第二十一幕:鏡に映る姿は、君ではなく兄かもしれない
翌朝――
罰の試練から帰還した兄弟の翌日。朝日が昇る頃には、勝侍はすでに朝食を終えようとしていた。
その時、雷士が部屋に入ってくる。
「おはようございます、父上」
「おはよう、雷士」
雷士は席につき、静かに食べ始める。しばらくして、彼は口を開いた。
「父上……昨日、ついに雷光斬を使えるようになりました。疾歩も、瞬間の眼も覚えました。あとは……もっと力強く、速く技を出せるようになるだけです」
「それは見事だ、雷士。瞬間の眼は雷鳴瞬光刃流の中でも最も習得が難しい部分だ。常人の身体能力を超えた感覚を必要とするからな。十歳でそれを会得したお前は、すでに私と肩を並べるほどだ」
雷士は嬉しそうに微笑むが、すぐに表情を引き締めた。
「今は体の力にこだわる必要はない。お前はまだ若い。これから筋肉や骨格も発達していく。今のうちに瞬間の眼を完全に自分のものにするのだ。成長したその時、きっとお前はまったく新しい次元に到達するだろう」
「はい、父上……でも……実は……裏道先生にも、どうやったら強くなれるか相談しました。それで色んな鍛錬をさせられて……本当に強くなれるんでしょうか?僕、士武兄様や侍大兄様より、たった二歳しか違わないのに、あの二人のほうが筋肉も大きくて……」
「ならば、裏道殿の教えを信じて励み続けるのだ、雷士。侍は生まれながらではなく、日々の鍛錬で鍛え上げられる。今日のお前は、昨日のお前よりも強い。それが大切なことだ」
「……はい、父上」
──その後、雷士は屋敷の外庭へ出て、一人で修行をしていた。
藁縄を幹に巻きつけた木に向かって、木刀で連続して打ち込んでいる。汗だくで、息も荒く、上半身は裸のままだ。
『ちくしょっ……まだ四十九回しかできてないのに、もうバテバテだ……百回って、裏道先生が言ってたのに……明日には武士学園に戻るのに、こんな状態じゃダメだ……』
──その頃、侍大は屋敷内をふらふらと歩いていた。
『チッ、罰の試練で一日外にいたせいで、また屋敷の構造を忘れちまった……全然覚えられねえな、まだ』
外庭を通りかかると、雷士が必死に修行している姿が目に入った。
そして昨日、橘子に言われた言葉が頭をよぎる。
【ジンと気が合わないなら、ライトと仲良くしてみなよ。あんた、きっと彼のこと気に入ると思うよ】
『……橘子のやつ、俺のことよくわかってんな。あいつが気に入った子なら、もしかしたら士武よりも相性いいかもな。でも……』
脳裏に浮かぶのは、屋敷に来た初日、雷士にした脅しと嫌がらせ。
『……俺があいつと話したの、あの時だけだよな。橘子は、それを知らなかったのか……今さら普通に話すの、ちょっと気まずいな……』
その時、雷士が限界で倒れ込む。
しばらく躊躇した後、侍大は意を決して近づく。顔を逸らしながら、あくまで「たまたま通りかかった風」を装って話しかけた。
「おい、チビ。お前、そのやり方じゃ腕がすぐに疲れるぞ。叩くんじゃなくて、体全体を使え。腰を使って、体をひねるんだ。じゃねえと、無駄に疲れるだけで、全然強くならねえぞ」
雷士は驚いて侍大を見上げた。初めて話しかけられた時は、恐怖そのものだった侍大から、いきなり「助言」が来たのだ。
しかも、侍大は赤くなりながら目線をそらしており、明らかに直視を避けていた――
「ありがとう、あに……侍大」
その一言だけで、侍大の顔は真っ赤に染まった。
「兄」だとか「兄貴」だとか、そんな風に呼ばれたことがなかった彼は、もうそれだけで舞い上がってしまった。
勢いよく雷士を立たせると、そのまま実演に移る。
「よく見とけ!こうやって体をひねるんだ。腰と脚の力を使って、腕にその力を流し込むように振る。つまり体全体で腕を助けてるってわけ。こう、な!」
雷士は、顔を真っ赤にして動きを教える侍大の姿を見て、つい小さく吹き出してしまった。それに気づいた侍大はすぐさま防御姿勢に入る。
「な、な、な、なんで笑ってんだよ、おい!」
「いや、別に。でも……なんでそんなに照れてるの?」
その直球の質問が、侍大の心臓にクリティカルヒットを放った。感情の急所を突かれた彼は、もう言い訳もできない。
「べ、べ、別に照れてねーし!バカかお前!?侍が照れるかよ!!照れたら切腹だぞ、切腹!!」
「でも……顔が真っ赤ですよ?」
「だまれええええええええっ!!!」
侍大はその場にしゃがみこみ、顔を両手で隠してしまった。完全に無防備な姿。
雷士は混乱してしまう。
『……これ、士武兄さん?でも……なんでこんな話し方してるの?もし侍大なら……なんでこんな風に?なんか、まるで士武兄さんみたい……』
「……あの、兄さん……あなたは侍大?それとも士武……?」
侍大はその言葉を聞いて、心の中でひらめいた。今のは、自分の恥ずかしさから逃れるための絶好のチャンスだった。このままでは恥ずかしさで死んでしまう。
「……ああ、私だよ、士武だ。まったく、あんなバカと間違えるなんてな、お前どうかしてんじゃねぇの?」
侍大は立ち上がり、まだ頬が赤いまま、なんとか「士武らしく」振る舞おうとした。
「ご、ごめんね、士武兄さん。だって、二人ともそっくりなんだもん。でも……なんで話し方が侍大っぽいの?」
侍大は焦る。口調の違いがバレそうだった。
「そ、それはな……あいつと一日中、森で一緒にいたから……ちょっと喋り方がうつったんだよ、あはは……!」
「うーん……でも、話し方だけじゃなくて、態度もなんだか違うような……」
「そ、それはだな……あいつと一緒にいるのが、あまりにも気疲れしでさ……。ほら、お前も一度あいつに脅されたろ?あいつのこと、うざいと思わないか?どうせお前だって、あんなの家から追い出すべきだって……バカで、ろくでなしで、どうせ侍になれねぇようなやつだって思ってんだろ?」
──気づかぬうちに、侍大の本音がこぼれていた。それは、彼自身が「周囲からそう見られている」と思い込んでいた、心の叫びでもあった。
「うん、あいつには脅された。でも……その時の兄さんの目は、怒ってるようには見えなかった。僕も、あいつのことを恨んでなんかいないよ。侍大がどんな過去を持ってるかは知らない。でも、彼は僕の兄だ。だから、悪く思ったりなんてしないよ」
──侍大の心が、止まった。涙がこみ上げそうになるのを、必死に堪える。
「……で、でも……その……侍大のこと、悪く思わないって……どうして……?」
「侍大は、乱暴で怒りっぽいけど……女中さんたちにはとっても優しいし、大師堂殿のこともすごく慕ってる。だから、きっと悪い人じゃない。きっと、赤ん坊の頃に捨てられたことが、ずっと心の傷になってるんだと思う。僕には想像もつかないよ、どれだけ辛かったか……」
侍大の表情が柔らかくなる。それでも、感情を見せまいと必死で「士武」を演じ続けるが――彼の心はもう、とっくに泣いていた。
「……そうだね。侍大は……悪い人じゃない。ただ……誤解されてて、孤独で……さびしがり屋なんだと思う」
「えっ?侍大って、さびしがり屋なの?」
侍大は、顔を真っ赤に染めた。自分でうっかり、本音を漏らしてしまったことに気づいたが、もう止められなかった。
「そ、そう。なんていうか……一緒に森をさまよってるうちに、気づいたんだ。あいつ……いや、侍大は、自分じゃ気づいてないかもしれないけど……誰かに愛されたくて、優しくされたくて……たぶん、ぎゅって……誰かに抱きしめてほしいんじゃないかな、って……思って……」
雷士は少し疑いの目を向けて、黙って侍大を見る。侍大は完全に視線を逸らし、明らかに動揺していた。
「本当に、兄さん?侍大って、あんなに怒りっぽくて怖いのに……いきなり抱きしめたら、怒って殴られそうだよ」
「そ、それは……いや……うーん……かも?いや、でも……もし試したいなら、だな……誰も見てない時のほうが……たぶん、警戒が解けると思う……たぶん……」
「そっか……そうかもね。で、兄さんは何してるの?今の時間、訓練中じゃないの?」
「えっ……あ、うん……その……えっと……お前のことが気になってさ、弟として可愛いから。ちゃんと修行してるか見に来たんだ。私を目標に頑張ってるかなーって思ってさ」
雷士は急に赤面する。が、今度は別の理由で疑い始めていた。
『兄さん……森から帰ってきてから、なんか変わったな……前は優しくしてくれても、僕が距離を取ったら、それ以上は来なかった。でも……あの森で侍大と一緒に過ごして、何かが変わったのかな……』
「うん、兄さん。僕、裏道先生の教え通りに修行してるよ」
「裏道先生……?」
「うん、忘れたの?裏道亜虎先生。お父さんのもう一人の弟子で、雷鳴瞬光刃流の守護者だよ。僕はあの人と訓練してるんだ」
「あーっ!あー、思い出した!最近、罰の試練で頭がちょっと回ってなくてさ、ははは!」
「先生には毎朝百回の打ち込みをやらされてる。準備運動としてね。でも……あんまり効果出てない気がする」
「それは、お前が腕だけでやってるからだって言ったろ?私が正しいやり方教えてやるよ。そしたらすぐに強くなるから!」
「ほんとに?」
「ホントホント!まずは、そのモコモコした服、脱げ。動きやすくして、汗もちゃんと流さないと」
侍大は雷士を手伝い、上衣を脱がせる。彼の体は細く、まるで女の子のようだった。雷士は自分の非力な体を見られることに少し恥ずかしそうにする。
「……僕、やっぱりヒョロヒョロだよね……」
侍大は雷士の頭にぽんと手を乗せた。
「そうだな、ヒョロヒョロだ。でも、それが何だ?祈跡先生が言ってたぜ。侍の本当の強さは、内面にある魂だってな。わた……つまり、侍大はよ……見た目はチンピラみてぇだけど、心はちゃんと侍なんだ。見た目で判断しちゃダメってこと。むしろ、見た目で相手を油断させて、それを武器にすんのさ。お前もそうすりゃいい」
雷士は恥ずかしそうにしながらも、その言葉に心を打たれたように微笑む。
「……そんなふうに考えたこと、なかったよ……」
「だろ?でもな、力をつけたきゃ、ちゃんと鍛錬しねぇとな」
侍大は雷士の手を取り、構えを調整しながら、姿勢や力の入れ方を細かく教えていく。
しばらくして、庭に一人の侍が近づいてくると、雷士の態度が急変した。
「士武兄……いえ、士武さん。ご指導ありがとうございました。ですが、そろそろ……退いていただけますか」
「えっ?なんで?」
「裏道先生が到着されたようですので」
侍大はその変化に戸惑った。さっきまであんなに楽しそうにしていた雷士が、急に冷たく、よそよそしくなったのだ。
やがて現れたその男は、侍姿に半長髪の茶色の髪をなびかせ、どこか皮肉めいた笑みを浮かべていた。
「士武殿……。恐縮ですが、これより雷士様との訓練が始まりますゆえ、ご退出いただけますかな。……余計な気の散る要素は、できるだけ排除しておきたいのです」
張り詰めた空気を感じ取った侍大は、何も言わず、静かにその場を離れる。雷士との会話を邪魔せず、声を荒げることもせずにその場を去ったのは、士武のふりを保つためだった。
屋敷の外れに出たところで、侍大は立ち止まり、壁の陰に身を潜める。そして、耳を澄まして二人の会話を聞こうとした。
「雷士様。……望巳様からのご命令は、もうお忘れですか?ジンには近づかないようにと。彼はあなたの『敵』なのですよ。あの盗人のような子と同様、悪影響となる存在です」
「……はい、裏道先生。申し訳ありません、今回だけは……。母上には言わないでください。お願いです」
「ふむ……よろしいでしょう。ですがその代償として、本日の鍛錬は倍の量をやっていただきます」
──壁の裏から、侍大はすっとその場を離れた。
『……つまり、あの女が……雷士と士武を近づけないようにしてるのか』
その瞬間、昨日の橘子の言葉が頭をよぎった。
【でもさ、ジオ。あんたの親父の女……あの女には絶対に気を許しちゃダメよ。あいつは……危険だから】
『……橘子の言うとおりかもしれねぇな』




