第十七幕:月下楓(つきしめぎ)
もう夕刻である。
士武は侍大を背に背負い、鎖で身体を固定して落ちないようにする。
彼は黄昇の周辺に広がる森を、全力で駆け抜けていた。
今や、士武は黄昇の城下町から三里ほど離れているだろう。
その道中、野生の猪と鉢合わせになる。猪は彼を見つけるや否や突進してくるが、士武は一切ためらわず刀を構えた。
《――雷鳴瞬光刃流・第一段:雷光斬!》
猪は一太刀で斃れ、士武はそのまま足を止めずに通り過ぎる。
「すまない、猪さん……。だが、今は時間もないし、弟を背負ったままお前と戦うわけにはいかないんだ。」
士武は、注連縄の張られた森の中を進みながら、赤紫に染まる樹木を探していた。
似たような木を何本か見つけて確認するが、どれにも最後の紋章の痕跡はない。
『……弟がこんなに苦しんでいる中、私はこんなことをしている。情けない。でも、あの紋章だけが月下楓の存在を示す唯一の証拠なんだ。これがなければ……』
途中で再び百足に遭遇するが、雷光斬で切り裂き、難なく通過する。
『……今こそ疾歩が使えたら、どれだけ助かったか……』
走り続けるうちに、夜の闇が空を包み、満月が冷たく照らしている。
士武は太めの枝を拾い、侍大から教わった火起こしの術を使って、即席の松明を作る。
もうこれ以上は走れない。暗闇で転倒する危険があり、松明の光も頼りにならない。
侍大が熱に倒れてから今まで、士武は限界の速さで森を走り続けてきた。
すでに疲労困憊だが、自覚すらない。
『もう夜か……。もし月下楓なんて本当は存在しなかったら?もし、伝説だったら?侍大が死ぬのは、私のせいなのか?試練に背いてでも、光竜の滝の崖を登って、侍大を黄昇に連れて行くべきだったのか?』
頬に一筋の涙が流れる。士武はそれをすぐに袖で拭った。
『違う!今日、侍大が教えてくれたじゃないか。悪いことを考えてばかりいたら前に進めないって……。私は武士の子だ!自分の弟を死なせるわけにはいかない!』
そのとき、侍大が再び苦しそうにうめく。士武の胸が締めつけられる。
「絶対に月下楓を見つけて、君を救う……。光竜の滝の洞窟で、私は君に命を預けた。君はそれを守ってくれた……。だから、私も必ず……守る!」
士武はなおも歩を進める。腹は鳴り、水も飲んでおらず、足の痛みも酷くなっていた。
だが、彼は決して立ち止まらない。
『……今、苦しいのは私じゃない。侍大の方だ。私は、ここで倒れてる場合じゃない』
そのとき、森の中から物音が聞こえる。
士武は松明を向けると、暗闇の奥に光る二つの目が見えた。
「……狼か?マジかよ……」
彼はためらわず刀を抜き、傍の木を切り倒し、倒木を狼の進路へ落とす。
大きな音が森に響き、狼は驚いて逃げ出す。
「今のおれには、お前に構っている暇なんてない!」
士武は再び歩き出す。耳を澄ませ、少しの気配すら見逃さぬよう、神経を研ぎ澄ます。
野生の獣や妖怪に襲われれば、すべてが水の泡になるのだ――。
『……川で魚を捕まえたときの、君の集中力。私もあの時のように――』
さらに一刻が過ぎた。
松明の火は今にも消えそうだが、士武は周囲の気配を探りつつ、月下楓を見つけるために森の輪郭を凝視し続けており、それに気づいていない。
そして、吹き抜けた強い風にあおられ、松明は完全に消えてしまう。
『しまった……!どうすれば……!?』
士武はその場に膝をつき、肩を落とす。
涙が頬を伝い、止めどなくこぼれ落ちる。
「私……やっぱり駄目だ……。武士になる資格なんてないし、父上に誇ってもらえるような息子でもない。君の命すら守れない……。
予言が正しかったとしても、それは私のことだったのかもしれない……。私の存在こそが、君や早光の一族の害になっているんだ……」
「……じん……」
侍大が弱々しく、自分の名を呼ぶ声がする。
士武はすぐに涙を拭き、立ち上がる。
周囲を見渡すと、森は完全な暗闇ではなく、満月の光が木々の隙間からわずかに差し込んでいた。
ふと、少し先に淡い光が見えた。
『あれは……?蛍……?いや、もしかして人魂か?まさか、のっぺら坊じゃないだろうな……』
士武は慎重に、しかし確かに歩を進める。
『この辺りは月影の森……何が出てもおかしくない。でも、あれが私の探しているものかもしれない。どちらにしても、警戒しながら進むしかない』
近づくにつれて、森の中から銀色の光がぼんやりと輝いているのが見えた。
まるで巨大な蛍のようなその光に導かれるように、士武は歩を進める。
やがて彼の前に現れたのは、月影の森の奥へと続く細い山道だった。
その道と光は、注連縄の内側から伸びており、地面の下から月のような輝きを放つ根が小道を照らしていた。
士武は注連縄をくぐり、山道を進む。
歩を進めるごとに、光は次第に強くなり――ついに彼はそれを見つけた。
月下楓――。
それは、物語で聞いていた以上に巨大で、太かった。
その一枚一枚の葉が、まるで現代の灯りのように明るく発光しており、幹の中心部を見ると、まばゆすぎて目を細めずにはいられない。
もし今、弟の命がかかっていなければ――士武はきっと、その神々しさに息を呑み、見惚れていたことだろう。
まさに、満月そのものが木となったかのような、神秘的な光景だった。
『……す、すごい……。この幹の太さ……。たぶん、両手を広げた人が十人くらいでやっと囲めるくらいだ……』
士武は伝承に記された内容を試すため、低い位置にある一枚の葉に触れてみる。
その葉が枝から離れるや否や、発光は消え、ただの楓の葉に変わってしまった。
「……この伝説も、やっぱり本当だったんだな……」
士武は侍大を下ろし、月下楓の幹にもたれかからせる。
額に手を当てて熱を測ると、あまりの熱さに思わず手を引っ込めた。
呼吸もかすかで、力がまったく感じられない。
それでも士武は落ち着いていた。
彼は侍大の隣に座り、その頭を自分の肩にもたれさせて、静かに髪を撫でる。
「今は……ただ待つしかない、君のために。一枚でも、葉が自然に落ちてくるのを……。
もう私にできることは、信じて待つことだけだ」
「父上も……きっと、君がいなくなってから、こうしてずっと祈っていたんだろう。
神仏の力にすがって、君が戻ってくる日を……」
「私も……父上と同じようにしよう。
天が君の命を望むのなら、きっと一枚の葉が落ちるはずだ。
でも、もしそうでないのなら――私は君と一緒に逝く。
君を、あの世にひとりで行かせたりはしない……」
士武は、もはや抑えきれぬ感情と不安、恐怖に包まれ、涙を流しながら語り続ける。
「そのときは……君に怒られても、殴られてもかまわない。でも……ひとりにはしないからな……兄として……」
時間が過ぎていく。
森には風ひとつ吹かず、木の葉ひとつ動かない。
侍大の呼吸はますます弱まり、消え入りそうだ。
士武はずっと、弟の髪を静かに撫で続けながら、落ちてくる葉がないか、目を凝らす。
また、反対側から聞こえるかもしれない葉擦れの音にも耳を研ぎ澄ませていた。
――そのとき。
顔に、やさしい風が吹き抜ける。
それはふたりの頬を撫でるように心地よく――同時に、月下楓の葉がざわめき、無数の葉が舞い落ちた。
その瞬間、士武は弟を背負いながら、無意識のうちに疾歩を発動し、空中に浮かぶ葉を一瞬で十五枚以上も集める。
軽やかに地面に降り立つと、それらの葉を侍大の額、胸、右手、右腕へと次々に置いていった。
侍大の右手に現れていた黒い痣は、すでに肩元まで広がっていた。
士武は再び疾歩を使い、月下楓のまわりを駆け巡って、後から落ちた葉をさらに十八枚拾い、同じように弟の体に優しく置いていく。
そして最後に一枚だけを自分の両手で包み、祈るように胸元で握った。
「どうか……神さま……。月下楓さま……。
もし本当にどんな願いでも叶える力があるなら……お願いです。
どうか弟の命を救ってください。
もう彼は、十分すぎるほど苦しみました。
このまま、哀しい人生の終わりにさせないでください。
――彼は、大侍になりたいって……言ってたんです。
私は信じています。きっと、叶えられるって……。
だから……お願い……彼を……」
士武は涙を流しながら目を閉じる。
目を開ける勇気がない。
月下楓の葉こそが、弟を救う唯一の希望。
もし効かなかったなら……その選択が、間違いだったことになる。
【侍大夢の中】
侍大は、霧の立ちこめる開けた森の中にいた。
目の前には、幅の広い川が流れている。
あたり一面が濃い霧に包まれており、五歩先すら見えない。
夢の中らしく、自分がなぜここにいるのか、何をしていたのか――まったく思い出せない。
「……寒っ。喉、乾いたな……ちょっと水でも……」
川へと歩み寄ると、岸辺に立つ立て札に「三途」と書かれているのが見えた。
「さん……えーっと、この字、なんて読むんだったっけ? 『さんと』?『 さんみち』?」
侍大は、ふと何かを思い出したように声をあげた。
「――あっ、そうだ! 船に乗らなきゃ!
向こう岸に住んでる、あの人に……会いに行かなきゃ!」
周囲を見渡すが、船も筏も、何も見当たらない。
川ははるか彼方まで続き、その向こうは何も見えなかった。
「……どうしよう……」
そのとき、背後から女性の手が侍大の肩にそっと触れた。
驚くことなく、侍大は自然に振り返る。
まるで、最初からそこにいるのが当たり前だったかのように――。
しかしその女性の顔は、霧に包まれて見えず、目を凝らしても視界がぼやけてしまう。
「その人は、今そこにはおらんよ、侍大ちゃん。
……それに、その人もな――
まだ、あんたに会いたかぁないとよ。」
「……どうして?」
「……だってね、まだその時じゃなかとよ。
侍大ちゃんは、やっと旅を始めたばっかりじゃろ?
今あの人に会ったとして、何を話すつもりね?
ほら、これからまだまだすごいこと、たくさんやるんやろ?
それをぜ〜んぶ話したかろうが?」
「……うん、そうだね。
俺、まだ親父みたいなすごい侍になってない。いや、親父を越えるって決めたんだった。
きっと……あの人、喜んでくれるよね」
「ふふふ……間違いなかよ。
あの人だけじゃない。あんたのこと、愛してる人たち、みんな喜ぶばい」
「……愛してくれてる人? でも、俺なんか……誰にも愛されてないよ……」
その言葉を聞いた女性は、そっと膝をつき、侍大の額にやさしく口づけした。
侍大の心に、どこか懐かしい温もりが広がる。
「何を言いよるとね、侍大ちゃん……。
あんたも士武ちゃんも、ほんとに父上そっくり。
困ったもんやね。
でもね、今ここではっきり証明しちゃるけん――」
そう言って、彼女は霧の中の一点を指差す。
そこには、土の小道が伸び、その両側を青い灯籠が静かに照らしていた。
「見える? あの道の先にね、あんたのことを、心の底から愛してる人が待っとるよ。
ずっと昔から、ずっとずっと、あんたが欲しかった愛の形で――」
「……ほんとに?」
侍大は目を輝かせ、その道に向かって駆け出そうとする。
だが一歩踏み出す前に、くるりと振り返り、女性に向かって深くお辞儀をした。
「ありがとう、おばさん。また会える?」
「うん。必ずね、侍大ちゃん。
でも……それはまだまだ、も〜〜っと先の話やけんね!」
彼女は手を振り、笑顔で見送る。
侍大は振り返らずに、青い灯籠の並ぶ道をまっすぐに走っていった――。
【――夢、終わり】
・・・
それから数秒後。
士武は、まだ目を閉じたまま、静かに祈りを続けていた。
だがその耳に、かすかな荒い息遣いが届いた。
「……!」
士武は目を開け、侍大の顔を見る。
黒い痣は、わずかに――だが確かに、消え始めていた。
額に手を当てると、まだ熱はある。
けれど、もはや手を焼くような高熱ではなかった。
士武は堪えきれず、侍大の腹の上に突っ伏して泣き崩れた。
そのまま、弟の髪を何度も何度も撫でながら――
「ありがとう……!
ありがとうございます……神さま……月下楓さま……!
弟を救ってくださって……本当に……ありがとうございます……!!」
その夜、月下楓の周囲には、ただの一匹の妖怪すら現れなかった。
痣も熱も、三時間ほどで完全に消えた。
そして士武は、葉を拾っていたときに見つけていた最後の紋章を、そっと手に取る。
そこに刻まれていた文字は――
「忍耐」