早光家屋敷では、警備の侍が使用人部屋の近くを通りかかり、物置から音がするのに気づいた。橘子が短期間寝起きしていた小部屋だ。
侍は不審に思い扉を開ける。中では女中の一人が縛られ、口を塞がれていた。
「おい、鈴!?」
急いで口枷を外し、縄を解く。
「鈴、どうした? お前は早光様の息子たちの供で旅に出るはずじゃなかったか? 誰がお前をこんなことに…?」
「わ…わかりません。顔も見えませんでした。あまりに速くて…」
一行の中では、3人の女中が徒歩で双子と雷士に付き添っていた。その中に………鈴が?




