日常の一コマ《1》
最近のウタの一日は、少し忙しい。
以前優護のボロアパートで過ごしていた頃と比べ、やることがいっぱいあるからだ。
まず、朝早くに起きてするのが、皆の朝食の準備である。
朝食の用意は、最近はもうほとんどウタがしている。優護は朝が弱いからだ。
警戒状態で、神経を張り詰めさせている時ならば、決めた時間に必ず起きられるだろうし、微かな物音だけで目を覚ますことが出来るだろうが、命の危険がないこの家――つまり、安全地帯だと判断している場所では、起きるのが一番遅くなるくらい朝が弱いのだ。
全く、可愛いものである。あの元勇者様、一見すると隙がないように見えて、至るところで隙だらけだ。
寝起きの素直な様子はもう、凛に負けず劣らず無垢な感じで、思わず頭を撫でたくなる。朝だとそうしても文句を言ってこない。
ただ、そんな寝惚け眼な様子でも、朝の訓練だけは欠かさず行う辺り、鍛えるということがもう、肉体の習性として彼の中にあるのだろう。
習慣ではなく、習性だ。なので、正直なところあまり褒められるものではないだろう。
一度武器を手にした者は、もう二度と、それを手放すことが出来なくなる。
だから、鍛えるのだ。己の心身を。力に、飲まれぬように。
優護もまた、それをわかっているからこそ言う。斬るものは全て、己で決める、と。
仕事が下りてきて戦うことも最近は多いが、しかし対象を斬ると最後に決めるのは、彼自身なのである。そういう掟を一つ、心に定めている。
力というものの危険性を理解し、それに溺れぬように一線を引いている大きな証だ。
杏の方は少し、力を求める節があるかもしれない。仕事が仕事で、彼女の実力が、歳の割に高いと言っても一流のレベルにないことを自覚しているからかもしれないが、そこに焦りがあるのは確かだ。
戦いにおいて、そういう余計な心の機微は、枷だ。己の実力が足りないかもしれない、という不安が動きを鈍くさせる。
まあでも、最近は出会った頃と比べて、精神に大分余裕がある様子が窺えるし、ちゃんと優護が「足りないなら今あるものでの戦い方を組み立てるだけだ。焦るな。考えろ」と教えているので、まだまだ未熟な心身も改善されているように思う。
誰かが見てやる必要がある、と言ってウチに連れて来た優護の判断は、正解だと言えるだろう。己も日々、それとなく気にかけておくことにしようか。
「あたし、今日は学校行ってくる! だから昼はいらねぇ」
「うむ、頑張ってこーい。そうそう、今後弁当がいる日は言うんじゃぞ? 用意してやるからの。お主の好物もしかと入れてやるぞ!」
「はは、あんがと。そん時は頼む!」
「俺も今日レンカさんとこで仕事だから、行ってくるわ」
「ちと待て、後ろが跳ねておる。ほれ、直してやるから、こちらに来い」
「んお、わかった。サンキュー」
そう言って、家を出て行く二人。
ここのところ、ニホンの弁当についても勉強中である。
今は杏は長期休暇のようだが、それが終わると教育機関での学業の日々があるようなので、その時のために弁当というものを学んでいるのだ。
彼女の好物も、すでに把握しているので、毎日幸せになれる弁当を作ってやるつもりである。結構渋いものが好きで、まずゴーヤチャンプルーを作ると喜ぶ。
凛などは、「……苦い!」と言って顔を顰めるゴーヤチャンプルーだが、「はは、この苦さが美味いんだろ。凛はまだまだ子供だなぁ」などといって、美味しそうにバクバク食べるのだ。
なお、そう言いつつブラックコーヒーを用意すると、最初はそのままで挑戦するのだが、ちょっと顔を顰めてすぐに砂糖を入れ始める辺り、可愛いものである。
杏に弁当を作ったら、凛も多分欲しがるだろうから、彼女用のものも作らないといけないか。
凛の好物は、ハンバーグにからあげ、あと外せないお稲荷さん……うむ、子供が好きなものを一通り網羅しておけば問題ないだろう。
華月用の魔力食材に関しては、現在絶賛研究中なので、もう少しだけ待ってもらおう。ただ、シロに色々と教えてもらったため、この夏の間には形になるだろう。
特に、庭の畑の野菜に関しては、最初から魔力をたっぷりと込めて作っていたため、それが収穫出来れば華月でも食べられるはずだ。
魔を知悉した、元魔王の腕の見せ所である。是非とも、華月がニコニコ顔になる美味い料理を作らねば。
「……お姉ちゃん、宇月と華月と、お散歩行ってくる!」
「うむ、では、周りに気を付けて行くように。耳と尻尾はちゃんと隠しておくんじゃぞ? カゲツも、人目と魔力バッテリーの残量をちゃんと気にするように!」
「……ん!」
「クゥ」
「かか、うむ。頼んだ、ウゲツ」
己が面倒を見ておくから、と言いたげな様子で鳴く宇月に二人を任せ、そして誰もいなくなる家。
一気に、静かになる。
「――おっと、今はお主らがいたな」
ふよふよとダイニングを漂い、自由にしながらも少しウタを気にした様子を見せる鯉達。
「お主らも、家の敷地内は漂っておって構わんが、外には出ないようにするんじゃぞ? どうやら普通のコイは、宙に浮かばんらしいからの」
わかっているのかわかっていないのか、三匹はウタをジッと見詰めた後、好きなようにどこかへ漂って行った。
嵐のような朝の時間は終わったが、ウタの仕事はまだまだある。
次に取り掛かるのが、洗濯だ。皆が寝間着から着替え終わったところで回していた洗濯機から洗い物を取り出し、庭に干していく。
毎日行ってはいるのだが、四人分となるとやはり量は多く、今やこれも日課だ。
洗濯が日課の元魔王。ふふふ、今では己も、完璧なニホンの主婦になれていると言えよう。己が本気になればこの程度、造作もないということだ。
洗濯が終われば、次に軽く家の中の掃除を行い、庭で育てている野菜の様子を確認して水やりを行った後、財布をかばんに入れて今日の料理のための買い物に出かける。
意外と勤勉なウタは、魔王時代のクセでやれる時にやるというのが身に付いている。戦局において、後回しなんてことにすると当たり前のように状況が悪化していくので、やらねばならないことはすぐにやる、というのがもう習性なのだ。
これも、習慣というよりは、習性の方だろう。もう己は、そういう生き物なのだ。
「昼は、リンと二人じゃから、残っておるそうめんで良いとして……さて、夜はどうするかのぉ。夏じゃから、やはり季節的にもキョウの好物的にもゴーヤチャンプルーか? ユウゴも好きじゃし。けど、それじゃとリンの顔がしなしなになるんじゃよなぁ」
そう、スーパーの生鮮食品コーナーで悩んでいると、横から声を掛けられる。
「――あら、ウータルトさん。こんにちは」
「おぉ、イシダ夫人! こんにちは」
それは、我が家の隣に住んでいる、老婦人だった。
「どうしたの? 何やら真剣な表情で悩んでいたようだけれど」
「いやの、今日の晩飯、どうしようかと思うて。上の子がゴーヤチャンプルー好きなんじゃが、下の子が苦いの嫌いで、しなしなになるもんで。何を作ろうかと」
「うふふ、それは困った悩みねぇ。優護君は?」
「ユウゴの奴は何でも美味いって言って食うから論外じゃ、論外」
「あぁ、一番困るものねぇ、それは。ウチの旦那もそうだわ。もうちょっと具体的に、何が美味しいのか言ってくれないと。まあ、残さず食べるから嫌いではないんでしょうけれど」
「そうなんじゃ! 全く、男というのは、言葉足らずなものよ」
彼女は長く我が家の隣に住んでいるようで、そのため華月に関連した事件のことも知っており、最初の頃は何かとこちらを心配してくれていたのだが、何事もなく過ごしている様子を見て安心したらしい。「幽霊がいるって噂だったけれど、所詮は噂ねぇ」などと以前に言っていた。
その噂は真実じゃぞと言いたくなったが、ただ苦笑だけしてその時は済ませた。その幽霊はもう家族だ。
あと、最初の頃はこちらを完全に子供だと思っていたようだが、「いやいや、儂は成人済みじゃぞ! ユウゴは儂の旦那じゃ!」と抗議したところ、「あらそうなの? 外国の方はお若く見えるのねぇ」と感心したような顔ですぐに納得した、大らかな夫人だ。
細かいところは、あんまり気にしないタイプであるらしい。ツッコみどころが満載であろう我が一家に関して、深くを聞いてこないのは非常に助かるので、付き合いやすい相手だ。
「小さい子は、一回『嫌い』だと認識すると、どれだけ美味しくしても主観が邪魔して、『嫌い』のレッテルを剥がしてくれなくなるものねぇ。まあ、好き嫌いは良くないから、我慢して食べさせて、あとはその子の好きなものも一緒に作ってあげるといいんじゃないかしら?」
「ふむ、ではからあげも作ってやるとするかの! それがあれば、渋々とゴーヤの方も食べるはずじゃ」
「うふふ、それがいいわねぇ。優護君も幸せ者ねぇ、こんなしっかり者な奥さんがいて」
「そうじゃな、その通りよ! 彼奴はもうちと、儂がいることへ感謝の心を示した方が良いな! 『ウタ、大好き! ありがとう!』くらい、恥ずかしがっておらんで言うべきじゃ」
「二人は本当に仲が良いのねぇ」
ニコニコしながら話を聞いてくれる石田夫人と、雑談を交わしながら買い物を終えたウタは、家に帰ってすぐに昼食の準備に取り掛かる。
まだ凛達は帰っていないようだが、そろそろのはず――と思ったところで、玄関の引き戸をガララと開く音がキッチンにまで届く。
「おかえりー」
「……ただいま。うぅ、お姉ちゃーん」
「? どうした、リン?」
ひょこっと玄関の方に顔を出すと、そこにいたのは、泥だらけになっているリン。
いや、身体だけは嫌に綺麗なのだが、服は泥だらけだ。そう言えば宇月が、浄化の魔法が使えるのだったか。
「……お水遊びしてたら、転んで泥んこになっちゃった……」
「あーあー。ほれ、すぐ風呂に入ってこい。洗濯は儂がしてやるから」
「……んぅ、ありがとう……」
トボトボという足取りで風呂場に向かう凛を見て、やれやれという思いで苦笑を溢すウタだった。
一コマのはずなのになんか長くなっちゃったから分割。
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