第二十幕:早光家の盤上の駒
屋敷では、橘子が奉公を辞めて去ったという知らせが広まっていた。士武は庭に面した縁側で座っている侍大に声をかける。
「侍大、橘子の件だけど……君は大丈夫なのか?」
侍大は疑わしげに士武を見る。
「なんで知りたがるんだ、変態兄貴?」
士武は顔を赤くしてそっぽを向く。
「だって……あの子は君の恋人じゃなかったのか? 私と喧嘩してまで、あの試練を乗り越えて一緒にいようとしただろう?」
侍大はその言葉に固まる。そして爆笑する。
「ははははは! 彼女? あいつはただの幼なじみだよ、バカ兄貴! 妹みたいなもんだ」
「えっ? 本当に? でも、皆は君たちが……その……」
「付き合ってると思ってた? 馬鹿か。お前みたいな変態だけがそんなこと考えるんだよ」
士武は信じられない様子で侍大を見る。
「君……バカか?」
「なんだと!? 言い直せ!」
「屋敷の者たちは皆、君たちが交際していると思っていたんだ。父上でさえ。そうでなければ、君が私を殺そうとしたことを許した上で、あの子を屋敷に置いておくはずがないだろう?」
侍大は少し考え込み、あの夜の父との会話を思い出す。
【その橘子という娘は…お前の…恋人のような存在か?】
【聞け、侍大。仮に恋仲だとしても構わん。お前は我が子だ】
【『非常時』に限り、お前の部屋で寝ることも許可する。ただし出入りを誰にも見られぬよう気をつけろ。いいな?】
【侍大、くれぐれも調子に乗るな。『あれ』をするには時というものがある。もし…するとしても…静かに、誰にも気づかれぬようにしろ。わかったか?】
そして士武の言う通りだと気づき、驚愕の叫びを上げる。
「あああああ! まさか……じゃあ……!」
「ああ……、そういうことだ……」
「この屋敷の連中は全員変態じゃねえか!?」
士武は床に倒れ込む。
「な、何を言っているんだ……? 父上まで含めるのか?」
「他に説明がねえだろ! なんで俺と橘子をそんな汚らわしい目で見るんだ! 俺はお前みたいに不純じゃねえぞ!」
「私はそんな不純なことはしていない!」
「へえ~! じゃあ今朝見てた夢はなんだったんだよ!?」
「そ……そ……そ……それは関係ないだろう、バカ弟!!」
侍大は衝撃を受ける。士武が今までにない方法で自分を罵倒したのだ。脆い侍大の心にはまさに刺し傷のようだった。
「お……お前……今俺を何て呼んだ? バカ兄貴! やっぱりお前は信用できねえ! 優しそうな顔をしておいて、機があればすぐ俺を罵倒しやがる!」
「侮辱するつもりはない! 君が過敏すぎるんだよ!『侍大を馬鹿と呼んだだけで二日間泣き止まない』っていうくらいに……」
侍大は士武の嘲りに激しく恥じらい、怒りを露わにする。
「もう知らねえ! お前みたいな兄貴、一生認めねえ! アホ! バカ! 間抜け! 意地悪! 弱虫!」
「ほら、やっぱり! 傷つくと赤ん坊みたいな悪口しか言えなくなる!」
「誰が赤ん坊だ! ぶっ飛ばすぞ!」
────
その時、屋敷の前に早光勝侍が到着していた。千代が挨拶する。
「お帰りなさいませ、早光様。すぐにお風呂を準備いたしましょうか」
「はい、千代。まずはあの双子の様子を見てくるとしよう。祈跡殿から試練の報告を受けたが、どうやら良い兆しがあったようだ。二人の仲も少しは近づいたらしい」
「ええ、そうかもしれませんね。少なくとも、喧嘩せずに一緒にいられるようにはなってきました」
──その時、小夜が廊下を駆け抜けながら叫んできた。
「千代さん!大変です!士武様と侍大様が庭で殺し合ってます!!」
小夜は勝侍の姿に気づき、しまったという顔をする。千代は顔を手で覆い、勝侍は呆れ顔でつぶやいた。
「……やはり、そうでもなかったか」
三人は急いで庭へ向かう。
そこでは、士武と侍大が芝の上を転げ回りながら、互いに殴り合い、叫び合っていた。
「うどん頭!ひ弱!すけべ!」
「脳みそ空っぽ!ばか!だらしねぇ!」
勝侍はその光景に目を覆うが、千代が慰めるように声をかけた。
「前向きに考えましょう、早光様。今回は刀を使っていないだけ、進歩と言えるのでは?」
「……我が家は、この代で滅びるかもしれんな……」
***
──一方、別の屋敷にて。
祈跡は一人の少女と向かい合って話していた。
「うむ、任務ご苦労であった。二人に気づかれず、あの森での行動を追うのはさぞ大変だっただろう。特に士武殿は、君の手口に慣れているはずだ」
その少女は、忍装束を身にまとった恋雨だった。紺に近い深い藍色の衣が夜の影のように揺れていた。
「それが意外と簡単でした。士武様が知らない新しい偽装術をいくつか試したんです。
今回の任務に参加させていただけて、光栄でした、祈跡様。
家の近くで訓練もできて、士武様に関われて、報酬まで頂けるなんて……満足度は非常に高いです」
「士武殿が雷光斬を極めたことも驚きだったが……何度も続けて放ち、しかも一太刀ごとに納刀する必要がなかった。それに疾歩も習得した。
だが、君の目から見て、二人の関係は彼らの話した通りか?それとも、演技か?」
「演技です、祈跡様。ですが、あなたに対してだけではありません。自分たちにも演じています」
「ふむ……それなら、この試練に彼らを投じた価値はあったということだな」
「はい。士武様は、まだ力の入り口に立ったばかりです。侍大様という存在がそばにあったことで、ようやく自身の限界を突破しようとしています」
「君も……士武殿の成長を嬉しく思っているようだな」
「ええ。私は、士武様がいつか私よりも強くなってほしいと願ってきました。なぜなら、彼にはその可能性がありながら、自信のなさでずっと力を封じていたからです。
士武様は、私が夫として選んだ方です。いずれ早光家と火蜥家が結ばれ、日本一の家族となる日が来るでしょう」
「……それは、炎嶽様の計画か?」
「いいえ、それは私の夢です。おじいさまは、私の性格をご存知ですから、きっと気づいています。
そして、士武様を理解し、早光様とも親しい彼なら、私の夢を応援してくださるはずです」
「……だが、なぜそれほどの大事な秘密を、わしに語ってくれた?」
「あなたは信頼できる方です、祈跡様。この夢は、私が本当に信頼できる者にしか話しません」
「では、士武殿にもこのことをお伝えするには、何が足りぬのだ?」
「はい。士武様が、自ら私に求婚するその日までは。彼が迷いなくその覚悟を見せた時こそ、士武様が真に完成される時なのです」
***
月影の森。そこに広がっていた土蜘蛛たちの巣は、今や完全に壊滅していた。
無数の妖怪蜘蛛の死骸の中に、たたずむ一つの影――それは狐の姿に戻った橘子。
「ジオちゃんを殺しかけた、その報いよ。バカ蜘蛛ども」
その背後、暗闇から巨大な影が現れる。低く唸るような声が響いた。
「なぜ妖怪同士で争う?ちょっとばかり人間を傷つけただけで、そこまで怒るとは……」
「『ちょっとばかり』の人間ね。じゃあ、あんたはその『ちょっとばかり』の価値もない、こんな貧弱な注連縄すら越えられないザコってことになるけど?」
「丹魔……これはどういうつもりだ?おまえ、卿魔様の命を受けていたのではなかったのか?まさか、裏切る気か?」
「うわ〜、なにそれ〜、蒼魔、もしかして嫉妬してんの?あんた知ってるでしょ?
あたしは誰か一人の言うことだけ聞くなんて性格じゃないの。
しかも、その『誰か』だって、あたしが自由にやるってわかってるもん。だからあんたごときが口出すなっての」
「この小娘……よくもそんな口を……!」
蒼魔が激昂して、攻撃を仕掛ける。だが橘子は、軽やかに注連縄の結界の外へ跳び出す。蒼魔の腕が結界に触れ、焦げたように焼ける。
橘子はいたずらっぽく笑った。
「なぁに?攻撃するんじゃなかったの?」
蒼魔は無言で睨み返すが、その刹那――一陣の風と共に、橘子の姿が葉の舞う中に消えた。
次に現れた時には、蒼魔の首元すれすれに、鋭い牙を突きつけていた。
姿は闇に溶け込むようにぼやけ、ただ異形の影がそこにあった。
「この結界を越えられるようになったら……その時やっと、あんたはあたしの力の二割に届くかどうかね。だから、それまでは口の利き方に気をつけなよ。じゃないと殺すよ?」
橘子はひらりと着地し、背を向けて森の奥へと歩き出す。
蒼魔はその背中に問いかける。
「なぜだ……なぜ人間の側につく……?丹魔……!」
「あたしは自分の側にしかつかないの。面白いか、興味があるか、それだけ。人間でも妖怪でも、卿魔でも、誰にでも味方するよ?その時の気分次第」
橘子の足が止まる。彼女の声は、いつものふざけた口調から、少し低く真剣なものに変わった。
「……ただし、『母親』だけは別。あれだけは、絶対に味方しない」
そう言って、背中を向けたまま蒼魔に指を突きつける。
「でもね……ジオちゃんと卿魔さんは特別。あたし、あの二人には従うって決めてるの。
……あ、ライトちゃんも、今は仲間に入れていいかな。あの子たちは、あたしに命令できる唯一の存在。
でもね、命令できるってだけで、制御はできないけど♪」
そのまま、橘子は月影の森の闇に紛れて姿を消した。
蒼魔は苛立ちに震えながら、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
***
一方、早光家の庭では、雷士が木刀を手に稽古をしていた。
軸足を踏み出し、反動を使って宙へ跳躍。そのまま、風に乗って舞い散る無数の落ち葉を、空中で一閃のもとに斬り裂いた。
《雷鳴瞬光刃流・第一段:雷光斬!》
汗に濡れた顔。呼吸は荒く、息を整えながら地面の葉を数える。
「……二十九枚か」
だがその表情には満足の色はない。
『ちくしょっ……雷光斬の完成形を習得しても、士武にいさんほどの速さもないし、侍大兄さんほどの力もない。
いくら技を完璧に理解してても、速さも威力も足りないんじゃ意味がない……』
雷士は自分の細い腕を見つめ、小さな筋肉にぎゅっと力を込める。しかし満足できるものではない。
その時、望巳が現れる。
緑の長い着物に身を包み、扇で口元を隠しながら近づいてきた。
「見事よ、雷士。素晴らしいわ。これなら、ジンを超えるのも時間の問題ね。そして、あのジオという子も――」
望巳は、木刀を握る雷士の手にそっと自分の手を添えた。
「あなたこそが、早光家を継ぐべき唯一の者よ……私の美しく、愛しい息子。決して忘れてはいけません。ジンも、ジオも……あなたが成すべき使命の前では、ただの障害にすぎないのです」
左手で雷士の顎を優しく撫で、右手でその髪を愛おしそうに梳く。
細いその体を、背後から優しく、しかし逃れられぬように包み込む――まるで蜘蛛の糸のように。
「覚えておきなさい、愛しき息子よ。ジンとジオは『敵』なのです。彼らを兄と呼んではいけません。慕ってもいけません。愛しても、決していけません」
「この世で大切なのは、ただ一つ……『力』だけです。人々が求めるのも、信じるのも……力なのです」
「どの武家にもあることでしょう……権力を巡って兄弟が命を奪い合うのは当然のこと。あなたも例外ではないのです」
「信じてはなりません!憎みなさい!あの二人は、あなたを見下し、蔑んでいるのですよ。あなたの存在すら、忘れている!」
「その隙を突くのです。油断した心を砕き、追い抜くのです。優しさの仮面に騙されてはなりません。愛の言葉に惑わされてはなりません。それはすべて罠――毒蛇があなたを呑み込むための……甘い囁き!」
「……はい、母上。その日が来れば、私は……ようやく『意味のある存在』になれるのですね」
──空には、冷たく澄んだ満月が静かに輝いていた。




