烏
薄暗い、深い霧が蔓延る山中。
あるのは、道が一本。山頂へと向かって、石階段と何十もの鳥居が延々と連なっており、その先は霧で何も見えない。
深き、薄暗闇が支配する世界。
まるで、人界とは一つ、存在する位相が違うかのような。
いや、実際にその場所は、人の足では到達出来ない場所にあった。
大自然の豊富な魔力によって空間が歪んだことで、山の入り口自体は人里からそう離れていない位置に存在しているにもかかわらず、入り方を知っている者でなければ足を踏み入れることは出来ず、手順を知っている者でなければ山頂にまで辿り着くことは出来ない。
また、仮に一度迷い込んでしまったのならば、手助けする者が現れねば二度とは出ることが出来ないのだ。
――そして、そんな山道を登る者が、二人。
「……西条、貴様、こんな山道でもメイド服なのな」
「私はメイドでございますれば」
九尾の大妖怪ツクモと、その右腕たる西条透華。
「……まあ、貴様のこと故、貴様が構わんのならば妾は何も言わんが。それより、ここはかなり魔力が濃い。大丈夫か?」
「問題ありません。あなたが行くところならば、私もまた、気張って付いて行くだけですので」
「くふ、そうか。では、ここからも気張っておれ。この先にあるのは妖怪どもの巣窟じゃ。――さ、着いたぞ」
やがて二人は、山道の終端に辿り着く。
そこにあったのは、大きな社だった。
「――烏天狗」
ツクモがそう呼びかけると、社の手前の霧をぶわりと掻き分けるように――いや、霧から生み出されるように、その姿が現れる。
山伏の恰好をした、猛禽類のような頭部と翼を持った男。
烏天狗。
その後ろには、同族であろう、同じく山伏のような格好をし、手に錫杖を持った者達がおり、また社の方からは、一本足を持った唐笠や、一つ目の小僧、そして軒に吊るされた、顔を持った提灯などがそれとなくこちらを覗いていた。
妖怪達の溜まり場。
言葉で表すならば、それだろう。
「おう、狐の嬢ちゃん達の片割れか。久しぶりやな」
「貴様はいつ見ても古臭いの。たまには街にでも出ると良い。人の世の進化は凄まじいものよ」
「余計なお世話や。それに、時代に合わせて生きられるお前さんの方が変わりモンやろうて。儂ら妖怪がそこまで器用に生きられるもんかいな」
「妾はそう生きておるが」
「お前さんだけじゃろう。お前さんの片割れの子は、儂らとそう変わらんし」
微妙に呆れた顔の烏天狗に対し、ツクモはただ軽く肩を竦め、それから言葉を続ける。
「そんなことより、今日は聞きたいことがあって来た。何が聞きたいのかは……まあ、貴様ならばわかろう?」
烏天狗は、言った。
「――鵺、か」
「ようやく尻尾を表しおった。あのデカ蛇めは、やはり奴にとっても渾身の作品だったということであろう。しかし、腹の立つことにまた糸が途切れ掛かっておる。貴様のカラス達ならば、何か知っておるのではないか?」
「アレは儂らと比べても、一層化生の存在よ。そこにあるだけで、混沌がばら撒かれる。人の世が、大きく揺らぐ。ただ……」
「何じゃ」
烏天狗は、話す。
「理性の無いケダモノの魔物。悪意を持って暴れることしかしない魔物。人里付近に生まれ落ちた魔物はそうなることが多く、しかし不思議なことに、大自然の中で生まれた魔物にはその傾向が無い。ただ、自然界の営みのまま、自然の摂理に従って生きるのみ。つまり――悪意ある魔物達は、人間達自身が生み出している訳や」
「…………」
魔力が高じることで、出現する存在。
魔物。
その在り方は、当然、基となった魔力の質に準ずる。
悪意、敵意、悲しみ、それらが入り混じった魔力によって生まれた魔物は……それ相応の、醜悪な魔物として誕生するのだ。
「無論、悪意の無い、人と寄り添って生きることの出来る存在も、時折生まれるがな。陰と陽。この均衡が崩れた時、儂らと意思疎通すら出来ん畜生が如き魔物が増え、さらには大妖が生まれ出ずる。今の人の世は、それが崩れかけておるんやろう。であれば――少なからず人間を減らした方がええんやないか、という考えが生まれるのは、至極当然のことよ」
好々爺然としていた男から放たれる、底冷えするような鋭い眼差し。
滲み出るのは、ツクモやシロなどよりも、遥かに長く生きている大妖怪の格。
「――――ッ」
即座に透華が動き、ツクモを守る動きを見せ、烏天狗の後ろにいた弟子らしき者達もまた、呼応するように構えを取る。
しかし、ツクモだけは何ら動じることはなく、手をヒラヒラと振って透華を止めると、フンと鼻を鳴らした。
「貴様の言いたいことはわかったが、そもそも『鵺』を追うのは、遥か以前から妾達が苦汁をなめさせられているからこそ。別に人間のためではない」
「ほぉ? そうか。儂は、狐の嬢ちゃん達は、両方とも人間が大好きなんやと思うておったが」
「進歩する人間ならば、な。しかし鵺のやり方は、そんなの関係なく全てを滅ぼす。それにあの者、放っておいたら貴様らのこととて害すであろうよ。彼奴めの動きに、人間だの魔物だのと区別するものはない。実験動物か否かのみ。妾達共通の敵であるのは間違いないであろ」
「クク、ま、そうやな。何や、最近少し、丸くなったのかと思うておったんやが。勘違いやったか」
烏天狗の言葉に、ピク、とツクモは反応する。
「フン、相変わらず覗き見が趣味か」
「覗き見とは人聞きが悪い。カラスは人の世のどこにでもおるもの。であれば、その数だけ目と耳があるのは道理よ。――ま、ええわ。今回は対価無しで協力したる。他人事であらへんのは確かやからな。と言うても、儂らとて大した情報は持っとらん。カラス達の目にも鵺は一度も映っておらんしの」
「妾達のことは覗き見出来るのにか」
「言葉に棘があるのぉ。まあしかし、ゼロでもない。それが得られた場所は、日ノ本ではないんやがな。――欧州よ」
その言葉に、ツクモはピクリと反応する。
「……今のあちらの騒動を、鵺が起こしたと?」
ツクモが思い出すのは、五ツ大蛇の封印を解いた、愚か者達。
その者達が使った杖が、古代ケルトの、ドルイド達が使用していたものと同じ杖だったことはすでに確認が取れている。
日本国外と繋がりがあることは、元々わかっていたが……。
「ちと違うな。火種は元々あったものやろう。そこに薪をくべた、という表現の方が正しいやろな。儂はそこまで手広くやっておらんから、深いところの情報は得られとらんが、あちこちの魔物被害に彼奴の痕跡が見て取れる。儂も、己で調べるまでわからんかったくらいの、薄い痕跡よ」
そう言って烏天狗は、懐から一枚の板――小型のタブレットを取り出した。
「……何じゃ、結局貴様も現代機器を使っておるではないか」
「クク、情報を扱う者として、今の時代これが無ければアカンよ。使い方を覚えるまで随分難儀したし、今も十全に扱えておるとは決して言えんがのぉ」
「? 紙よりそちらの方が使いやすいであろ。難儀する要素があるか?」
「……お前さんに敵わんのは、こういうところやな。まあええ、今のところの、鵺が出没したと思われる地域、人造魔物が暴れたと思われる地域の情報を見せたる。儂に出来る助力はそこまでや。そもそも国外は畑違いやしな。だうんろーど? だったかはようわからんから、細かいところの操作はお前さんがやってくれ」
「ここまでやっておるのだったら、USBメモリにでも纏めておってくりゃれよ」
「急に来ておいて注文の多い奴や。それに儂らあなろぐ派は、新しいものの操作等は一つ覚えるので精々よ。嬢ちゃんと一緒にするな」
「いやUSBメモリは出てからもう随分経っておるが」
「儂はまだ洗濯機が最先端技術や」
「そうか。貴様はまず頭を現代化させるべきじゃな」
ポン、と渡されたタブレットを受け取り、ツクモは軽く目を通しながら、己のタブレットへと情報を送る。
「お前さんの言う通り、鵺は他を顧みん。求むるは、混沌なんやろう。時代の節目節目に現れては、世に災厄と混沌を振り撒き、嘲笑う。今、再び活動を増やしているのならば、それはこの時代が、節目やと思っておるからこそ」
「……節目、か」
色々と、その理由はあるだろう。
世界大戦から半世紀以上が経ち、世界のあちこちに火種がある現状。
グローバル化という名目で、他国との交流が増えたことで生じている、価値観のぶつかり合い。
資本主義という形態の問題点が噴出している、現代の経済状況。
遥か昔から今に至るまで続いている、根深い宗教問題。
ただ、それでも……『節目』という言葉で最初にツクモの脳裏に浮かび上がったのは、全く関係ないであろう、ただ二人の姿だった。
「さ、儂に出来ることはこれで全てや。結構頑張って集めた情報や、ちゃんと活用してくれな困るで」
「うむ、感謝する。礼として、今度本当の最先端洗濯機を貴様に持ってきてやろう。AIが搭載されておる奴じゃ」
「いや使い方のわからんモン持ってこられても困るんやが」
「学べ」
「……ほんに、手厳しいわ。ツクモの嬢ちゃんは」
猛禽類の頭部であってもわかるような、わかりやすい苦笑を浮かべる烏天狗だった。
◇ ◇ ◇
――とある大聖堂にて。
「聖女様」
「……聖女様はおやめください。良い大人に、真顔で聖女様などと呼ばれると、吹き出しそうになります」
「聖女様は聖女様でありますれば。我慢していただきたく」
聖女と呼ばれた少女は、軽くため息を吐くと、気を取り直すように言葉を続ける。
「それより、準備が出来ましたか?」
「はい。ですが、よろしいので? 大司教様方に怒られそうですが」
「私はカゴの鳥ではありません。自由に生き、自由に死ぬのです。あんなボケた老人達のオムツ交換は、私の仕事ではありません。一緒にお頭も変えたらいいのに」
「聖女様。お口が悪うございます」
「おっと、失礼しました」
少女は、毒を隠した美しい笑みをニコリと浮かべると、言った。
「では、参りましょうか。――日本国へ」