第十幕:橘子(きつこ)と侍大(じお)の秘密
勝侍が屋敷に戻ると、最古参の使用人・千代が出迎える。
「お帰りなさいませ、早光様」
勝侍は疲れたような心配げな表情で、何も答えない。
「大師堂様は少し前に出られ、ご子息様方には各自の修業をお命じになりました」
突然、小夜が叫びながら走ってくる。
「千代さん!早く来て!侍大様が士武様を殺そうとしてます!!」
玄関に勝侍がいるのを見て小夜は凍りつき、後悔の表情を浮かべる。千代は顔を手で覆い、勝侍は険しい表情になる。
「何...だと?」
三人が駆けつけると、壁に追い詰められた士武、頭上に刀を振りかざした侍大、そして侍大を引き止めようとする橘子の姿があった。
「ジオ、やめなさい!あんたの兄でしょ!それにただの冗談だったんだから、大げさにしないで!」
「この卑劣漢め!魂まで消し飛ばしてやる!!」
「うわあああああああ!!!」
勝侍が雷のような声で怒鳴る。
「侍大!!!即刻やめるがよい!!!」
侍大は凍りつき、刀を落とす。状況を理解した彼は恐怖に駆られる。生まれて初めて恐怖を感じた橘子は、父親に叱られる子供のように正座する。
士武は床に崩れ落ち、安堵の息をつく。
「昨日も話したはずだ。侍大、これについて何か言うことはないか?」
侍大は微動だにせず、まばたきすらできない。父親を見る勇気もなく、恐怖に凍りついている。勝侍から「二度と士武を殴るな」と言われていたことを思い出す。頭の中が騒ぎ始める。
『親父様を...がっかりさせた。士武を超えるべきだったのに...また不良みたいな振る舞いを...親父様は...俺を見捨てる。追い出すに違いない。全部...台無しにした』
士武はまだ震えが収まらないが、侍大の虚ろな視線に気づく。弟が完全に動揺しているのがわかる。士武は唾を飲み込み、座り直して父親に控えめに話す。
「父上、全て私の非です。私が...侍大の幼なじみに無礼を働き、彼はそれを庇っただけです。どうか今回はお許しください」
侍大は信じられない様子で士武を見つめる。
『何...何してるんだ?なぜ?なぜあいつが罪を被る?また...俺より上だって態度か?だが...意味がわからん。今なら簡単に俺を追い出せるのに。それとも親父に厳罰を科させたいのか?なぜ...?』
勝侍は橘子を一瞥し、じっと見つめてから再び侍大に問いかける。
「侍大、説明せよ!なぜ平民の娘を屋敷に入れた?なぜ曽祖父である我が家始祖の刀を兄弟に向けた?身分の低い女のために実の兄を殺す気だったのか?士武に全ての罪を負わせるのか?侍としての誇りはどこへ消えた!」
侍大は喉を鳴らし、冷や汗をかきながら拳を固く握りしめる。どうするべきか思考が巡る。
『いや!士武の助けなど受けるものか!俺は...今までの人生で何度も死にかけ、誰の助けも借りずに生き延びてきた!お前の助けなど要らん!士武に助けられるくらいなら...今すぐ死んだ方がましだ!』
侍大は跪き、父に向かって深く頭を下げ、静かで穏やかな声で語り始める。
「父上、誠に申し訳ございません。全ては私の不始末でございます。幼なじみの橘子を屋敷に入れ、勝手気ままに振る舞わせてしまいました。士武が...私の気に食わぬ行為をしたことは許せませんが、この過ちを三度繰り返すことはありません。悔い改めの証として、父上のお決めになるどんなお仕置きも受け入れます」
勝侍は微動だにせず、息子たちの態度に揺らぎを見せない。
「承知した。祈跡殿と相談の上、お前たち二人への処罰を任せよう。侍大、わしの忍耐を試すのはこれが最後だ。長年お前の生存を願ったように、士武が生きて早光一族を導くこともまた願っている」
「わしは二人の息子のためなら軍勢とすら戦う覚悟だ。故に、兄弟に刃を向ける行為は二度と許さぬ」
侍大は勝侍の言葉を聞き、怒りと悔しさの表情を浮かべるが、まだ頭を下げたまま冷静さを保つ。
「かしこまりました!」
「そしてこの娘については――」
勝侍が続けようとした時、侍大が頭を上げて遮る。
「で...でも父上。橘子を屋敷の使用人として置いていただけませんでしょうか?彼女は...私が今までで唯一の友でした。共に多くの苦難を乗り越えてきました。決してご迷惑はおかけしません。許していただけるなら、私への罰を二倍...いえ、三倍にしていただいても構いません!どうか...どうかお願い申し上げます!」
侍大は再び頭を深く下げ、勝侍に嘆願する。もう片方の手で橘子の頭を押し、同じように頭を下げさせる。
「わかった。置いてやろう」
部屋の全員が勝侍の許可に驚愕するが、橘子だけは平然としている。千代が反論しようとする。
「ですが...旦那様。素性の知れぬ平民の娘をいきなり屋敷の者にするなど、ご家名にかかわります。そして望巳様が...」
「望巳についてはわしが直接話す。ただし橘子は屋敷の規律に従うこと。さもなくば即刻この決定を撤回する。侍大、お前は短期間で二度もわしの期待を裏切った。彼女の失敗には一切容赦しない。わかったか?」
「はい、父上!」
侍大は橘子を肘でつつき、返事を促す。
「あ...はい、お父様」
「橘子が自由に出入りできるのは台所、中庭、使用人部屋、庭のみ。他の場所へは直接の用事がある時のみ。千代が監督し、仕事を割り振る。異論はないか?」
「かしこまりました、早光様」
「はい、父上」
「では千代、橘子を連れて行け。居室を見せ、適切な着物を支度し、家の仕事を教えよ。士武は修行に戻り、祈跡殿には稽古後に来るよう伝えろ。侍大はここに残れ。まだ話がある」
一同が部屋を去り、扉が閉められる。侍大は勝侍が何を言おうとしているのか不安げだ。
勝侍は侍大の正面に座り、深く息を吐いてから、より思いやりのある穏やかな口調で話し始める。
「その橘子という娘は...お前の...恋人のような存在か?」
侍大は混乱した表情で顔を上げる。
「いいえ、父上。ただの友達です。誓います」
勝侍は侍大の言葉を完全には信じていないようだが、二人きりになったことで態度を和らげ、息子の肩に手を置く。
「聞け、侍大。仮に恋仲だとしても構わん。お前は我が子だ」
侍大はまだ理解できていない様子で、父の真意が掴めない。
「どういう...?」
「お前の母・美神も平民だった。農民の娘だ。父上は我々の仲を猛反対した。それでも私は彼女と結婚を貫いた」
「そ...そんなこと知りませんでした。じゃあ母上はお姫様じゃなかったんですか?」
「彼女の高貴さは身分ではなく心にあった。だがそうだ、平民出身だ。だからこそ、お前には寛大でいられる。父上が私と母にしたことを、お前には繰り返さぬ」
「ただし、二人で努力せねばならん。関係を認める代わり、家の規律は守れ。さもなくば庇いきれぬ。わかったか?」
「はい。橘子がここにいられるよう最善を尽くします。でも父上...橘子には...ちょっと問題があって...」
「問題だと?」
侍大はどうやら言い訳をでっち上げようとしているようだ。明らかにその場の思いつきで、勝侍にはそれがバレている。
「えっと...橘子は...暗闇が怖くて...一人でいるのが苦手なんです。一緒に過ごしたつらい日々のせいで...だから...俺の部屋で...寝させてもらえませんか?それとも...屋敷の外でもいいから個室を...」
勝侍は侍大を見つめ、この説明が論理的でないことを悟る。
「他の使用人たちと同じ部屋で寝かせる。蝋燭を傍に置いてやるのは構わん」
「でも...橘子は...他の人と上手くやれなくて...俺とだけは...」
勝侍は侍大の真意を理解したようだ。
「わかっている、侍大よ。だが聞け、二人きりで過ごす時間は制限せねばならん。お前に関する悪い噂は極力避けるべきだ。特に...お前の経歴を考えればなおさらだ。お前に苦労をかけたくない」
侍大は勝侍の言葉に苦渋の表情を浮かべる。
「じゃあ...せめて倉庫か、どんなに狭くて不便でも個室で寝かせてください。誰かと同室で寝るだけは...お願いします」
勝侍は橘子への侍大の献身を見て、自分が若き日に美神を守ろうとした姿を思い出す。かすかに、ほとんど気づかれないほどの微笑みが浮かぶ。
「わかった、侍大。そこまで言うなら、裏手の小部屋を使わせよう。『非常時』に限り、お前の部屋で寝ることも許可する。ただし出入りを誰にも見られぬよう気をつけろ。いいな?」
侍大は半信半疑ながらも嬉しそうに立ち上がる。
「本当ですか!?ありがとう父上!後悔させません!俺...罰も文句言わずに受けます!二度と父上を失望させません!命に誓って!」
「よし、侍大。お前を信じよう」
立ち上がる前に、勝侍は侍大の肩に手を置き、真剣ながらも助言するような口調で目を見つめて言う。
「侍大、くれぐれも調子に乗るな。『あれ』をするには時というものがある。もし...するとしても...静かに、誰にも気づかれぬようにしろ。わかったか?」
侍大は完全に困惑し、父の真意が理解できないが、ただ頷く。
「は、はい、父上」
話が終わると、侍大は自分の部屋へ向かい、橘子と共に扉を閉める。周りに聞かれないよう注意しながら。
「もう大丈夫だ、橘子」
突然、橘子は白い煙と共に大爆発する。煙が晴れると、そこには彼女の真の姿が現れた。橘子はキツネの妖怪だった。
美しい赤橙色の毛並み、尖った耳、切れ長の目、自在に動くひげ、そして大きな1本の尾。長い間息を止めていたかのように、安堵のため息をつく。
着ていた着物は変身能力の一部ではなく、そのまま身に着けている。侍大は心配そうな顔で彼女の頭を撫でる。
「大丈夫か?」
「うん、危なかった」
「よし。父上を説き伏せて、お前専用の小部屋を確保した。そこでなら正体を戻して休める」
侍大は橘子の肩を掴み、今までに見たことないほど真剣な眼差しで見つめる。
「いいか橘子、お前がどれだけ悪戯好きで、強情で、言うことを聞かないかは知ってる。だが頼むから...慎重に行動しろ。ここの侍は、お前より大きくて強い妖怪を狩ることで有名だ。バレたら終わりだ。そして俺は...」
侍大は涙をこらえながら話す。
「お前を失ったら...俺、どうすればいいのかわからねえ」
橘子も今までに見せたことのない真剣な表情で、侍大の顔をまねて、今回は本気だと示す。右手を取り、狐の前足で侍大の小指を絡める。
「約束する、ジオ。バレないように最大限気をつける。キツネは賢いって忘れたの?アタシ、生き延びる術は知ってるわ」
侍大は嬉しそうに笑い、橘子を強く抱きしめる。橘子はその態度に少し驚いた様子だ。
「ありがとう。それと...黙って出て行ったこと、謝る。お前を守りたかったんだ。狩られるリスクを負わせたくなかった...ごめん」
「ジオ、あなた前と変わったわ。なんか...感情豊かになったみたい」
士武の部屋では、腕を額に当てて考え込んでいる。
『あの娘がこの屋敷に住むことになるのか。もう二度と...あんなことが起こりませんように。でないと、今度こそ本当に死んでしまう。侍大の手にかからずとも』
ふと風呂場の光景がよみがえり、士武は顔を赤らめ、手で顔を覆い、必死に枕に顔を押し付ける。
『神様、どうか私の心を汚したこの病を治してください。再び清らかな心に戻させてください』
雷士の部屋では、星空を見上げながら思う。
『いつになったら僕もこの物語で重要な役割を果たせるのだろう?』