杏の帰宅
「杏ちゃん」
「おん?」
学校の帰り道、数少ない花以外の友人二人と帰路を共にしていると、その内の一人が声を掛けてくる。
「何だか最近、機嫌が良さそうな感じだよね!」
「あ、わかる。表情明るくなったよね」
「何だ、急に」
怪訝な表情を浮かべる杏だが、二人は特に気にした様子もなく、きゃいきゃいと女子高生らしいテンションで会話を続ける。
「もしかして……彼氏! 彼氏出来たんでしょ!」
「例の、一度学校に来てたって男の人? ちょっと噂になってたよねぇ、杏ちゃんが男の人と仲良さげに一緒にいたって!」
一瞬吹き出し掛けた杏を見て、その反応を図星だと判断した友人達は、さらに彼女に詰め寄る。
「その反応、正解だね!? なるほど、ついに杏ちゃんのお眼鏡に適うお人が現れたと!」
「これは……お赤飯案件だね!」
「あーうるさいうるさい! 違うっての! てか赤飯って、お前らあたしの何なんだ!」
「お姉ちゃん」
「杏ちゃん見守り隊」
「ダメだコイツら、もう手遅れだったか……」
己とは違う、本当にただの女子高生である友人達だが、しかしそれでも杏自体を真っすぐに見ている二人であるため、割と居心地の良い気分で冗談を言い合いながら共に電車に乗り、それぞれの駅で別れる。
今日は特に仕事が入っていないので、そのまま彼女は真っすぐ家へと帰った。
「ただいまー。……ただいま、か」
それだけの言葉に、何だか嬉しくなっている己に気付いて、我ながら単純なものだと思わず苦笑を溢す。
すると、扉を隔てたリビングとダイニングの方から、各々の「おかえりー」という声が聞こえてくる。
返ってくる返事にくすぐったい思いを感じながら、自室に荷物を置いて手洗い等を終えた後、まずダイニングの方に行く。
そこにいるのは、すでに良い時刻のため、一人で夕食の準備を始めているウタ。
「おかえり、キョウ。今日もお疲れ様じゃ」
「ただいま、何か手伝うか?」
「まだ大丈夫じゃ。手が必要になったら呼ぶ故、お主ものんびりしておって良いぞ」
「わかった」
ウタは必要な時はちゃんと手伝いを頼むので、彼女がそう言うのならば大丈夫なのだろうと、杏はリビングの方へ向かう。
そこにいるのは、ソファにぐでーん、と転がっている優護と、そのユウゴの顔にくっ付ている緋月。
そして、緋月を真似して華月もまた優護に引っ付き、そんな彼らのすぐ横で、ニコニコと楽しそうに笑っている凛。
見ているだけで和む、彼らの日常風景である。
「ふ、ふえっくしょん! おい緋月、毛がくすぐったいって」
「にゃあ」
「そうかい。ありがたい毛並みだこって。――あ、おかえり、キョウ。学校はどうだったか?」
「別に、いつも通りさ。あたしはもう、学校行く意味も無ぇんだがな。隊長が、せめて高校くらいは出とけって言うから」
「あー、まあ、キョウはもう将来決まってるもんな。今の時期の高三だと、大体みんな大学受験のための勉強だろうし、そこまでの知識は必要無いか」
「あぁ。微分積分とか教えられても、絶対に一生使わねぇっての」
「……微分積分か。確か、遥か古代から伝わる、秘められた術式を解き明かすための暗号……」
「……おー。強そう」
「にゃあ」
「おう、確かに微分積分の名前は強そうだがな?」
こちらから視線を逸らしている優護に笑っていると、彼は言葉を続ける。
「ただ、知識は力だぜ? キョウ」
「あたしみたいな業種の人間でも?」
「あぁ。きっと、百を学んだところで、戦闘とかの場で活かせる知識は一とかそれくらいだろうよ。けどその一は、得てして命を繋ぐことがあんだ。だから武器を増やすために、二百学んで、三百学んでってするんだ。時間対効果は低いかもしんないけどな、意外とバカにならんもんだ」
「……優護も、それが力になったことがあんのか?」
「あぁ。特にオススメは食べられる野草知識だ。つまり……家庭科だな!」
「アンタ根本的に家庭科って科目を勘違いしてそうだな」
そんなサバイバル知識こそ、学校では絶対に教わらないものだろう。役立つかもしれないが、現代日本でそんな知識を発揮する機会には恵まれてほしくないものだ。
「あとは、適切な生物の斬り方や解体の仕方……そう、理科だ!」
「実際学べそうなのがちょっと釈然としねぇ」
人間や動物の肉体構造は、確かに理科の範疇かもしれないが。
魔物も、特殊な種を除いては、ある程度自然界の生物と同じ肉体構造をしていることがすでにわかっているし。
「まあ今のは極端な例だが、世の中何が役に立つのかわからないってのはよくあることさ。田中さんがお前に学べっていうのも、別に将来のこと抜きにしてもその方が良いって思ってるんだろうよ。ウタとか、色んな面で超強い上に、超賢いし。知識が力になってる典型例だな」
「優護は?」
「……俺は超強くて超絶賢い!」
「そうか。超絶なのか」
「超絶だ!」
「……ん、お兄ちゃん、よしよし」
慰めるように頭を撫でる凛と華月。
緋月は、「主ももうちょっと精進したら?」と言いたげな様子で頬をペシペシ叩いている。あのお猫様は、優護に懐いているように見えて、意外と辛辣である。いや、実際懐いてはいるのだろうが。
「つまり、勉強なんか出来なくとも強くなれるし、問題無いってことだ!」
「自分のプライドのために百八十度意見変えやがった、コイツ」
「問題大ありじゃぞ馬鹿たれー。その阿呆の戯れ言に耳を貸してはならんぞー」
思わずといった様子で、ダイニングの方から聞こえてくるそんな声である。
「オホン、そういう訳で、勉強はちゃんとするように! 我が家に住み始めてから成績下がったとか言われたら、田中さんに睨まれそうだし。つまり俺のために勉強してくれたまえ」
「そうか。ならあたしの課題も手伝ってくれよ。先に繋がる知識を色々教えてもらえれば、あたしのやる気も出て成績も向上するかもしれないだろ?」
「ウター、キョウが課題手伝ってくれってさー! 代わりに俺が晩飯の準備するから!」
「超絶賢いんじゃから、キョウの勉強を見るのも楽じゃろう? 安心せい、これからずっと、課題がある時は儂が代わりに全ての家事をやってやるでな」
「神は死んだ!」
「……杏お姉ちゃん、凛も、手伝ってあげる!」
ピョンと手を挙げてそう言う凛の隣で、同じように「手伝う!」と手を挙げている華月。
「はは、おう、ありがとう。それじゃあこの辺りのとか、一緒にやってくれると嬉しいんだがなぁ?」
今日の分の課題を、試しに彼女らに見せる。
「……きょ、強敵! ここは……せんりゃくてきてったい!」
「撤退、撤退せよ! 敵はあまりに強大、我らの戦力では太刀打ち不可能! 戦略的撤退だ!」
「いやアンタも逃げんのかい」
ぴゅーっとダイニングの方に逃げて行く優護達を見て、キョウは思わず声を出して笑っていた。
「にゃあ」
てくてくと近付いてきた緋月が、ぽふぽふとこちらの足をたたきながら、「まー、お前も頑張りな。よー知らんけど」と言いたげに鳴いた。
「……こんな家にいれば、そりゃあ明るくもなるか」
「にゃあ?」
「いいや、何でもない」
そう言って杏は、緋月の頭を撫でた。
緋月は、それを受け入れるように目を細めた。
今、私は荒野に出ています。
探さないでください。