第十六幕:土蜘蛛と妖気
月影の森。注連縄に囲まれた領域へ足を踏み入れた士武と侍大の前に広がっていたのは、無数の土蜘蛛の巣窟だった。その数は太陽の光を遮り、森を深夜のような暗闇に包んでいる。
どれも60センチから1メートルほどの巨大な体躯に、赤く光る複眼と鋭い牙を持ち、糸にぶら下がっていた。
二人は紋章目指して一直線に駆け出す。岩に辿り着いた侍大が紋章を掴むと――その瞬間、紋章のあった岩から黒い瘴気が侍大の腕へと這い上がった。しかし、それに気付く間もなく、二人は来た道を引き返そうとする。
が、
たった5秒前まであったはずの出口は、すでに土蜘蛛の大群で塞がれ、漆黒の闇に変わっていた。
士武が即座に刀を抜き、構える。
「侍大! 私の背後に! お前を守る!」
「何言ってやがる、馬鹿が! 迂回して逃げるぞ! この数を見ろ!」
「だからこそだ! 奴らは動きが速く、一瞬で糸の罠を張る! ここにいればいるほど、彼らの思う壺だ! ましてや粘着性の糸に囚われたら終わり! 加えて……奴らは猛毒だ。触れさせてはならない!」
「だったら来た道を戻るのか? あそこ真っ暗だぞ! さっき通った道さえ見えねえ! お前の言う『危険』そのものだ!」
「それでも最短距離だ! 信じてくれ……私について来い。君なら祈跡先生に教わった『疾歩』を使えるはずだ。私が後ろを固める!」
「頭おかしいのか!? 俺に前を走れと!?」
「私はまだ『疾歩』を使えないが、『雷光斬』並みの速さで動ける。君を狙う土蜘蛛は全て斬る!」
士武は左手で侍大の頭を抱え、目を見据える。
「聞け……今朝、私は君に命を預けた。今度は君の番だ。私を信じろ。誓う……君を死なせない。一匹も触れさせない。考えるな……『疾歩』だ。私がついてる」
侍大の顔に緊張が走る。
『こいつを……信じる? この腰抜けを? 俺は今まで誰も信じなかった……己だけが頼りだった。他人を信じる者は死ぬ』
しかし、記憶が脳裏をよぎる――
・今朝の士武の賞賛
・早光屋敷で処刑を止めてくれたこと
・決闘で『雷光斬』を使わなかったこと
・橘子の件で罪を被ったこと
『こいつは……俺が憎んで、殴り、殺そうとしたのに……本当に俺を恨んでいない。何度も助けてくれた』
数分前、士武が一瞬でムカデを斬った光景が蘇る。
『クソ……あの分厚い甲殻を初戦で斬り伏せるなんて。俺にも見えなかったあの動き……こいつは……速い。俺より……速い』
侍大は考える時間などない。士武の言葉に従い、瞬時に体勢を整える。軸足を踏み込み、一気に前方へ体重を移動させる。
《疾歩!》
爆発的な加速で土蜘蛛の群れへ突進する侍大。その視界に飛び込んだのは、蜘蛛たちが閃光と共に両断されていく光景だった。
直接見ることはできなかったが、耳を劈く斬撃音と迸る雷光が物語っていた――士武が「雷光斬」を驚異的な速さで連発し、わずかながら突破路を開いていることを。
鎖で繋がれた腕を通じ、侍大は感じた。士武が自分とほぼ同等の速度で疾走しながら、同時に「雷光斬」を繰り出していることを。疾歩の加速に鎖で引きずられないよう、完璧な距離を保ちながら。
注連縄の外へ着地して振り返れば、士武がすぐ背後にいた。生死をかけた戦いのように感じたが、実際にはわずか2秒の出来事だった。
「はあ……はあ……」
仰向けに倒れ込んだ士武の姿。汗にまみれ、呼吸は乱れきっている。あの連続「雷光斬」がどれほどの負荷だったか、侍大には容易に想像できた。
傷一つない。自身の体を確認し、侍大は震えた。士武が約束を果たしたのだ。
掌を開けば、そこには二つ目の紋章。「信頼」――士武が求めたまさにその言葉が刻まれていた。
喉の奥に熱い塊が込み上げる。何度も憎悪を宣言し、殺そうとした兄に、命を救われた。自分の頑迷さが二人を死の淵へ追いやったというのに。
侍大は言葉を失い、士武の傍らに座り込んだ。紋章をそっと手に返し、うなだれる。
士武の呼吸が落ち着いた頃、ようやく気付く。
紋章の文字。そして、虚ろな表情の弟。全てを理解するのに時間は要らなかった。
「……気にするな。君を責めたりはしない。今まで私が何もできなかったからだ。これが……私が初めて役に立った瞬間だよ」
侍大の声はかすれ、震えていた。
「俺は……落ちこぼれだ。親父が俺を捨てた理由がわかる……雷光斬すら満足に使えねえ……お前みたいに……」
士武は慌てて体を起こす。
「そんなことない! 父上は君の帰りを心から喜んでいた。立派な侍になると信じている!」
「違う…!俺が戻ってきてまだ一週間も経ってねえのに、もう何度も親父をがっかりさせてる!今こんな試練を受けてるのも、全部俺のせいだ!子供向けの絵本すら読めねえんだぞ…!」
士武は困惑する。弟がここまで弱気になる姿を見たことがなかった。少しでも弟を元に戻すために、わざと挑発するように声をかけた。
「でもさ、全部一人でやってきたって、君が言ってただろ?最初の紋章を取ったのも、君の勇気じゃなかったか? ここまで進めてきたのも、ほとんど君の力だ。『置いてかれねえ』って言ったのは誰だ?」
「…あれは、ただ強く見せたかっただけだよ。怖いのを隠すためにさ。だけど戻ってきてすぐ分かった…俺より、お前の方がずっと優れてる。俺がそうやって言ってるのは…本当のことを認めたくないだけだ。俺なんか、跡取りにはなれねえよ…親父を誇らせるなんて、無理だ…」
士武はゾッとする。弟がまるで何かを諦めたように見えた。肌で伝わるほどの絶望感に、思わず肩を掴んで揺さぶる。
「侍大! 目を覚ませ! 君はすごい奴だ! 強くて、勇敢で、決断力もある! さっき私に言ってたよな?『負け犬みたいな顔したらぶっ飛ばす』って!だったら今の君はなんなんだよ!」
「わかんねぇよ…ただ…思ったこと口にしただけだ。でも…なんでこんなに胸が苦しいんだろ…でももういいよ。どうせ…運命には逆らえねえんだろ…?」
「はあ!?運命だって!?君の名前に使われてる漢字を思い出せ!侍のように大きくなる──それが君の運命だろ!神様が生かしてくれたのも、家に戻してくれたのも、全部そのためだろ!父上のような侍になるために!」
「…俺はただの…侍ごっこしてただけの、ちっぽけな泥棒さ…」
侍大の体が士武に寄りかかる。熱がこもっていて、肩が灼けるように感じる。士武は驚き、すぐに地面に横たえ、額に手を当てる。
『熱い…!? 呼吸も荒い…!』
彼はすぐに侍大の腕を確認し、右腕の肌が黒く変色しているのを見て顔を強張らせる。
「くそっ…!妖気に汚染されてやがる!あの辺りには妖怪や邪霊が多すぎる…あそこ全体が誰でも汚染されるような場所なんだ…!」
士武は侍大の頭をそっと支え、意識を繋ぎとめようと呼びかける。
「侍大、聞いてくれ! 絶対に助けるって約束したよな!今、それを守る時だ!侍としてじゃない…兄として、君を守る!」
「…もう…いいよ……放っといてくれ…もう苦しみたくない……一人でいるのも、もう…嫌だ…」
士武は歯を食いしばり、弟を背負って立ち上がる。
「君は死なせねえ!絶対に助ける!信じ続けてくれ、頼む!私が命をかけて守る!もし助けられなかったら…その時は私も切腹して一緒に逝く!でも、絶対に死なせねえし、一人にもさせねえ!私が約束する!」
すでに日は沈みかけていた。士武は地面の枯れ枝を束ね、侍大が以前やったように火を起こして松明を作り、注連縄の周囲をぐるりと回るように走り出す。
『黄昇にはもう戻れねえ。戻ったところで森の中で迷う可能性もあるし、あの光竜の滝を夜に、弟を背負って登るなんて無理だ…。この状況を打開できる希望があるとしたら…月下楓しかねえ』
侍大はうわ言のように、何か悪夢を見ているようにうなされる。士武の顔には緊張と焦りが滲む。
『やっぱり最初から彼女を探しに行くべきだったよな…月下楓が光ると、妖怪も邪霊も呪いすらも退けるって聞いた。あの葉っぱは守りの御守りにもなるし、それがあれば安心して【信頼の紋章】を手に入れられたはずだ。…多分、これが祈跡先生の本当の意図だったんだ。あんな危険な場所に【信頼】を置くのは…試練としては過酷すぎる』
侍大は士武の背中で、小さく啜り泣くようにうなされている。熱と悪夢にうなされているのか、意識はもう曖昧だ。
「…一人は…やだ…死ぬのも…」
士武は拳を握りしめ、走り続ける。
「ダメだ、侍大。お前は死なない。私がそばにいる。絶対に見捨てたりしねえ。命にかけて、君を救う。どんなことがあっても、絶対に!だから…死ぬな、絶対に!」