第十五幕:月影の森
士武と侍大は森を歩き続ける。士武は楓の木を探しながら、侍大はイライラと考え込んでいた。士武が自分を気にかけているという考えが、どうにも気に入らない。
突然、士武が話しかける。
「侍大」
「なんだよ、クソが!」
士武はもう驚きもせず、無表情で侍大を見る。侍大は理由もなく怒鳴った自分に少し恥ずかしくなる。
「…雷光斬、教えてほしいか?」
侍大は凍りつく。
「は? どういうことだ?」
「刀は一本しかない。森もどんどん深くなる。獣か、もっと悪いものに出くわすかもしれない。君が刀を貸してくれないのは分かってる。だから…君に戦ってもらうしかない」
「お…お前、戦いまで俺に押しつける気か!?てめえ、今まで何の役に立ったんだよ!?」
「じゃあ…君が刀を貸してくれたら、雷光斬を使って俺が護る。でも貸さないまま俺を『役立たず』って呼び続けるつもりか?」
侍大は黙り込む。唇を噛みながら考え込む。
「…私を全然信じてないんだな」
「…お前は?」
「私はな、君の背中に猿の子みたいにしがみついて滝から飛び降りたぞ!暗い洞窟で大蛇の前に無防備に立って、君を信じて待ってた!これでも信じてないと思うのか!?」
侍大は頭を垂れ、反論できずにいる。自分がどれだけ理不尽だったか、初めて痛感した。
侍大(刀を地面に投げつける):
「…勝手に使えよ! 役に立ってみろ!」
二人は再び歩き出す。士武は侍大が珍しく寂しそうに見えることに気づく。
すると突然、草むらを擦れるような不気味な音が周囲に響く。背中合わせになり、警戒する二人。
「おい、うどん頭! 妖怪退治したことあんのか?」
「いや…妖怪なんて、あの大蛇が初めて見たやつだよ」
「はあ!? じゃあなんでお前に刀を渡したんだよ!?」
「誰だって初めてはあるだろ」
音は彼らを取り囲むように近づく――次の瞬間、巨大なムカデが襲いかかる!
侍大は反応できずに固まる。刀は持っておらず、しかも今、士武と一緒に縛られている右手が利き腕だ。
しかしその瞬間、士武がすでに抜刀しており、侍大には斬ったかどうかすら分からなかった。すぐに刀を納め、呟く。
「雷鳴瞬光刃流・第一段: 雷光斬!」
ムカデは見事に真っ二つに切断され、地面に落下する。侍大は衝撃で目を見開く――今の一撃は、本物の雷光斬だった。しかも、斬りすら見えなかった。
ムカデの分厚い甲殻と巨大な体躯は、一太刀で斬り伏せるにはあまりにも頑強だった。
侍大は気付いた――己の力をもってしても、あの妖怪の首を一刀で刎ねることは不可能だったのだと。
「……見たか? 私も初めてだったが、成功した」
侍大は悔しさに頭を垂れた。反論も罵声も出ない。ただ、士武との実力差を痛感し、歯噛みするしかなかった。
二人は再び歩き出す。ムカデの襲撃以来、侍大は一言も口を利かない。
「……侍大」
「……黙れ」
士武は、いつもの怒気ではなく、どこか寂しげな弟の声に戸惑う。それでも言葉を続けた。
「……いい。今は話したくないなら構わない。だが、最後の紋章のことは考えなければならない。いいな?」
森を進むうち、二人は注連縄で囲まれた区域に辿り着いた。その内側は外よりも暗く、不気味な瘴気が渦巻いている。
「……これって、月影の森か?」
「知っていたのか?」
「ああ。先生が昨日教えてくれた」
士武はハッと何かを思い出す。
「……待て。もしかして……」
「『もしかして』って何だよ」
「今の話だ。祈跡先生が月下楓のことを……先生は『月影の森に月下楓がある』と私に言っていた。つまり、先生は昨日、二人それぞれに手がかりを……」
「じゃあ、でっかい木を探せば紋章が見つかるってことか? さっさと行くぞ!」
「待て!」
「何だよまた! ビビってんのか?」
「違う! 先生は言っていなかったか? ここに棲む妖怪の数は、瞬時に黄昇を滅ぼせるほどだと。私たちが無事でいられるはずがない」
「だから先生が刀をくれたんだろ? お前が必死に奪い取ったくせに、いざ使うときになって怖気づいたのかよ!?」
「聞け!月下楓は満月の光を受けると、結界のような霊力を発する。妖怪よけの護符代わりになるのだ。それに……先生が我々に時間をたっぷり与えた理由も考えろ」
「……先生はな、お前が能無しで時間がかかると分かってたんだよ」
「……なぜまたそんな口を利く?」
「てめえを丁寧に扱う義務なんてねえだろ、バカが! 何度も言わせるな――俺はただ、試験に合格して、親父と先生に許されて、橘子を屋敷に残すために手を貸してるだけだ。終われば元通りだ。忘れるなよ……俺はてめえが大嫌いだってことを!」
士武は押し黙る。返す言葉がない。
侍大は注連縄に向かって歩き出し、鎖を引っ張って士武を引きずるようにして中へ入っていった。
「侍大、やめろ! 月影の森は妖怪だけじゃない。悪霊も棲んでいる! 妖怪なら戦えるが、悪霊を祓えるのは僧や巫女だけだ! 」
「うるせえ!」
「刀では悪霊は斬れない! もし憑依されたり诅咒されたら…!」
「うるせえ!」
「ここが封印された理由を考えろ! ここは青葉藩八大都の一つ、父上の領する黄昇だ。桜神社の巫女たちが注連縄を張ったということは――」
侍大が振り向き、士武を睨みつける。
「この野郎、黙れっ!! 俺は今まで何匹も妖怪を殺してきた! お前が温かい布団でぐっすり眠ってる間、暗い森を一人で逃げ回り、腐った肉を喰らって生き延びてきたんだぞ!?」
「俺はてめえみたいな腰抜けじゃねえ! もっと強くて…勇敢で…経験もある! 証拠に見せてやる…お前の助けなしで三つの紋章を取ってやる! ついて来い! 戦う気がねえなら刀を返せ! 元々一人でやってきたんだ!」
士武は無言で従う。弟の急変した態度に胸を痛めながらも――今は己が持つ刀こそが二人の盾だと覚悟を決める。
注連縄の前に着くと、左側数メートル先に木札が結びつけられているのに気付く。近寄ると、そこには「危険 月影の森 立入禁止」と書かれていた。
「ほら見ろ。札も私と同じ意見だ」
「ああ? じゃああれは何だ?」
侍大が指さす先には、注連縄からわずか三メートルほどの距離にそびえる岩。その頂に、三つ目の紋章が輝いていた。
「まさか…こんな目立つ場所に?」
「言っただろ? 先生はてめえが臆病で馬鹿なのを分かってたんだ。紋章に書いてある言葉は『勇気』…てめえに欠けてるもんな」
「侍大、これは明らかに不自然だ。月下楓も見当たらないし…」
「戯言はいい! 紋章まで走れば十秒もかからねえ。てめえの足だって速い方だろ?」
士武が躊躇うと、侍大は再び怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ! 賭けよう。もし俺の言う通りに紋章を取れて何事もなければ、お前は一生俺に従う。どうだ?」
「なぜ突然そんな…?」
「お前が俺を信じねえからだ! 今まで全部俺がやってきた! 文字通り背負ってきたんだぞ! もし紋章が取れたら…お前の負けだ。腰抜けで無能ってな! 従わなきゃ、最後の紋章も試験も全部台無しだ!」
士武はうつむき、小さく頷いた。
「……てめえは? この賭けに条件なしのか?」
「いいや。もし俺が正しければ……私たちは死ぬ」
「ちっ……やっぱりてめえはクズだ」
一瞬の沈黙。士武が静かに続ける。
「だが……もし私が正しかったら……お願いがある。『兄貴』……いや、せめて名前で呼んでほしい」
「あに……?は……? 急に何だこの戯言!? 名前で呼んだことあるぞ!」
「……数えるほどだ。大抵は『バカ』か『能無し』だ」
侍大の耳が赤くなる。顔を背け、足で地面を蹴る。
「くだらねえ賭けだ! いいよ、どうせ起こらねえからな!」
二人は注連縄をくぐり、森へ駆け込む――
その瞬間、月影の森が外より暗い理由がわかった。
無数の土蜘蛛の妖怪が木々に張り付き、森全体が巨大な巣窟と化していた。
――土蜘蛛の巣窟だった。