第十八幕:滝を登る鯉は、龍となる
夜が明ける。
太陽はまだ地平線に沿って昇りはじめたばかりで、小鳥たちがさえずっている。
侍大は、まるで深い眠りから引き上げられるように、ゆっくりと目を覚ます。
大きくあくびをしながら、まるで自宅の布団の中にでもいるかのように上体を起こすが――
そこでようやく、自分たちがまだ森の中にいることに気づく。
「……ん?」
周囲を見渡すと、数メートル先に注連縄が張られ、その内側に小道が続いているのが見える。
そのすぐ近くで、士武がぐっすりと眠っていた。口を少し開け、まぬけな寝顔で寝息を立てている。
侍大は、自分がひどく体調を崩していたことをうっすらと思い出す。
記憶は断片的で、「信頼」の紋章を手に入れたあたりから、何があったのかよく覚えていない。
だが、微かに感じる記憶がある――兄が自分を背負っていたこと、そして何かから助けてくれたような感覚だけは、心の奥に残っていた。
『……何があったんだ……。でも、記憶がないってことは、やっぱり……』
その時、頭の中に兄の声がふと蘇った。
――【ダメだ、侍大。お前は死なない。私がそばにいる。絶対に見捨てたりしねえ】
その声に、侍大は少しだけ胸を締めつけられるような感情を覚えた。
胸の上には、自分の刀と、三つの紋章が置かれている。
『……三つ?』
三つ目の紋章を手に取り、刻まれた文字を見つめる――
「忍耐」
侍大は、すぐに察した。
『……あいつ、月下楓のこと言ってたよな。たぶん、そこに最後の紋章があるって……いや、あったのか?』
自分の周囲を観察する。
今寝ている木は、大きな楓で、その葉は周囲にも服の中にも散らばっている。
注連縄もすぐそばにあるため、自分たちが今月影の森の中にいるのか外なのか判断できない。
『……ってことは、ここが月下楓か。
ってことは……士武がひとりでここまで来れたってことになる。
つまり、月下楓の葉にはほんとに守りの力があったんだな』
侍大は、今もすやすやと眠っている兄の顔を見つめる。
どこか悔しいような、でも不思議と心があたたまるような感情が込み上げてきた。
「……お前、ほんとに助けてくれたのかもな。
何がどうだったかは覚えてねえけど……そう感じる。
もしかして、やっぱり……お前のほうが親父を継ぐにふさわしいのかもな」
その瞬間、士武が寝言をつぶやいた。
「う〜ん……橘子……」
侍大の眉がピクンと動いた。
「……はぁぁぁ!?この……変態め!!?」
ごつん!
「うぎゃぁぁぁぁっ!? いってぇぇぇぇっ!! なんだよ今の!!?」
「……お前ってやつは、ほんっと救いようがねぇな!寝てる間に、橘子でいやらしい夢見てやがったな!!」
「ち、ちがう!違うって言ってるだろこのバカ!!誰がそんな夢……見てるか!!」
侍大は無言で、士武の股間を指差す。
士武は顔面蒼白――いや、真っ赤になり、バッと後ろを向く。
「い、い、違うからな!?こ、これは……その……自然現象ってやつだ!!」
「ふーん、そう……スケベ兄貴!」
士武はくるりと振り返る。
「……今、なんて言った?」
「すけべ」
「いや、その前」
「変態」
「……『兄貴』って言ったな」
侍大は一瞬固まり、顔を真っ赤にして立ち上がると、くるっと背を向けた。
「い、いいだろバカ! 俺たちの賭けだったんだからな……!……お、俺は……侍だ。嫌でも……一度口にしたことは、守る……!」
侍大が顔を赤くしながら言うと、士武は後ろからそっと抱きしめた。
「……もう、あんな無茶はしないでくれ。お願いだから……」
侍大は一瞬戸惑いの表情を浮かべ、どこか後悔しているような顔を見せるが、すぐに振り払うように士武の腕を押しのけた。
「や、やめろって、バカ兄貴!! 気持ちわりぃんだよ!俺は兄貴って呼ぶって約束したけど、抱きついていいとは言ってねぇ! 離れろ!」
士武はしばらく黙って侍大の顔を見つめていたが――ふっと、嬉しそうに微笑んだ。
「……わかった」
――――
ふたりは並んで、都へ戻る道を歩き始める。
侍大はどこか落ち着かず、士武の後ろをちょこちょことついていく。何か聞きたいことがあるようだが、なかなか言い出せない。
「なあ、バカ兄貴……そのさ……紋章、どうすんの?」
「ん? どういう意味?」
「だからよ、三つあるだろ?半分こできねぇじゃん。誰かが二つ持つしかねぇんじゃね?」
「別に、全部君が持ってもいいよ」
「……え、なんで? お前、気にしねぇの?それじゃまるで、俺が全部やったみたいじゃん」
「気にしすぎだよ、侍大。見せるのは門番にだけだし、それで城下町に戻れれば十分だ。
誰が何枚持ってるかなんて、どうでもいいじゃないか」
侍大はしばらく黙って考え込む。確かに――なぜ、そんなことで悩んでいたのか、自分でもよくわからなくなってきた。
「……でよ、あのさ……その『兄貴』って呼ぶの、他のやつの前でも言わなきゃダメか?……それとも、俺たちだけの時だけでいい?」
「君が他の人の前で呼ぶ勇気がないなら、それでもいいよ。……私としては、それでも十分嬉しいから」
「……は? 『勇気』? 俺に度胸がないって言ってんのかよ!? 」
士武は立ち止まり、じっと侍大の目を見つめる。無言のままニヤリと微笑むと、また前を向いて歩き始めた。
「……はあ!? なんだよ今の顔!? 馬鹿にしてんのか!?おい、無視すんなよっ!!」
「……言っても、また怒るだけだろ?昨日あれだけ苦労したんだ、今日は喧嘩したくないよ……」
その言葉に、侍大はぐっと言葉を詰まらせる。
『……確かに。兄貴は、昨日の夜ずっと俺のために動いてくれてたんだよな……飯も水も、どうやって手に入れたんだ?あの状態で俺を抱えて森を移動したのか……ひょっとして、動物か妖怪にでも襲われたのか……?』
侍大は言いかけて、少し間を置いてから口を開いた。
「……教えてくれ。マジで、気になる」
「……君が、私を殴らない・怒鳴らない・罵らないって誓ってくれるなら話すよ。誓う?」
「……ああ、誓うよ」
「……母上に誓って?」
その一言で、侍大の動きが止まった。
彼はまだ母のことをほとんど知らない。
けれど、「母が自分のことを捨てるなと父に願った」と聞かされて以来、彼の中には彼女への理想的なイメージが根付いている。
そして――夢の記憶は曖昧でも、彼の胸には今なお温かな何かが残っていた。
「……誓うよ!」
「ふふっ、知ってたよ。どうせ君は、みんなの前で『兄貴』なんて言うのは恥ずかしくてムリなんだろ?
だから、特別に君だけには、私の前だけで『兄貴』って呼んでいい権利をあげる。
……君ってさ、意外と照れ屋で、そういうの苦手だよね?」
「~~~~っ!!」
侍大の顔が真っ赤になり、怒りでピクピク震える。だが、先ほど交わした誓いを思い出し、ぐっとこらえる。顔をそむけ、士武の顔を見ないようにする。
士武はその反応を察して、そっと先に歩き出した。
しばらくして、侍大が少し落ち着いた様子で口を開く。
「……兄貴。昨日は……悪かった。あと……ありがとうよ」
士武は振り向かずに、にこっと笑う。
彼にはわかっていた――弟がこういう時、顔を見られたくないことを。
――――
そして、やがてふたりは光竜の滝へと戻ってきた。
「……さて、どうする? 登るのか? それともなんか天才的な策でもある?」
「いや、登るしかないよ。昨日この辺りをぐるっと回ったけど、ここ以外に道はなかった」
「……で、怖くねえの?」
「もう慣れたよ。昨日は君を背負って死ぬかと思う目に何度も遭ったし……この崖くらい、楽勝だ」
その言葉に、侍大がやや不安げな顔をする。それに気づいた士武は、優しく言った。
「……でも、君にとっても楽勝でしょ?だって君の方が、私より勇敢で、強くて、器用なんだから」
「~~~っ!!」
侍大は顔を真っ赤にしながら、勢いよく士武の頬をつねり、そのままそっぽを向く。
「……も、もうやめろよ!そういう突然の褒め言葉、ほんとウザいんだってば、バカ兄貴!!」
士武はつねられた頬をさすりながら、苦笑を浮かべた。
ふたりは、いよいよ崖を登りはじめた。
崖は急勾配で、足場も少なく、登るにはかなりの技術と力が必要だ。だが――ふたりの顔には、不安はなかった。
「侍大、君は私のそばを離れすぎないで。鎖が引っ張られて、釣り合いを崩すかもしれないから」
「わかってるよ、バカ兄貴! 俺を誰だと思ってんだ!」
ようやく頂上が近づいたところで、足場がなくなった。
「……どうする?」
「いい案がある。刀貸せ、兄貴」
士武が黙って刀を手渡す。
「……今から勢いつけて飛ぶから、しっかり鎖を持っとけ。お前は片手で崖に掴まって、もう片方の手を精一杯伸ばしててくれ」
「……わかった。任せた」
侍大は一瞬だけ士武を見つめる。
「……な、なんだよ?」
「な、なんでもねーよバカ! 今から集中すんだろーが!俺はこれから危ねぇことやんだぞ!? 間違えたらふたりとも死ぬんだぞ!」
「そ、そうだけど……なんか、君、ずっと見てたような……」
「うるせえっつってんだろ! 黙ってろ、このくそアホ兄貴!!」
侍大の顔は真っ赤だ。
『……あのバカ。俺が何するか、一言も言ってねえのに、全部任せてくれてる……昨日はあんなに疑ってたくせに……』
侍大は刀を鞘のまま口にくわえる。両手と両足を使い、渾身の力でジャンプ――
だが跳躍は大きすぎてはならない。鎖に引っ張られてしまうからだ。
宙に舞った侍大は、空中で刀を抜き、両手でしっかり握り――
ガッ!!
空中で侍大は両手で刀を握りしめ、全力で岩の中へ突き立てた。
刀は鞘ごと岩に深く刺さり、侍大はそれにしがみついて落下を止める。
下を見ると、士武の顔が真っ赤になっていた。鎖は限界まで伸びており、士武の片腕には明らかに重力がかかっていた。
必死で崖にしがみつきながら、士武は弟の姿を見上げた。
「兄貴、俺はもうやることやった。次はお前の番だ。刀を踏み台にして、一気に飛べ!」
「なるほど……私が上まで届いたら、鎖で君を引き上げるってわけか。いい作戦だな。私には思いつかなかったよ」
「……いちいち褒めんな、バカ!!さっさと行けよ!!」
士武は侍大と同じように飛び、岩に突き立てられた刀の上に足を乗せた。そこを踏み台にして、さらに強く跳び上がり、一気に頂上を目指す。
侍大は刀の鞘に両手でしがみつき、タイミングを見計らう。士武の体が、鎖の限界まで届いたその瞬間――
侍大は刀の上に飛び乗り、左手で鞘を握り、右腕を精一杯伸ばす!
しかし、士武が頂上に届こうとした瞬間、鎖が限界まで張り、体が引き戻される。
それでも右腕を伸ばし、頂上の縁をなんとか掴むことに成功した。
「……どうだよ、バカ兄貴!?いけそうか!?」
「片腕で自分の体引き上げて、さらに君の体重まで引っ張る…………ムリだね」
「よし、じゃあここからは俺の出番だ」
侍大は鞘の上でバランスを取りながら、刀を抜き、口にくわえる。そのまま鞘を踏み切って跳び上がり、見事に崖の頂上へと着地!
頂上に着くや否や、侍大は口にくわえていた刀を吐き出し、すぐに士武の腕を掴んで引き上げた。
登り切った士武は、息を整えながら侍大を見つめた。
「……なあ、感謝の一言くらい言っても……いいよな?それもダメなのか?」
侍大はぷいっと顔をそらす。
「……いらねぇよ。だって、俺たちは一緒にやってんだろ?感謝なんて必要ねぇ」
士武は静かに笑い、そっと弟の背中を軽く叩いた。




