鯉達
――夏も中頃。
「よーう、お前ら。ちょっと早いが、餌の時間だぞー」
しゃがみ込んだ杏は、庭の池にて鯉達に餌をやりながら、己の足に頬杖を突いてパクパクと食べる三匹の様子を眺める。
今、家にいるのは杏と華月だけ。
まず優護は、連れ帰った宇月用のペット用品を色々買いに、本人――いや本狼を連れてペットショップに行った。
普通の犬とは言い難い宇月が、いったい何を必要として何を必要としないのかわからないので、彼自身に聞いて買うものを決めるようだ。
犬に何を買うのか聞いて決める。なかなかシュールだが、ウチの犬は後ろに『神』が付く犬であり、多分知能的には己より賢いと思われるので、きっと的確に欲しいものを教えてくれることだろう。
全く優護は、何でもかんでも拾ってきて、その内この家、妖怪屋敷になるのではなかろうか。……いや、もう現時点でなっているか。
そもそも家からして付喪神であり、純人間は優護と己だけだ。日本広しと言えども、ここまで多様な種が揃った家は、他にはないのではなかろうか。家に遊びに来る者も、大体皆人間以外だし。
最近は、果たして優護がただの人間と言ってもいいのかどうか、疑っている杏である。
緋月は絶対に優護とセットなのでその買い物に付いて行き、耳と尻尾を隠せるようになったことで大々的に外出が可能になった凛も、面白そうだからと一緒に家を出て行った。
ウタは、夕食等の買い物だ。旅行帰りで、冷蔵庫に大したものが入っていないため、色々と買いに行った。
旅行で食べたメニューに触発されたのか、「今日は焼き鳥を中心にした、居酒屋めにゅーじゃ!」とか何とか言っていた。二日目に泊まった旅館で食べた焼き鳥が、いたく気に入ったらしい。
ウタと一緒にスーパーへ行くことはよくあるので知っているのだが、彼女はやはり、メチャクチャ注目を集める。
最近は、それこそずっと一緒にいるので忘れそうになるが、百人に聞けば百人が絶世の美少女と答えるであろう容姿をしているのがウタであり、最初こそ少し苦手に思っていたが、一度懐に入れば非常に面倒見が良く、快活でよく笑い、これ程気の良い女性など果たして他にいるだろうか。
表には見せないようにしているが、優護がもう完全に心を奪われているのも、むべなるかな、といったところだ。
まあ、ウタの方がもう、絶対に優護から離れないと思われるので、結婚は秒読みだろう。すでに事実婚状態と言っても良いのではなかろうか。おのれ優護。
とにかく、そういう訳で今家にいるのは、己と華月の二人だけなのである。華月の方はきっと今、ふよふよと気ままに家の中を漂っていることだろう。
――考えるべきことは、多い。
杏は最近、特殊事象対策課に行くことが少なくなった。
家が寮からこちらになったことも理由の一つだが、それ以上にこの家の敷地内にある林で、優護達が剣を見てくれるようになったことが一番大きな理由だろう。
わざわざ職場の訓練場を使わなくても、良くなった訳だ。
優護は剣筋が非常にデタラメなので、彼が口を酸っぱくして「俺の剣術は覚えるな」と言う理由はもう理解しているのだが、それでも彼と模擬戦などをやって得られるものは多い。
相手の意識の間隙を突く攻撃が、本当に上手いのだ、彼は。性格が悪いとも言う。
最近など、右手で木剣を打ち下ろしてきたので、それを受けようとしたら、いつの間にか優護の右手から剣が無くなっており、「えっ」っと思ったら次の瞬間には左手に握られていて、ロクに防御出来ず一撃を食らわせられた、ということがあった。
勿論寸止めだったので怪我をしたりはしなかったのだが、どうも彼が使えるゲームみたいな魔法、『アイテムボックス』とかいうので一度木剣をしまい、次に左手で取り出しながら斬った、ということらしい。
アイテムボックス式抜刀術、とかいうのも優護はよく使うし、そういう魔法まで混ぜられると本当に変幻自在で、全く対処することが出来なくなるのだ。
ウタなんかは、「魔力の流れを追うことじゃ。魔法の発動たいみんぐで、大なり小なり必ず魔力の高まりを感じられる故、それが感知出来れば予測も容易い」などと言っていたが、高速戦闘中にそんなところにまで気を回せるか、という話である。
いや、杏も二人に鍛えられているので、ある程度魔法の感知は出来るようになっているし、対処出来るようにもなっているのだが、その相手が優護になると、わかっていても対処出来ない――いや、そもそも巧妙過ぎて気付けなくなってくるのだ。
あまりにも魔力の流れがスムーズ過ぎて、その動きを捉えることが出来ないのである。
なお、優護がウタと模擬戦する時は、その魔力の高まりまで囮に使って攻撃しているらしく、二人に比べれば、やはりまだまだ己は子供扱いされる対象なのだろう。
……まあ、最初に模擬戦をやった頃などは、優護はアイテムボックスを絡めた攻撃を一切していなかったので、一応己も成長はしていると見るべきか。
とにかく、そうして家で訓練するようになったので、仕事で招集される時以外は特殊事象対策課にあまり寄らなくなったのだ。
ただ、例の人形兵とは杏も多少戦闘を行っているので、その件の報告のため、近い内に田中隊長――田中支部長のところへ行くべきだろうとは思っている。まだ向こうから声が掛かっていないし、かなり忙しそうにしているので、余裕を見て、ということにはなるだろうが。
彼は、己には事件の深いところまで教えてくれないところがあるのだが、それがこちらを思ってのことだというのは、もうよく知っているため、あまり負担を掛けたくないのだ。
彼に無理を言ってこの業界に入り、戦闘の術を学び、今がある。ただただ戦う術を求めた昔から少し経ち、もう十八となった以上、己の我がままで彼に迷惑を掛けたくないと……そう思うのだ。
それに、下っ端も下っ端である己は、行けと言われれば行って、対処しろと言われたら対処するだけなので、実際あまり深くを知る必要もないだろう。次の仕事が入った時に向けて、今は特訓を続けるのみだ。
あと、最近のことで気になるのは、近付いてきた『明華学園』での文化祭だろうか。
九月が始まってすぐに行われる、『明華祭』と呼ばれているそれは、中等部の方の校舎まで借りて行われる、地元じゃちょっと有名な規模の文化祭で、杏のクラスもまた出し物をやることになっている。
三年生で、就職が決まっている杏のような者以外は受験勉強真っ只中である訳だが、それでも高校最後の年だからと、クラスの皆が張り切っているのだ。
杏も、裏方としてこの夏の間に幾らか手伝いを行っており、準備は順調に進んでいる。
ウチの面々はもう呼んでいるので、きっと当日も来てくれるだろうが……何と言うか、家族が授業参観に来た時のような、えも言われぬ気恥ずかしさがちょっとあって、正直今からそわそわしているところがある。
学校での己の態度と、家での己の態度が全然違うことは自覚しているので、その差を見られるのがかなり気恥ずかしいのだ。
そして……一度家族を全員失っている己が、そんな風に感じることが出来るのが何だか嬉しく、やはり気恥ずかしく、表に出さない部分で一人、悶えていた。
また、全然やる気がなかったのに、クラスでの会議を話半分に聞いていて、テキトーに返事してしまったせいで――ああああ。
「フゥ……」
杏は一つ大きく息を吐き出し、荒ぶる心を落ち着けるために、目の前の鯉達を眺める。
「……お前ら見てると、何だか本当に安心するよなぁ」
悩み多き年頃である杏だが、モミジ、コガネ、ポン太の三匹を見ていると、だんだんと精神が落ち着いていくような感じがある。
優護も以前同じようなことを言っていたのだが、その気持ちもよくわかるのだ。
この庭自体が、心落ち着く空間になっているからという理由も大きいだろうが、その中で池の水の音、木々の葉の擦れる音などを聞き、気ままに泳ぐ鯉達の様子を見ていると、何だか気分がとても安らぐのである。
鯉でもアニマルセラピーの効果があるのかな、なんてことを考えながら、餌をやった後ものんびり池の様子を眺め――杏は、気付く。
「……ん?」
いつの間にか、一匹姿が見えなくなっていた。
コガネだ。
今泳いでいるのは、モミジと、ポン太のみ。綺麗な金色の、コガネの姿がない。
「あれ?」
さっきまでは確実にいた。あれだけ派手な色をしているのだから、そこにいれば一目瞭然にわかる。
だが、奥まで見渡しても、今はいない。
この池は広いが、それでも民家の庭にあるものだ。程度は知れている。
いや、水は透き通っているので中は非常に見やすいものの、木や塀の影などで死角がない訳でもないので、よく探そうと場所を変え――チャポン、と水の跳ねる音。
見ると、そちらでコガネが悠々と泳いでいた。
「あ、何だ、いたのか。どこに隠れてたんだ、お前? はは、かくれんぼが上手だなぁ、コガネは」
笑いながら杏は眺め――そして、再び気付く。
「あれ?」
今の一瞬の内に、今度はモミジの姿が見えなくなっていた。
優雅に近くを泳いでいたのに、どこにもいない。
何でだ、と思いながら探していると、再びチャポン、という音が聞こえ、そちらを見ると――いた。
紅葉のような綺麗な赤を持つ、モミジ。先程までそこには、確実にいなかったのに。
「……何だ、狐に化かされてるのか? いやでも、今凛いないしな……華月ー」
そう呼ぶと、「呼んだー?」と言いたげな様子で、ひょっこり家の方から顔を出す華月。
「そっちにいるもんな……いや、何でもない。何してたんだ、今?」
すると彼女は、「お裁縫!」と言いたげな様子で、両手に持った針と布を掲げてみせる。可愛い。
以前ウタが、華月のぬいぐるみの分身に付けるワッペン――外部魔力バッテリーを作ってあげ、とても喜んでいたのだが、どうもそれで自分も裁縫をやってみたくなったらしい。
旅行から帰ってから、優護の大型タブレットで裁縫関係の電子書籍を買ってもらっていたのは知っていたのだが、さっそく実践しているらしい。
「裁縫かぁ……頑張るなぁ。あたし、そういう細々した奴、苦手だ」
杏の言葉に、「やってみたら、意外と楽しいかもよ! 今度一緒にやろ!」と誘う華月。
杏は苦笑し、「その内な、その内」とだけ言って誤魔化すと、鯉達の方へと視線を戻す。
今度は、ポン太の姿が見えなくなっていた。
「……何だ? 本当に、どうなってんだ?」
順番にいなくなる鯉達に、若干混乱し始めていた杏は、その時とん、と何か背中に軽くぶつかって、え、と思って振り返る。
ポン太が宙に浮いて、杏のことを見ていた。
「――のわぁっ!?」
一瞬固まってから、驚いて思わず尻餅を着く杏。
すると、最初から浮いていたポン太に加え、モミジとコガネもまた当たり前のように池から浮いたかと思いきや、「大丈夫ー?」と心配そうな様子で近くをふよふよと漂い始める。
「あ、あぁ、大丈夫だ。悪い、心配させたな――って、いやいや、お前ら何で当たり前のように宙浮いてるんだ!?」
素でノリツッコミしてしまう程動揺する杏だった。
そんな彼女に対し、三匹はよくわかってなさそうな、不思議そうな様子で、顔を見合わせるかのような動作を見せる。
意外と賢いことは知っていたのだが、なんか、己が思っている以上に知能が高いような気がする。
と、杏の驚く声が聞こえたからだろう。
再び家の方から、「どうしたのー?」と言いたげな様子で華月がやって来て――浮いている三匹を見て、恐らく気分的には口をあんぐり開けているのだろうということが丸わかりな様子で、ぬいぐるみの身体でもわかる程に動揺を見せる。
なんかその姿が無性に可愛く、思わず杏は彼女の頭を撫でていた。
――この後、優護に「鯉達が浮いてるんだが、何か知らん?」とメッセージを送ったところ、彼から「は?」とだけ返ってきた。
まあそうなるな、と思って一人、杏はちょっと笑った。