凛《3》
何か、温かく心地のよいものをすぐ側に感じた。
微睡む意識の中で、俺はそれを無意識に抱き寄せる。
柔らかで、滑らかで。
良い匂い。
極上の羽毛布団でも、抱き締めているかのような。
あまりに心地よい感触で、腕の中にスッポリとジャストフィットするせいで、微睡む俺の意識にはそれが何か、という思考が全く浮かばず、ただ快楽を貪るようにギュッと抱き続け――その心地よい何かが身動ぎしたことで、ようやく俺は、今の状況が何だかおかしいということに気付く。
ただ、戦場を駆け抜けたことで身に付けた危機察知能力が全く働かなかったため、特に警戒態勢に入ることもなく、ゆっくりと目を開け――すぐ傍に、真っ赤になっているウタがいた。
「…………」
「…………」
目が合った気がしたが、俺は気のせいだったことにしてもう一度目蓋を閉じる。
「……おい、起きたのなら、放してほしいんじゃが?」
「枕は喋らない。だが、俺のベッドにあるのは寝具だけのはず。つまりこれは……喋る布団だ」
「さてはお主、寝惚けておるな?」
「寝惚ける? はは、俺が寝惚ける訳ないだろ。仮に寝てる状態で狙撃されても、察知して弾斬りしてやるわ。……? あれ、ウタ?」
「うむ、寝惚けておるな」
やれやれ、と言いたげな様子で苦笑のようなため息を一つ吐き、ウタはゆっくりと俺の腕の中から抜け出すと、身体を起こした。
「ほれ、お主も起きよ。リンに、寝惚け顔を見られてしまうぞ」
「……お、おう」
その段階で、ようやく俺の意識もまた、覚醒し始める。
……そう言えば昨日の夜、ウタが俺の布団の中に潜り込んできたんだったか。
隣の奴の体温を感じて、なかなか寝付けず……で、朝か。
一度寝てからは、本当に、ぐっすりとよく眠れたような気がする。
……すぐ傍に、起きている他者がいても気にならず、寝続ける。
そうか。
俺にとってウタは、もう、一切の警戒をする対象じゃなくなったのか。
「なんか……全身からまだ、お前の匂いを感じるな」
「嗅ぐな馬鹿たれ!」
「ぐへっ」
枕を投げ付けられた。
流石に今のはセクハラだったか。
けど、最初にベッドに潜り込んできたのはお前だし、自業自得と思ってもらいたいね。
◇ ◇ ◇
朝食を一緒に食べた後に、リンは帰って行った。
朝食の時とか、まだあんまり頭が働いてないのか、半分くらいボーっとしながら飯を食っており、それを見たウタが「ほれ、溢しておるぞ」とあれこれ世話を焼いていて、大分微笑ましい光景だった。
帰り際には、「いつでも遊びに来ていいからな」と伝えてウチの合鍵を渡してある。
ウタに促された点もあるとはいえ、お節介かとも思ったが――。
「……お兄ちゃん、お紐、ない?」
「紐? 家にあるのだとビニール紐だけ――いや、待て、あるな。これとかでいいか?」
そういう会話の後に、アイテムボックスから一メートルより少し短いくらいの紐を取り出して渡すと、それを鍵に通して輪っか状に結び、首から下げていたので、どうやら相当嬉しく思ってくれたようだ。
なお、その紐、ミスリルを中心に、アダマンタイトとオリハルコンを練り込んで糸状にしたもので、ぶっちゃけ相当に貴重なものではあるため、そのやり取りを見たウタが吹き出していた。
次、リンが来るまでに、布団をもう一式買っておかないとな。我が家はボロアパートに相応しい広さしかないが、ちゃんと詰めれば三人寝られないこともないだろう。
あと、リン用のパジャマとかもか。
……こうなってくると、本当に魔物退治の仕事があって良かったな。貧乏フリーターのままじゃあ破産待ったなし、だ。
「それにしてもユウゴ、あれ、みすりるの合金紐じゃろう。出すところに出せば、凄まじい値が付くはずじゃが」
リンが帰った後、ちょっと呆れたような顔をこちらに向けるウタ。
「持ってても使い道ないしな。リンに渡すんだったら、別にあれくらいはいい」
あれなら絶対に千切れたりもしないし。
いや、俺とウタなら斬れるが、つまりはそこまで想定しないとならないくらいに頑丈な紐ということだ。
「……ふむ、なるほどの」
何事か納得した様子のウタ。
「? 何だよ」
「お主は実は、女に甘いたいぷなのじゃなと思うて」
「そうか? 普通だろ」
「流石、勇者じゃのー。……よし、ユウゴ」
「何だ」
「お菓子、食べたーいな!」
きゃるん! という効果音が聞こえそうな動きで、ウタは上目遣いをしながらそう言った。
「…………」
俺は、無言で棚にあった菓子を取り出す。
そして、それをウタに渡――さないで、袋を開けてムシャムシャと一気に全部自分で頬張った。
「あーっ、な、何でじゃ!?」
「いや、なんかムカついたんで。ったく、朝飯食ったばっかなのに、無駄に食わせんなよ」
「え、これで儂が文句言われるのか!?」
愕然とするウタである。
最近俺、お前の色んな表情を見るのが楽しいかもしれない。
「ぐ、ぐぬぬ……納得がいかん! やり直しを所望する!」
「ほう、まあいいぞ。やってみろ。イラっと来なかったら菓子もちゃんとやろう」
「よし、言うたな! では、改めて」
俺の言葉に、ウタはオホンと一つ咳払いしたかと思うと、先程とはポーズを変え。
「おにーいちゃん! 私、お菓子食べたーいな!」
媚びっ媚びの声を出し、もうこれでもかというくらいにあざとい表情をする元魔王様。
その瞬間俺は、こっそりと手に持っていたスマホで、パシャリと写真を撮った。
「な、何じゃ!?」
「お、よく撮れてる。よし、これは永久保存だな」
「しゃ、写真か!? 今の写真か!?」
「正解。ほら、これだ」
「うにゃあっ!?」
うにゃあっ、って。
「け、消せ! 消すんじゃ、そんなもの!」
「何だ、今更。あんな媚びっ媚びの、元魔王とは思えない威厳皆無の声出してたんだし、恥ずかしがる必要なんてないだろ。あ、菓子食いたかったんだよな。ほら、じゃあこれやるよ」
「お主、一回滅ばんか。いや、儂が必ず滅ぼす」
ウタは、こちらを上目遣い気味に睨みながらも、受け取った菓子の袋に手を掛け……。
「……よく考えたら、朝食食うたばっかじゃし、そこまで菓子食いたくもないわ」
そう言って食うのをやめた。
せやろな。
◇ ◇ ◇
シン、とした、清浄で厳かな空気の漂う、小さな神社。
ポツンと、お社だけが存在する、穏やかな場所
凛の家である。
「…………」
一人、自宅に帰ってきた凛。
静かで、快適で、何の変化も存在しない、退屈な見慣れた我が家。
凛の住まう神社に、人は来ない。
昔は時折訪れる者もいたが、現在では滅多におらず、つい最近優護が表を通り掛かってこちらに気付くまで、数十年は誰の目にも止まっていなかった。
それは、この場所が半ば『異界化』しているのが理由である。
魔力によって空間が歪曲することで、他とは隔絶された、一種特異なエリアが発生することがある。
優護とウタがいた向こうの世界では、『ダンジョン化』などと呼ばれていた現象で、それ故に適性のある者でなければ、そもそも存在を感じ取ることすら出来ないのだ。
だから、凛は、一人きりだった。
ずっと、ずっと。
「……んふふ」
優護がくれた、綺麗な紐に通された鍵を見て、小さく笑う。
ぽかぽか。
ふわふわ。
あったかく、嬉しい、とても良いもの。
見ているだけで、何だか安心感を覚えるもの。
凛は、ただジッと、鍵を見続けていた。




