エピローグ《1》
――その時のことは、鮮明に覚えている。
勝手知ったる、退屈ながらも居心地の良い、己の領域。
空間の隅々まで把握しており、だから、ここに異分子が侵入した時は即座にわかった。
時々、人間が迷い込んでくることはあるが――これは違う。
悪意。
敵意。
つまりは、敵だ。
非常に微かな気配をしており、霧に紛れようとしているが、間違いない。
「グルル……ッ」
「うっふっふ、生意気な犬畜生ですねぇ。一丁前に私に向かって吠えますか」
聞こえる声の先には、仮面が一枚浮かんでいた。
濃密な、ヘドロでも凝縮したかのような、ドス黒い魔力の塊。
長く生きた己ですら、ほとんど見たことがないような、怖気を覚える程の悪意。
「犬畜生ならば、彼我の実力差を感じて、黙っていてほしいものです。私、嫌いなんですよ、畜生って。愛と憎しみの、細やかな機微を全然理解しませんし。特にお前達犬は、主人に尻尾を振るしかない、能無しじゃないですか? ――だから私が、主人としてお前を飼ってあげます」
「グルルッ!!」
仮面へと向かって放ったのは、全てを巻き込む風。
最大威力。
一切の手加減なく、仮に外で放ったのならば、天候が変わってもおかしくない威力のそれだったが――。
「――これだから、力に驕った愚か者は。力任せの大雑把は良くないです。神は細部に宿る、という言葉を知らないのですか? いやまあ、知らないのでしょうが。やはり犬畜生は犬畜生ということですね」
一瞬だった。
何か背後から、手に触れられたと思ったその時には、己の顔に仮面が張り付けられていた。
「――ッ」
瞬間、魔力の制御が全く効かなくなる。
肉体の制御もまた効かなくなり、五感が急激に働かなくなっていくのがわかる。
霞む視界。全身に走る痛み。
グチャグチャになる四肢の感覚。
己は今、果たして立っているのか、倒れているのか。
「うっふっふ、落ちなさい。闇の底にまで。あぁ、あなたの身体は有効活用してあげますので、ご心配なく。では、私はこれで――」
遠くなっていく声。
それは、最悪の気分だった。
肉体の、外側どころか内側の全てに、なめくじでも這いずり回っているかのような感覚。
何だか綺麗好きらしい人間と違って、己は別に、ハエが身体に集ってようが気にすることはあまりないが、それでもその感覚は、あまりにも不快だった。
脳味噌の内部、神経の一本一本にまで直接触られ、いじくり回されるかのような。
恐らく、一瞬でも気を抜けば、この意識は消え去る。それだけの強烈な呪詛だ。
もう、前は見えない。耳も聞こえず、鼻も効かない。
五感は全て、闇の中。魔力も、ロクに感じられない。
暗闇の奥底へと意識が引っ張られていく、凄まじい引力があり――舐めるな。
この程度。
この程度で、己を殺せるものか。
この程度で、犬神と呼ばれたこの身を、貶められるものか。
いいだろう。意地の張り合いだ。己はお前の足を引っ張り続けてやる。
闇の一歩手前にて、意識を残し続け、お前のやりたいことに反逆し続けてやる。
殺せるものなら、殺してみろ。犬畜生は、生き汚いぞ。
そうして、いったいどれだけ抗っていただろうか。
一日か二日か、一週間か。さらに長い時間か。
全身を巡る強烈な不快感を、一睡もすることなく耐え続けていた彼は、ソレを見た。
――光。
何も見えぬ中で、その光は強烈であった。
否、何も見えぬからこそ、だろうか。
強烈で、眩しい程で、だが温かく、心地よい。
いったい、これは。
闇の奥底にまで届くその光は、己の身をも強く照らし――。
◇ ◇ ◇
而して、己は青年に付いて行くことになった。
ミナギユウゴ。
光を放つ青年。
この光は己を退治しに来たのだと察した時、思わず喜び、このクズを殺してやれると思っていたのだが、ミナギユウゴはこちらの想定すら上回り、腕を一本差し出してまで救ってくれた。
全く、無茶をすると思ったものだ。ギリギリで察して牙を止めたからこそ、腕を食い千切ることはなかったが、下手をすればそのまま失っていたはずだ。
ただ彼は……多分、そうなっても笑っていたのだろう。「無くなっても生やせるから、気にしなくていいぞ」なんて言っていたが、確実にそういう問題ではない。
一つ、常人と違うのは間違いないようだ。
しかし、己は知っているのだ。
英雄というのは、得てしてそんな存在であると。
日常の中では発揮されぬ能力が、特定の環境にて発揮される。
だから彼は、普通にしている時はどこにでもいるような青年に見えても、一度事が起これば、強烈な光を放ち、皆がその輝きを見るのだ。
生きとし生ける者は、闇を嫌い、光を求める。
特に、英雄を必要とするような極限の場では、その光は……殊更に輝く。
放たれる強き光に、敵も味方も釘付けとなり、否応なしに目を離せなくなるのだ。
……そして、そんな彼の光に誘われたのは、己だけではなかったようだ。
彼の伴侶らしい、冗談だろうと思う程の存在感を持つ鬼族らしき女性が言っていた、「同じ立場」という言葉は、恐らくそういうことだろう。
狐の少女。付喪神だという人形の少女。普通の人間の少女。
刀の化身の猫に、鬼族の女性の伴侶。
皆、己が感じたものと同じものを感じ、彼に付いて行ったのだろう。
いや、ただ、刀の猫と鬼族の女性に関しては……彼女ら自身もまた、彼と同じものを放っているように思う。
千年に一人。そんな逸材が、二人と一匹、いるように感じるのだ。
面白い一家だ。
つくづくそう思う。
「――本当に、何ということか……あなたがそんなことになっていたというのに、全く気付けずにいるとは。巫女様と呼ばれて、人間の守護者気取りでいて、にもかかわらず友の苦境に気付けない。己という存在が恥ずかし過ぎて、もう人前に顔を出すことが出来ません……」
そして、現在己の目の前で、激しく落ち込んだ様子を見せているのは、また別の狐の少女。
すでに出会ってから数百年は経っている、古い付き合いの友人だ。
「クゥ」
仕方ない。全ては己が弱く、負けたせいだ。お前に責任はない。
そう話すも、狐の少女はフルフルと首を横に振る。
「それでも、です。犬神と呼ばれたあなたが、そこまで消耗してしまっている中で、私は……私は、呑気にお茶を飲んで、お野菜を育てていたのです! お祭り、みんなが楽しんでるかな、なんて考えながら!」
自分自身に強い憤りを感じているらしく、わなわなと震えている彼女に、思わず苦笑を溢す。
まあ確かに、彼女の立場に立ってみれば、そう思うのも仕方ないかもしれないが。こちらが生きるか死ぬかの最中で戦っていたことは事実故、友が苦境の間のんびりとしていた、というのは割と心に来るのかもしれない。
――現在の場所は、人間の大きな住処だ。
確か、旅館、とかいう場所だ。
夜にもまた、祭りで別の催しがあるらしく、ミナギユウゴ達はそれを見に行くそうなのだが、先に一度、ちぇっくいんなるものをするのだそうだ。
そこに、この狐の少女がやって来た形だ。
「本当に……海凪優護には感謝しなければなりません。あなたのことまでを、こうして解決してくれるとは。……ただ、良かったのですか? あなたは、人間にほとほと愛想を尽かして、ここ二百年は己の領域に籠っていたでしょう」
ふむ。
まあ、その通りだ。
別に人間が嫌いな訳じゃない。ただ、移り変わりが激しく、時には縋り、時には化け物と退治しに来るような者達の相手が面倒になって、距離を置いていたことは確かだ。
この、九尾の娘達のように、常に人間達と共にあろうとは思わないのだ。それは、己のみならず似たような境遇の妖怪達などならば、共通して思っていることだろう。
如何せん、人間は多過ぎる。である以上、善良な者も、そうでない者も相応にいる。
そんな社会は、人間でない身にとっては、酷く生き辛い。
だから……初めてだ。
これだけ、生きるその先を見たいと思った人間は。
「クゥウ」
「そうですか……ふふ、あなたがそうと決めたのならば、私は何も言いません。それに、良き選択だと思います。あなたも感じていると思いますが……海凪優護。彼は、特別です。彼と共に生き、その先を見ることは、あなたにとっても良きものになると思います」
「クゥ」
「うふふ、わかりました。そうですね、それがいいでしょう。この機会に、海凪優護の下で、今の人間社会を見てみるといいと思います。色々と面白いでしょうから。――宇月、でしたか。私もこれから、そう呼んでもいいですか?」
小さく笑い、頷く。
そう、今の己は、宇月。
初めて得た、主人と言えるかもしれない存在。
その生き方、是非とも見させてもらうとしよう。
エピローグが長くなったので分割!