悪意《4》
「――ふむ」
そこは、酷く不安定な空間だった。
果たして俺は今、立っているのか、倒れているのか。
斜めになっているのか、逆さまになっているのか。
五感が曖昧で、まるで明晰夢の中のような不安定さが全身を包んでいる。
空と大地の区別が付かない。様々な色が混ざり合い、不安定に揺れ、混沌を形成している。
水の中に垂らした、様々な色の絵具が、混じり合わずに絡み合っているかのような、そんなマーブル模様で世界が構成されているのだ。
――夢、ね。
これだけならば、ただの奇妙な俺の夢、といった感じであるが、一つだけ、明確な存在感を放っているものがあった。
「緋月」
「――にゃあ」
ポンと足元に現れた緋月が、俺を安心させるかのようにスリ、と頭を擦り付けてくるので、しゃがんで軽く撫でてやる。
そう、右手に握っている、彼女の存在だけは、くっきりと明瞭だった。そこには確かな存在感があり、全く夢とは思えない。
「どう思う、この空間? 俺の幻覚にしては、意識が明瞭だし、お前の存在もはっきりしてるんだが」
「んにゃ、んにゃう」
緋月は、言った。
この前、リンとキョウが、こっそり夜におやつ食べてたよ、と。
……あぁ、俺と共有していない部分の記憶の話か。
「にゃあ、うにゃ」
「いや思いっ切りバラしてる件について」
「んにゃ」
「そうかい」
どうやら、賄賂としてもらったちゅ〇るで口止めされていたらしい。
うん、この、俺の想像の域を超えている感じ。俺の幻覚によって生み出された緋月という訳じゃあないようだ。
――今、俺が覚えているのは、罠に掛かったため、被害が己のみで済むよう結界を張ったところまで。
別に自己犠牲という訳じゃない。気にするべきが俺だけなら、何とかなると思ったのだ。
爆発然り、毒ガス然り、それ以外の攻撃であっても防ぐ自信はあった。だが、攻撃ではなく別空間への転移だというのは、予想外だった。
一本取られたと言わざるを得ない。
鵺の野郎め、人の意表を突くのが流石に上手い。そういう騙し合いの場で戦ったら、俺じゃ勝ち目がないか。
やっぱり奴を倒すには、どうにかして表に引きずり出すしかないな。
まあいい、飛ばされたのなら、脱出するだけだ。
大事な場面で罠に掛かってしまったが、向こうはウタがいる。俺がいなくなっても何とかするだろうから、そう心配はしていない。
……ん、やっぱアイツがいるという安心感は、これ以上ない程だな。
はは、離れていても、アイツのおかげでこんなにも安心するとは。
「んで、この空間だが……相手を異空間に閉じ込めて、身動き取れなくさせるタイプの罠かね」
言わば、インスタントダンジョンといったところだろうか? 即席のダンジョンを形成して、相手をそこに閉じ込める。
ならば脱出方法は、正攻法なら奥まで攻略して核を潰すことだろうが、俺の場合は緋月で壁を斬る、ということで空間を破綻させることが可能なはずだ。
「にゃあ?」
「あぁ。お前に斬ってもらうのが早そうだな。……つってもここ、壁も床もないし、この様子だとどこ斬りゃいいのかって感じなんだが」
そうして周囲を見渡していた俺は、気付く。
いつの間にか、少し先に扉が出現していることに。
ポツンと、空間に浮かび上がっている扉。
先程までは、確実に存在していなかったのだが……。
「……ま、このままじゃどうにもならんし、行ってみるか。あの扉を斬ったところで、問題は解決しなさそうだし」
「にゃあう」
「あぁ、頼む」
刀へと戻った緋月を手に、警戒しながらその扉を開ける。
踏み込んだその先は、だが今までと変わらぬ景色で――いや。
だんだんと、色が変化していく。
遠近感があやふやだった世界に距離が生まれ、形が生まれ、そこに色が付いていく。
何もないだだっ広いだけの空間が、何か建物と思しき形状を成していき、少しして、空間に滲み出すようにして現れた、人と思しき幾つもの存在が、いつの間にか俺の周囲を囲っていた。
顔はわからない。見えているのに、認識出来ないような、あやふやな感じがある。
ただ、一つだけ確かなのは……彼らは恐らく、くたびれた顔をしているのだろう、ということだ。
――あぁ。
なるほど。
よく覚えている。これは、初日だな。
全てを賭した期待と希望が、ただのぬか喜びで終わり、絶望する者達の顔。
これは、俺のトラウマで構成された精神世界か。
◇ ◇ ◇
向こうの世界にて、ウタの圧倒的な軍勢に押された人間達は、今すぐ滅ぶという訳ではないが、このままでは滅びは避けられないだろうというところまで追い込まれていた。
今なら言えるが、アイツが虐殺なんて許す訳ないし、長年の戦争相手であった人間でも大事にしただろうから、素直にその支配下に入っていた方が絶対に幸せだったと思うのだが、まあそう簡単に行かないのが人というものなのだろう。
ウタの先代から続いていたらしい戦争は、それだけの血を流し、恨みを募らせ、ウタ程の賢王でさえ、まず『戦って相手を降す』ことが最善だと判断しなければならない程の怨嗟が積み上がっていたのだ。
とにかく、そうして追い込まれた人間達は、一つ賭けに出た。
一流の魔法士達を集め、今の状況を打破出来る存在を、異なる次元の世界から呼び出そうとしたのだ。
向こうの世界では、証明こそされていないものの、異世界自体は存在するだろうと考えられていた。
だからと言って、『じゃあ、異世界人の英雄を呼び出してこの戦況をどうにかしてもらおう』なんて発想に至るか? って感じじゃああるが、まあ本当に藁にも縋る思いだったのだろう。
そして、そんな一流達が全力で行った儀式は、なんと成功し――呼び出すことが出来たのは、魔力は一般人並、戦う術など何一つ知らない、ニート一歩手前のどうしようもないフリーターである俺だった訳だ。
全身全霊の儀式が成功して、大喜びしていた人間達の、俺が何の役にも立たない穀潰しであるとわかった時の、顔。
絶望。
失望。
呆然。
号泣。
まあ、結局最後には俺とウタで相打ちになった訳だし、自分で言うが英雄を呼び出すこと自体は成功していたんじゃないかと思うのだが、当時は魔法のまの字も戦闘のせの字も知らなかったからな。剣なんて握ったこともなかった訳だし。
呼び出された直後の俺は、当然混乱したし、家にも帰りたかったし、そっちが勝手に呼び出して、勝手に絶望して、ふざけるなと大声で叫びたいところであったが、グッと堪えてやめた。
下手に喚いたら、それこそ「面倒だから」という簡単な理由で、処刑されそうだったからだ。
そういう顔を、あそこにいた者達は全員が浮かべていた。
人道も何もあったもんじゃないが、戦争によって精神がすり減らされ、さらには滅亡寸前である者達に、一定の理性など期待するだけ無駄だろう。
「…………」
周囲を見る。
俺を囲う者達が、何か責め立てるように声を荒らげており、頭を抱えて地に倒れ伏し、あるいはただ呆然と立ち尽くしている。
顔がわからないのは、多分俺が覚えていないからだな。彼らが絶望しているという印象だけが強く残り、それ以外の印象の全てを塗り潰してしまったのだろう。
実際に声が聞こえる訳ではないのだが、顔無しどもからひとしきり罵倒を浴びている内に、また周囲の様子がだんだんと変化していき……次は、最初の戦場か。
一般人であることが発覚した俺は、もうどうしようもないから、ただの一兵卒として最前線送りになった。まあ最前線と言っても、すぐ目前に魔王軍がいたから、後方と大して距離は開いていないのだが。
もう最悪の状況ではあったが、俺がぶち込まれた部隊を率いていた隊長は、良い人だったな。
何も知らず、というか言葉すら通じない俺に、厳しくも一からちゃんと生き残る術を教えてくれて、ぶん殴られることもあったが公平だった。
理性を失っておらず、善性だった。
塹壕から頭を出すなとか、味方の位置を確認して突出するなとか、基本的な、だが生き残るために非常に重要な知識を、簡単な言葉と身振り手振りを交えて教えてくれたのだ。
俺が生き残ることが出来た理由の一つに、彼の教えがあったことは間違いない。
で、そんな隊長に率いられ、部隊での初めての戦いに参加し、彼が魔法を食らい目の前で頭部が粉砕され、スイカ割りみたいにぶちまけられた脳漿を全身に浴びた時、「あぁ」と思ったものだ。
砕けた頭蓋の破片が俺の皮膚に突き刺さり、その痛みを妙に他人事に感じながら、ようやくここで俺は、異世界にいて、戦場にいるのだと実感したのだ。
誰も俺を気になどしない。
誰も俺を助けなどしない。
野垂れ死んだら、そのままゴミのように捨て置かれるだけ。
俺を助けられるのは、俺だけ。
死にたくなければ、俺が己で考え、死ぬ気で生きねばならない。
そういう覚悟が一つ、彼の死によって、ようやく定まったのだ。
――そして今、見覚えのある男の頭部が、粉砕された。
熱い、だが芯の奥まで冷えるような、冷たい血の感触。
「……フン」
俺の顔を赤く染め上げた脳漿を指で拭い取り、先を見る。
遠くから、迫り来る軍勢。
多種多様な種が入り混じった、魔族の突撃兵達。
この時の俺は、あれが震える程に恐ろしく、死に物狂いで戦っている内に、気付いたら凌ぐことが出来ていたのだが……。
「まだこの頃は、お前は使ってなかったな。いやぁ、もう大変だったよ。そもそも言葉がまずわからんから、味方と連携なんて出来ないし、武器の振り方もよく知らないし。第一波を凌いだところで、自分の剣が折れ曲がってることに気付いたくらいだったしな」
「にゃあ」
「はは、あぁ、その通りだ。この頃からお前を持ってれば、もうちょっとマシに戦えてたかもな」
塹壕から出る。
飛来する銃弾や魔法の数々を斬り捨て、俺の方から前へと向かっていき――衝突。
だが、何者も緋月の刃を止めることは出来ない。
盾で防御しようとする敵も、緋月に刃を合わせようとする敵も、魔法で牽制しようとする敵も、一刀を振るうごとに両断され、死んでいく。
やはり顔はわからないのだが、俺を囲む魔族兵達が微妙に動揺した様子を見せる。
あぁ、昔の俺と違う行動を取っても、特に問題はないんだな。
当然昔はこんな風に突出なんてしていなかったのだが、なるほど、恐らくは俺の記憶に加えて、AIのようなもので細部を補完しているのだろう。
――最初の戦場を切り抜けた俺は、その後も死ななかった。
一つ意識が切り替わったことで、周りがよく見えるようになったことが大きな理由だと思っている。命懸けという状況で、生き残るために今何をすべきなのか、ということが冷静に考えられるようになったのだ。
あとはまあ、運が良かったのは間違いないな。
どんな強者も、運が悪ければ簡単に死ぬし、どんな弱者でも、運が良ければ生き残る。
……いや、異世界の戦場に召喚された時点で別に運は良くないか。果たして、プラスマイナスで俺の運の収支はどうなっていることやら。
皮肉なのは、こんなクソみたいな場所、絶対に逃げ出してやるとずっと思っていたものの、結局一番生存率が高そうなのが、その人間達の軍隊と共に行動することだった点だろう。逃げ場所など、どこにも存在しなかったのだ。
緋月を手にしたのは、少し戦況が落ち着いたことで、後方に下がる余裕が出来た時だ。
ふと立ち寄ってみた武器屋の樽に、刀が無造作に入れてあったのだ。実際には、刀と同じコンセプトで造られた剣、なんだろうけどな。
それを見て俺は、無性に日本が懐かしくなり、そして日本を忘れたくなくて、買った。
その頃の緋月は、ちょろっと魔力を吸う能力を持っただけの、一級品とは程遠い武器だったからな。ただの一兵卒の俺でもギリ買えたのだ。
――そうして、戦い続けて多分一年くらいが経ったところで、大きな転機が訪れる。
「はは……そうだよな。俺のトラウマなら、当然出て来るよな」
また場面が切り替わり――ゆっくりと視線の先に現れる、その姿。
息が止まりそうになる程の覇気。
冷笑。
その凄まじいまでの美から放たれる圧力は、ただ対峙しているだけで膝を屈しそうになる程で、視線を向けられると、蛇に睨まれた蛙どころか、龍に睨まれた蟻みたいな気分にさせられる、世界最強の存在。
――そう、そこにいたのは、背が縮む前の、全盛期のウタだった。
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