第二十二幕:双子の変わり身の密約
朝日が昇り始めた頃、侍大は布団の上で大の字になって爆睡していた。口からは涎が垂れ、鼻には小さな寝息の泡がぷくりと浮かんでいる。
そこへ、士武が部屋の戸を勢いよく開けて入ってきた。
「おい、侍大!寝坊すんなよ、もうすぐ出発だぞ!」
突然の大声に飛び起きた侍大は、反射的に枕を士武に投げつける。それが士武の顔に命中し、そのまま床に倒れ込む。
「いってぇ!何すんだよ、バカ!」
「お前のせいだろうが!あんなドデカい声で起こすなんて非常識すぎんだよ!それに『バカ』って言うな、バカァ!」
士武はニヤッと意地悪そうに笑う。
「ふーん、何?『バカ』って言われたら泣くの?それとも、君だけは人に『バカ』って言っていいのか?」
侍大は顔を真っ赤にして、飛びかかる。
「てめぇ……誰が泣くって?今すぐ泣かせてやるよ、このスケベ兄貴!!」
「おう?望むところだ。バカ!バカ!バカ!バカ!」
「黙れええええええええっ!!」
──その様子を女中たちは遠巻きに見ている。すでにこの双子の騒動は日常茶飯事。誰も止め方がわからなくなっていた。
そこへ、恋雨がすっと部屋に入ってくる。
「まあまあ……朝っぱらからこの騒ぎ。そんな態度で、よくもまあ跡継ぎを名乗れたものですね」
その一言に、双子の喧嘩はぴたりと止まった。
侍大はその場で固まり、顔を真っ赤に染めて下を向く。士武はすかさずその隙に脱出する。
「悪いのはあいつだよ、恋雨。私がちょっと話しかけただけで、すぐ怒鳴って殴ってくるんだ。もう、ホントに無理」
士武はいつものように侍大の爆発を待っていたが、何も返ってこない。見ると、侍大は顔を隠すように下を向いたまま、肩を小さく揺らしていた。
「おい……大丈夫か、侍大?何か言い返さないのか?」
侍大は士武を一瞥し、それから顔を伏せて、そっと首を横に振った。
「え……?」
士武は首をかしげながらも、恋雨と一緒に部屋を出ていった。
「じゃ、侍大。準備しとけよ。もうすぐ出発だから。君のせいで遅れたら、父上に怒鳴られるからな。父上、時間にうるさいし」
部屋の戸を閉めた後、士武は恋雨に小声で尋ねた。
「ねえ……あの日以来、侍大に何か言った?」
「いえ、私はそれ以来、一度もこちらに来ていませんが?どうして?」
「いや、あいつが今日はやけにおとなしいからさ。前もそんな感じだったし。もしかして……恋雨の火蜥蜴の舌で脅されたのか?あるいは、私を殴った仕返しに何かされたとか……」
「士武。私はあなたに報告したこと以外、何もしておりません。恐らくは、彼が私の前であなたと争うことをためらっているだけでしょう。前回、私が彼を叱責したから」
「ふーん……それだけかなぁ……?」
────
一方、準備を終えた侍大は、食堂に向かった。
そこには雷士が一人で朝食をとっていた。侍大が入ってくると、雷士はさりげなく距離を取って、少し離れた場所へ移動した。
『……まだ俺のこと避けてんのか?この前、脅したからか?それとも……昨日、士武と話したのを母親に怒られたからか……?』
侍大は不安になりながらも、意を決して口を開いた――
「おい、チビ。なんで朝っぱらからこんなに慌てて準備してんだ?士武は『遅れるな』って言ってたけど、何のためだよ?」
雷士は顔を向けず、無機質な声で答えた。
「本日、僕たちは武士学園へ向かいます。あなたの師匠は何もおっしゃらなかったのですか?」
「えっ……!あ、ああ!でもさ、士武は『旅に出る』みたいな感じで言ってたぞ?武士学園って、この黄昇にあるんじゃねえのか?」
「侍大さん。申し訳ありませんが、食事中です。今は話しかけないでください」
雷士のその言葉は、侍大の心に拒絶のように突き刺さり、彼は深く傷ついた。
『……やっぱ、俺のこと……嫌ってるんだ。知ってたけど……やっぱ、つらいな……』
***
──食事を終えた侍大は、士武を探しに走った。
やがて、廊下で恋雨と話している士武を見つける。しかし、恋雨の姿を見た瞬間、近づく勇気が湧かなかった。
代わりに、そこらの盆から拾った数粒の栗を、力いっぱい士武の頭に投げつけた。
「いってぇっ!」
「どうされました、士武さん?」
士武は落ちた栗を拾って、後ろを振り返ると、侍大が手を振ってこっそり合図していた。
「い、いや、なんでもないよ、恋雨ちゃん。また後でね」
士武はすぐに彼のもとへ行き、二人だけの場所へと移動した。
「どうしたんだ、侍大。何かあったのかい?」
「なあ……俺たちって、旅に出るんだよな? その……『武士学園』って場所に……。祈跡先生、昨日説明してたみたいだけど……俺、途中で寝ちゃって……その……あんまり……聞いてなくて……」
士武はため息をつくが、怒らずに話す。
「うん。青葉藩の首都・緑環都まで旅をするんだ。武士学園はその城下にある。
だから、旅の準備が必要なんだ。君も先生の指示に従って、持ち物を揃えておいた方がいい。三十分後に出発だよ」
侍大は何か言いたげな顔をしていた。
「……まさか、何も準備してないのか?」
その言葉に、侍大はびくっとして防御態勢に入る。
「い、いや、その……忘れてたんだよ、悪かったな!だいたい、俺の持ち物なんてまだ少ねーし、何を持ってけばいいのかもよくわかんねーし!」
「わかった、落ち着いて。祈跡先生は君のことをよく分かっているから、話を聞いていなかったのも察していたかもしれない。
だから、必要な物は用意されてるはずだ。ただ、着替えは自分で持ってこいよ」
侍大はまだどこかソワソワしていて、明らかに何かを隠している様子だった。
士武は、今朝の恋雨に対する態度も思い出して、気になって仕方がなかった。
「……なあ、侍大。本当にどうしたんだ?私には話してもいいぞ。馬鹿にしたりなんてしない。侍の誓いだ」
その言葉に、侍大はしばらく黙って辺りを見回したあと、ようやく決心したように口を開いた。
「……なあ、約束……しない?」
「約束?うん、いいよ。何について?」
侍大は背を向け、士武の顔を見られないまま、しどろもどろに言った。
「……あのさ……その……旅の間だけでいいから……俺たち……入れ替わってくれない?」
「入れ替わる……?」
「そう……一度だけでいい。俺と、お前の……立場を……」
士武は混乱した表情を浮かべた。まるで知っている侍大とも、森で見せた別の顔の彼とも違うように感じられた。
「……条件は何でもいい。何でもやるから……ただ、理由は聞かないでくれ。それだけはダメなんだ。……頼む。いいか……?」
「……なんでも?」
「うん、なんでも。俺にとってどんなに屈辱的でも構わない。ただ……理由だけは聞かないでくれ。それだけは絶対にダメだ」
士武は侍大の腕を取り、自分の部屋に引き込むと、戸を閉めた。
「わかった、侍大。私は乗るよ。面白そうだしな。せっかくだから、私たちそっくりってことを活かしてみようじゃないか。誰が見破れるかな?」
侍大はほっとしたように笑みを浮かべ、少し肩の力を抜いた。
「だよな?面白そうだよな。でも……その……見返りは?」
侍大の表情には、不安が滲んでいた。
『……ほんと、侍大の考えてることは読めない。突拍子もないし、妙に自己犠牲的なところもある。私を演じる代わりに、どんな恥も受け入れる覚悟か……どうしてそこまで……』
「そうだな……ちょっと考えさせて。何でも頼めるって言ったよな?だったら、この機会を無駄にしたくない」
侍大は、士武が何を言い出すのか不安そうにしている。
「理由は話せないって言うなら……せめて、それ以外の君のことを教えてほしいんだ」
「は?何の話だ?」
「うーん、たとえばさ、好きなこととか、嫌いなこと(私以外で)、昔のこと、夢とか。要するに……普通に会話したいんだよ、君と。殴られたり、罵られたりせずに、ただ話したい。ダメかな?」
侍大は視線を逸らしながら、小さくうなずいた。
「……それだけ?本当に?」
「そう、それだけでいい。君をからかって楽しんだって、何の意味もない。私は……バカにし合う兄弟より、心から仲良くできる兄弟がいいんだ」
侍大は再び背を向け、顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「わ、わかったよ!約束だ!」
────
二人は互いの衣を脱ぎ、入れ替えて着替えた。
「聞けよ、侍大。私を演じたいなら、一番難しいのは『話し方』だ。君はまだ祈跡先生の言葉遣いの修行中だろう? 私は『俺』なんて絶対使わない。『私』だ。口調を間違えたら一発でバレるぞ」
「了解。そっちは?俺のフリ、できんのか?」
「ふふふ……もちろん。私は君に何度も殴られて、罵倒されてきたからな。クセはもう完璧に覚えた。見せてやるよ。……気を悪くするなよ?君の提案だし、私は全力でやるから」
士武は深く息を吸い、目を閉じ――そして、目を開いた瞬間、声のトーンが一変した。
「てめぇこの野郎!とっとと消え失せろや、バーカ!!足手まといのヘタレがよぉ!!いっつもいっつも俺の邪魔ばっかしやがって、このクソボケ!!」
──その一撃は、侍大の心に直撃した。わかっていても、本気の「再現」は心に刺さる。しかし、侍大はすぐに気を取り直して、心の中で静かに考えた。
『……これが、士武にとっての俺?いや、ちがう。これは……俺が、あいつに対してやってきたことなんだ』
「どうだった?泣きそうになったりは……してないよな?」
士武が元の優しい口調で戻ると、侍大はぷいっとそっぽを向いた。
「か、か、か、か、からかうなよ!ちょっとやりすぎだっつーの!べ、別に……今はもうそんなにお前に乱暴してねーし……たぶん……」
「だよね。でも、もう一つだけ注意しておきたい。……恋雨のことだ」
侍大はピクッと反応し、頬を真っ赤にした。まさか、士武が自分と恋雨のことを話すつもりなのかと思って。
「な、な、な、なんだよ彼女が……!」
「緑環都までの旅は、盗賊や妖怪、他藩の刺客に備えて護衛が必要になる。
恋雨はその一人だ。彼女は『奉公人のふり』をして同行する。
……これを知ってるのは、君と私、それに雷士と祈跡先生だけ。
だから彼女には、ただの女中として接してくれ」
侍大は目に見えて安堵した表情を見せた。
「なーんだ、それだけか。じゃあ、全然いいよ!」
「……は?『それだけ』ってどういう意味だよ?何か変なこと想像してたのか?」
「な、なにもないってば!バカ兄貴!!」
侍大はくるっと背を向け、そのまま部屋を出ようとする。
「今から『私』は『君』で、『お前』は『俺』だからなー。だから、私の荷物は『君』が運んでくれよな~?じゃ、また後で、『弟くん』!」
そう言い残して、侍大は部屋を出て戸を閉めた。
士武はその場に立ち尽くし、やがて顔をしかめた。
『あの……バカが……!!結局、私に荷物の準備させたかっただけじゃねぇか!!!』
────
廊下を足早に進む侍大。まだ胸の鼓動は速く、手も少し汗ばんでいる。
『やった……うまくいった……!士武が……引き受けてくれた……!しかも手伝ってくれるなんて……
これで、雷士と恋雨が……俺のことを本当はどう思ってるか、確かめられる……!』




