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桃カレー  作者: るるる
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カレーと桃をめぐる男と女のプラトニックラブ

かつてぴちぴちした桃だったのに、桃カレーの具になってしまった桃は、桃として桃の木になっていた頃を懐かしみまどろんでいた。

だって生クリームがたっぷり入ったまろやかカレールーに浸っていて、だんだん眠くなってきてしまったから。桃は鶏もも肉と良く煮込んだために溶けて原型を留めていない玉ねぎに挟まれていた。それでも幸福だった。だって感触があんまりにも心地良いんだもの。

じゃあ、桃だって溶けてしまったわけでしょう、玉ねぎみたいに。

あなたはそんなことを思うかもしれない。でもこれが違ったんだな。なぜなら桃はコトコトとよおく煮込まれた過程には参加していなかったから。一番最後の仕上げに、そう、生クリームを流し入れる前にサッとみじん切りにされて加えられたから。

柔らかくてジューシーな鶏もも肉と、甘みをも醸し出しているカレーには絶対なくてはならない基本材料の玉ねぎ、その狭間でなかなかのプレッシャーを桃は実は感じていた。 

だからなるべくなら、加わるのはラストがいいと強く望んでいたのだった。少しでも自分の存在を強く訴えたいと思っていたからだ。

でも桃は、最初からカレーになることを善しとしていたわけでもなかった。

えっ、じゃあ、どんな風な覚悟をしてカレーの中に入ってやろうという気になったわけ。その辺り、ちょっと聞きたいな。(桃の方に耳を澄ます)

……。

桃は、実はとても恥ずかしがり屋だった。だからテレビ見ながらとか、明日のランチのこと考えながらとか、そんな中途半端な聞き方はやめて欲しい。

もう、姿勢は正して出来れば正座なんかして聞いて欲しいな。それぐらい、感動的な話なんだから。きっとね。


井原退蔵は大層なカレー好きだった。彼の悩みはたったひとつであり、それはほんの一日の間だけでも何度も何度も彼の頭の中に渦巻いた。

どうして自分は、インド人に生まれなかったんだろう。

そうすれば、毎日カレーを自然と食べていられるのに。朝も昼も夜もスナックタイムにも夜食にも!

ここから発展して幾つかのバージョンがあった。

たとえばそれは、「どうして日本人だというだけで、毎日カレーを食べて過ごすことが不可能なんだろう」

というものだった。

彼の頭の中は大抵がカレーに関することで占められていた。だから色にたとえるならあらゆるイエローカラーがどろどろと、とぐろを巻いているような感じだった。彼はいつもながらの仕事をいやいやしている最中でも、上司のお小言を受けている時でも、口うるさい妻の愚痴を聞いている時でも、子供達がちっとも言うことを聞かずそばで騒いでいる時でも、とにかく頭の中の半分どころか大方はカレーのことで常に占められていたから何か起ころうがされようが、無視されようが蔑まされようが、なんともなかった。平気だった。 

彼の脳はカレーのお陰で無事守られていたのだった。こんな幸せなことってない。

だから彼は名もない小さな会社勤務で給与が安いために自分のお小遣いがあまりにも少な過ぎることにも、とても愚鈍だと評価されていたために少数しかいない同期の人間が自分をどんどん追い越して昇進していくことにも、同期どころか後輩までどんどんどんどん昇進していくことも、全て頭の中で想像してカレーまみれにしてしまい、カレーで埋もれて窒息してしまうとこまでいき、慌てて我に帰る。そんな空想で日々流すように過ごすことを、「そんなに悪くないかもね、こういうのも」と、たまにひとり苦笑する余裕すらあったのだった。

でもそれはほんの一瞬のことで、大方はいらいらしたり、あせったり、本当は怒ってやりたいとか思っているのだけれども。とにかくこの一瞬の余裕の時だけでも心が保たれているということは彼にとって大変重要だった。彼にとってカレーはイコール宗教とも言うべき存在だった。そう、心の平安。

たとえば彼はある日、一二時に近所の蕎麦屋のカレーを食べにオフィスを出た。そう、彼が張り切るのはこのランチの時だけなのだった。

彼のランチはきっちりと几帳面にプランされていた。彼の手帳を開くと事細かく書かれている。一カ月分のランチをどこの店で食べるか、もちろんカレーを、ということに。

だって彼はランチメニューに対して人生の全てを注いだかのような真剣さをもって臨んでいたのだから。

なぜランチなのか。ランチなんてたかだかおざなりなメニュー、人によっては十分かそこらでかきこむ簡単な、言うなれば空腹を満たすことが重要なものじゃないか。

どうせそんなにこだわるなら、夜にすべきだ。

きっとそんな声があっちからもこっちからも聞こえてくるに違いない。その理由はランチは争奪戦であり、いかに効率よくカレーにありつけるかという、これは彼にとっての日々の真剣な戦いだったのだ、ということではなかった。 

実はそれはある意味では単純で、ある意味では複雑な理由だった。

彼は典型的な日本人の男性、そう、家では亭主関白的な振舞いを善しとしていたから。本当はカレー好きなので「朝も夜もカレーでいいからね」なんて言いたかったのに、妻には夫らしく威厳をもってもちろん毎日内容を変えて手間ひまかけての食事を作らせていた。 

それは重要なことだと思っていたので。だから夕食はおかずが三品最低は並んでいないと機嫌を悪くした。朝だって、カレーがいいなどと子供の前でのプライドがあり、絶対言いたくなんかなかった。

そのようなわけで、素直に「毎日三食カレーでいいよ、それが自分の本心なんだ」とは決して口にすることはなかったし、素振りに出すこともなかった。

ある日、彼はランチ時に、あらかじめメモしておいた行きつけの一軒である定食屋へひとりで入った。彼の会社は小さな会社だったので誰かと一緒に連れ立っていかなければならないということがないのは非常に彼にとって幸運だった。だって会社というところは規律を乱してはいけないところだし、今となっては彼よりも偉くなってしまった元・後輩の顔色を伺って一緒にランチにつきあわなければいけないなんて、考えただけで辟易である。

彼の仕事は事務職で、その内容は来る日も来る日ゼロから九までの十パターンの数字の羅列の変化を何通りにでも書き移し(それは計算とも言うけれど)、飽きても「まだまだ大丈夫です」という顔を取りつくろって夕刻までに終える仕事だった。

本当はもう、とっくにやめてしまいたいんだけれどもこの年齢で今やめてしまったらどんなことになるか、いくらカレーのことしか考えていない彼だとしても大体の予測はついていた。だから黙って仕事に励んでいるふりをするしかなかった。

そんな自分が嫌かと言えば、実は結構イヤだったけれど、反面、「こういうことをこう言う風になんともない顔をして行っている自分」を少しは救いがあるとも思っていた。でもそんな矛盾というか、葛藤が内面にあったため、彼の人相にもそれは表れていて微妙に複雑な表情になっていた。

誰かが彼の顔を見ると「あれ、この人はいつもどういう思考でもって、その、なんというか、どういう思考回路の持ち主なんだろう。どうしてそう思うかですって。だって、そのう、言いにくいんですが。…いいですか、言っても。なんだか自己嫌悪で一見悩んでいそうなのに、ほのかに自己満足しているような気配も感じられるんですよね。あ、いえ、別に分裂気味の思考の持ち主の方だ、なんて言っているんではないんです。人ってそもそも複雑な生き物ですからね。…だから、ま、正直な人っていうことでしょうか。隠せないんでしょうね。いろいろと。まあ、そんなところで」と、例えば通りすがりの人に、退蔵の印象を聞いたなら、そう応えるケースが多いだろう。

さて定食屋の話に戻ろう。

隅の慣れた席に着く。そう、ここが定番。ここに無事座れたかどうかで今日の午後の運勢を彼は密かに占っていた。それは午後の仕事運プラスアフターファイブの運。そこに帰宅後の家庭での運のことは入っていなかった。だって大方予想がつくことだし良い意味での期待できそうな要因はなんにもなかったので。いつもの妻とのお決りのやりとりと挨拶も大してしないで自分の部屋でテレビ見てるのか勉強してるのかゲームしてるのか携帯メールしてるのかよくわかんない娘。…どうせ勉強以外のことにだけ熱心になっているに決まってる。だって自分の子なんだもん。まあ、いいかな。

女性の店員が水を運んでくる。そして彼がいつもどおり「カレーね」というと彼女は「はい。わかりました」と常連の彼なのに愛想もなく奥へと下がった。

彼は気にしていないかって。ええ、もちろん気にしていません。全然。だって彼はカレー以外のことには達観してしまったので。と、こう言いたいところですが本当はそうじゃないんです。本当はいちいちいちいち毎回カウントしていて、十回通ったところで、なおもこの女店員が愛想なしだったので、実は内心イライラしていたのでした。

こんな場末の店でそんなことを気にしても仕方がないと思うのだけれども、こんなところでしか彼は自分の存在をはかる基準がなかったのだからしょうがないんです。

それでも耐えた。耐える? それほどオーバーなことでもないかと思いますが。そんなことをあなたは言うかもしれない。でも彼にしてみれば忍耐だった。そしてとうとう二十九回目に通った時に、なおも変わらない無愛想にとうとう彼は匙を投げたのだった。

この女に対して。もういいよって感じで。諦めたよってふうで。

それではこの辺で本題のカレーに戻ろう。

ここのカレーはよくある定食屋のカレーの中でもオーソドックスなもので、具は少なめでルーのさらさらと、とろとろ感が適度に混ざり合い、人参とじゃが芋がほんの少し顔を出しているけれど、こんなこと言ったらなんだけど、大して美味しそうに見えない。でも退蔵は、そこが気にいっている。

彼はインド料理の店での本格的に十何種類のスパイスを使ったカレーも好きだし、カレー専門店での三日間煮込んだというようなこだわりカレーももちろん好きだけれど、こういういかにも、という主張をしていない、そっけないカレーの方をこよなく愛していた。

愛読書だって似た傾向にあって、彼が一番好きなのは宮沢賢治で、例の「雨にも負けず…」という詩などそらんじるほど好きで、それもどこの箇所が最もお気に入りかというと、「周りからは木偶の坊と言われ」というところだった。

どうしてここの部分にそんなに惹かれるんだろう。

彼は最初、自分でもよくわからなかった。ただ初めてこの詩を読んだ時に、この部分だけがボンとまるで浮かびあがってくるように見えたのだった。

もちろん、彼はエスパーなんかじゃない。

じゃあ、どうして。

後で彼は分析してみた。ない頭で、というのは冗談だけれども。

あの詩は全体的にとっても模範的で先生や親から褒められる詩のはずなのに、ね。

さて、カレーが来るまで手持無沙汰で、テレビをじーっと眺めていた彼の向かいに、お客のほんとんどが男性というこの店には不似合いの女性がひとりで座っていることに今さらながらふと気づいた。それを見た彼の目は一瞬、釘づけになった。

彼女が食べていたのはカレーだったのだ。

これに、彼は相当驚いた。

なぜならこの店で食事をするお客の大方はお得な日替わり定食を頼む、それが気に入らない人だけが「あ、カレーでいいかな」などと言い、頼むから。

その女性は、推定するに二十代前半で品の良い青のスーツを着て、顔立ちも整っていた。

一体、どうしてこういうタイプの女性がひとりでいるんだろう。

そんな疑問が彼の頭の中に湧いた。でももちろん、聞けないしそれにもちろん、彼女の方をもう直視してはならない。

それでも彼は気になった。彼女はどんな顔して食べているのだろう。どうしてこの店に入ったのだろう。どうして定食でもない、どう考えてもそんなに美味しいとは言い難いカレーを頼んだのだろう。もしかしてカレー好きだったりして。そうとしか思えないけど。

そんなことがぐるぐるぐるぐる退蔵の頭の中を回り始めた。

せめて食べている顔を見ることができないだろうか。彼はその思いがだんだん大きくなって膨らんできて、たまらなくなってきた。そしてとうとう顔を見ることを決意した。

その時、幸か不幸か、彼のカレーが到着した。

「はい。お待たせしました」

いつものカレー、彼の向かいのカレーと同じカレー。ふと彼はこの瞬間、彼女の顔を見るタイミングを得たと思った。

パッ。

その女性は、女性のせいで遅いのか、まだお皿の半分しか食べていなかった。そしてその時、ちょうど彼女はスプーンでカレーを口に入れるところだった。

品のいい顔立ちに似合わず大きく口を開ける。その顔は美味しそうでもまずそうでもなかった。淡々と口に運びいれる作業。カレーにかなり精通していて、自分が食べるだけではなく、誰かがカレーを食べているとすかさず、その顔をさっとひと目見ていろいろなことが判断できるようになっていた彼にとってそれはショックを起こさせた。

美味しそう、ならわかる。「なんて美味しいんだろう、このカレー、自分ってとっても幸せ!」そんな顔を何度か、彼は見てきた。

「このカレー、いまいちだな。まあ、でもカレーだから許せるか。しょうがないな」と、そんな顔を浮かべながら黙々と食べ続ける。そういう顔も何度となく見てきた。

「まずいカレー。あああ、なんて失敗してしまったんだろう。他のを頼めば良かったなあ」

そういう顔も少数だけれど、お目にかかったことがある。

でもそれらのどれでもない。無表情で無感動で無関心。

コノ ジョセイ ハ カレー ヲ タベテ ナンノ カンドウ モ シテイナイ

それは彼に強い衝撃と共に、怒りのようなものを思い起こさせた。何の感動もしないくせに、どうしてカレーを頼んだんだろう。

いや、待って。もしかして、カレーを頼んだのは初めてで、それで、食べてみたものの、悪くもなく善くもないという中間だった。そういうことでこの表情なんだろうか。

彼はどうしよう、と悩み始めた。ぜひ聞いてみたい。どうしてカレーを頼んだのか。そして食べてみて、どうなのか。

もう食べられるカレーの気持ちになってしまっていて、あんなに淡々と食べられたんではカレーがカレーとして浮かばれないのでは。成仏しないのでは。そんなところにまで発展させて悩んでしまった。

その時、彼の頭の中にある思いが発生した。いつもなら、こんなこと連想しないのに。

周囲を見ると、お昼の時間が惜しいのか、みんな忙しそうに食べてすぐに席を立つ。目の前の彼女は食べるのが遅いのか、まだお皿に三分の一ほどカレーは残っている。だから話しかけるチャンスはある。

彼のカレーは、もう食べ慣れているのでなくなりかけてはいたけれど。今日はお昼時とはいえ、たまたま彼の両隣りにも、彼女の両隣りにも、人はいなかった。

少し心臓がどきどきしてきた。彼は小心者だったので。それでもこれだけはやらなければいけない、そういう使命感? にかられた。

「あの、すみませんが」

「え、」

女性が、顔をあげて退蔵の方を見た。彼は、その顔を見てどぎまぎしてきた。この先、本当に聞きたいことを口にしてもいいんだろうか。もしかしたら、何か変に思われないだろうか。思うだろう、普通。

「その、……」

「えっ」

俯いてカレーを見つめていた姿勢から、顔をあげて彼女は退蔵の方を見たのだけれど、その顔はカレーと不釣り合いな気がした。

それは彼女がたとえばまつげが長かったというわけでもなく、澄ました鼻が美しかったからなんてことでもなく、口元がなめらか極まりなかったからということでもなかった。

じゃあ、なんだったわけ? っていうことになる。

それは教えてあげようか。昏々とメッセージを湛えた黒い瞳、それが彼から見てインパクトあったから。

その瞳は甘い郷愁を感じさせるような、どこかつかみどころのなさそうな、また意外にも冷たいというか悲しい何かが沈んでいるかのような、そんな風だった。

それはなんだか母親を連想させるような気がした。

余談ですが、彼の名前「退蔵」は母がつけた。「いい、なにかあったらすぐ退くのよ。それが安全で賢いんだから。人と競うことなんて全然ないのよ」という思いを込めて。

「あの、その、…」

ダメだ。ここで何を言っても外してしまいそうだ。「あの、ここのカレー美味しいですよね」でもダメだし。あったり前じゃないか、そんなの。デートの場でなんかないんだし。

何かないだろうか。自然でさりげなくてこの女性とその次の会話へとさらりとつなげられそうなひと言が、ワンフレーズが!!!

彼はすごく悩んだ。実はこの間、ほんの十秒ぐらいだったのに。本人にしてみれば十分ぐらいに相当したらしい。彼はうっすら額に汗をにじませながらこう言ったのだった。

「あの、すみません」「はい」

「今何時ですか、ちょっと時計が止まってしまったようで」

彼は彼女の側から自分の時計が見えないのをいいことにそう言った。

「はい、ええと十二時四十八分ですけど」

「あ、そうですか。ありがとうございます。良かった。少し不安に思っていたんです。お昼休みはあっという間ですからね」「…」

彼は、この次に自然とカレーの話にもっていきたかったし、いけるかと思っていた。でもダメだった。ここでカレーを持ち出したなら彼女は引いてしまうだろう。

またもや壁。どうしようか。それにしても…。

さっきの無表情で食べている顔に比べて、今、こちらの方を向いている彼女の顔は普通にすっきりしている。さっきのは気のせい、錯覚だったんだろうか。

「あの…」

奇跡が起きた。彼女から話しかけてきたのだった。これは夢か。

「はい」「これ食べてて、あの、おかしくありませんか」「え…」

このセリフには彼の方が絶句してしまった。おかしくありませんかって。…この女性、ちょっとおかしいのでは?

でも折角だから彼はこの際、一歩踏み込んで聞きたくなってきた。そんな返答がきたならとことんつきあってやろう、などという妙な使命感、あくまでもカレーがらみだからなんだけれど、そんなものが芽生えた。彼は小心者だったけど、カレー付きなら勇気をもって堂々と異性と対応できる気がした。これはこのまま進めていけそう、と思ったのだった。

「その、おかしいっていうのはどういう意味ですか」

「あのう、それはですね」

彼女は店の人に悪いと思ったのか、声をひそめて会話を続けてきた。そういえばさっきのひと言もひそひそ声のトーンだった。

「ええ、それはなんですか」

「あの、できれば外で話しませんか。ちょっとここでは…なんていうのか…」

そんなにここでは言えないほどに気まずい内容なんだろうかと彼は思った。確かにお客も既に退蔵と彼女の他は、まばらになっている。

案外、声っていうのは通るものだ。ここで店のメニューの悪口や批判をして奥にいる店員や厨房の人達に聞こえたら大変である。それは賢明な判断だと思い、彼も外へ出る事に同意した。

それで二人してそれぞれ支払を済ませて外へ出た。その最中、彼の頭の中にはあることが浮かんだ。それはまぎれもなく午後の仕事のこと。もう今から急いだって午後の定刻には間に合わない。でもかといって、こんな滅多にない女性とのチャンス、それもカレーが大きなテーマになっているのだから。…。これはもう多少のことは捨ててこちらを選ぶしかないだろう。少しぐらい遅れたからってどうという事はない。言い訳さえしっかりしていれば。様になっていれば。彼は早速携帯で会社へ連絡。「妻から今連絡が入りまして。娘の学校での三者面談、仕事の都合で急遽行けなくなったので変わってもらえないかと。ええ、外勤なもので。すみません、早退してもよろしいでしょうか」

というわけで、彼はこのままこの女性と時間を共にすることを選択したのだった。

彼女の提案で、すぐそばにあるチェーン店のカフェに入った。

お昼時が過ぎたせいか、まばらに席が空いている。彼は気を利かせたつもりで彼女の分もオーダーを聞いて、先に彼女が席へ着くことを促した。

彼は彼女の希望したカプチーノを頼みつつ、自分は何にしようかとメニューを眺める。すると二つだけのスープメニューが目に入った。それはクラムチャウダーとトマトスープ。

がっかりだ。

どうしてここにカレー風味のスープが加わらないんだろう。全くセンスがない、ここの経営者はね。彼は毒づいた。仕方がない。

その次に訪れた感覚として、カレー色のものが目に入った。 

それはイエローカラー。そう、マンゴージュースだった。彼がそれをオーダーすると女性スタッフの対応は速やか、スピーディ。ものの数分でカプチーノとマンゴージュースが提供された。

彼は「うん、悪くない店だな。ここは」と思いながら、ドリンクをトレイに乗せて彼女の元へと向かった。

途端、彼の顔は赤くなっていた。自分でもそれがなんとなくこれからの展開が読めないと感じられたから。でもだからどうだっていうのか。彼は開き直ることにした。「あの、とにかく本題に入りましょう」

彼はそう言うと、ゆっくりと彼女の目の前にカプチーノを置き、自分もゆっくりと彼女の向いの席に座った。

彼は困惑した時や不機嫌になった時、いつも極上カレーを想像することにしている。それはまろやかで、高貴な香り漂い、そのルーをスプーンですくって皿からやや高い位置まで持っていき、そこでスプーンを斜めに傾ける。そうするとその液体はすうーっとあるようなないような音を立てて、とろとろと元の皿に着地するのだった。そんな優雅なカレー。ルーだけのカレー。入っている野菜達は全てじっくり煮込んだうえ、最後はミキサーにかけ、絹ごししてしまうために、少しも固形物を残さない、そんな美意識からしても充分に満足させてくれるカレー。

こんなことをふうっと想像したために、彼の機嫌は徐々に回復してきた。そして目の前の彼女とぱっと目が合った。向こうも彼の方を直視していたからそうなったわけだけれど。

まるでデートみたいじゃないか。これって。

忙しいと言いつつも、カレーひと筋のはずにも関わらず、彼の中にときめいたものが起こってきた。これっていけないことだろうか。まさか、全然そんなことない。普通でしょ。やっぱり異性と向き合うっていいな。しかも知らない異性。未知数じゃないか。まあ、カレー付きだから余裕ある対応が出来るんだけど、ね。

「それで、いいですか。さっきの続きを始めても」

はっ。しまった。つい自分の世界に入ってしまった。いけない、前を向かないと。彼はそうして毅然と彼女の側へ顔を向けた。要は正面ということだけど。

彼女はカプチーノに口をつけていた。

「ええ、どうぞ」

彼はカレーのようにだんだんホットな気分になっていった。

「泥棒のようだ、って」

「えっ」

「さっき、お店で食べててだんだん後ろめたい思いに捉われていってしまって。それで心もとなくって、それで、だから誰かにそれを訴えたくなったんです。…その、わかります? そういうのって」「…」

普通なら、ここで席を立ち去りたくなるだろう。

最近、軽い鬱の人とかって多いからなあ、って感じでね。だから彼も自分の名前の如く退こうとしたんでしょうって? ううん、違う。大きく違った。なぜなら、彼からすると、カレーのことをこんなにも個性豊かに表現した人物は初めてだったから。途端、この異性に対しての興味が本当の意味で湧いてきたのだった。

「どういう意味ですか、それって」

彼女は、視線を彼の目に合わせたまま、堂々と口をまた開き始めた。それは確信に満ちたことを語る人物のしぐさ。不安定な情緒の持ち主とは違うものだと彼には感じられた。

「私、食べて、初めのひと口目で分かったんです。食べていけばいくほど、こう、虚ろな気分になっていくんです。どうしてかって言われても困るんですけれど。…。あの、これだけだとなんだかよく分からないですよね。でも私、別に、自分が思ったことをそのまま伝えているだけであって、一応ですけど、」

「ええ、もちろん、よくわかります。おかしい人って増えているみたいですけれど、あなたには全然そんなムードは感じられせん。ただ、いいですか。私の感想を言っても」

「ええ、どうぞ」

彼女は、彼がこんな言い方をしてきたもので、やや身を固くした。

「私は、実はあの店でよくカレーを食べているんですけど、あなたのような女性がカレーをあの店で食べるのを始めて見たんですよね。それもちょっと驚きだったんですが、もっと驚異を覚えたのは、あなたのカレーを食べている時の表情だったんです。そのう、顔を盗み見たと思われたかもしれませんが、ほんの一瞬だったので、たまたま目についたということなんですけれど。どうだったかというと、かなりな『無』だったんですよね」「む?」

「ええ、む、っていうのは要するに無いという意味。無感動の無。無表情の無、です。でも私の読みは当たっていたわけだ。そう、何かおかしいと思ったんですよ、あなたの顔を見て」

すると彼女は、眉間にしわをよせてこう言った。

「あの、私、さっきあれを食べたせいで、何かを盗まれてしまったような。逆に犯してしまったような、そんな感覚になってしまって」「えっ」

彼は、何だか面倒くさい展開になってきそうだなと思った。

まるで誰かの小説のよう。やっぱりもう帰ろう。ええと、「カレーが待ってますからじゃなくって」、「もう行かないと」これでいこう。無難でいいセリフじゃないか。

そして彼は立ち上がろうとした。でもそれと同時にまたまた彼の頭の中に別な思考がぱあっと、神が指し示す光り輝く道のようにひらめいた。

「カレーに捧げる人生のはずなのに、カレーはここで今充分過ぎるくらいにテーマになっているのに、ここで放っていいのだろうか。これってカレーに対しての背徳行為以外の何物でもないのでは」

こうなると向きあうしかない。この女性にとことんつきあわなければ。だから彼はこう言った。

「ええ、どうぞ。それでは聞かせて下さい。時間の方はなんとかなりますから。もうズル休みしちゃってるんで。それにしてもあなたも大変だったわけですね」

彼はそう言ってみた。まずは労うことが大事と思ったので。すると、彼女は何かにすがりつくような表情で口を開き始めようとした。

そこですかさず退蔵が声をあげた。

「ちょっと待って下さい、その前に。私に提案があるんですが、その…、私のお薦めのカレー屋に行ってみませんか」

 

その桃は、とりわけ感受性が強かった。それは彼女(性別的にはなぜか女性だった。でも桃の外観を見たならば、あなたもきっとそう思っただろう)が特別に美桃だったからというわけではない。単に性格的な問題からだった。

桃は木にその芽を出した頃から、要は誕生した頃から、既に桃としての存在に飽きていた。もう毎日木の同じ所に居るだけで、日に日にほんのちょっとだけ大きくなっていくだけ。周りに力強く主張するわけでもなく、なんて地味な日々。

そんな桃はある日、桃の世話をしにきた地元の人から、日本古来からの名作『桃太郎』の話を聞かされた。それはもう桃にとっては桃から角が生えてくるくらい、とてもインパクトのある内容だった。そしてその結果、どうなったかって? そう、幼少の頃に吹き込まれた話というのは誰だってそうだけど、あまりにも影響が大きかった。だから彼女は女性であるにも関わらず、「自分も桃太郎のように、かっこいいヒーローになる」と、大志を抱いてしまったのだった。それだけならまだいい。ところがここに落とし穴があった、これが。え、いったいそれはなんですかって。それはですね、自分もいつかは桃太郎みたいにヒーローになって何か悪者をやっつけに行くんだっていう使命感を沸々とその小さい胸に育てていたってことなんです。だってそうなってしまうのも無理はないでしょう。  

地元の人は、桃太郎の話を楽しそうに自慢気に得意そうに話していたのですから。たった一回しか聞いていないのに瞬く間にそれで自分の人生プランを立ててしまった桃。なんてしっかりしているんでしょう。そういう点では、ね。


『桃太郎は犬と猿とキジを家来にして鬼が島に鬼退治に出掛けました。そして見事にお手柄、役目を果たしたのです』

桃にとって要約するとこの話は、もう自分の存在価値そのものだと思わせた。自分は桃から桃太郎に、もっと成長したなら変化してそんな重要な役目を持ちまっとうする。そんな日が来ることをもう心待ちにしていた。…。でもかわいそうに。いつまで経ってもそんな日は訪れてきそうになかった。でも桃はかなり鈍感で純粋だったので単にその時期が遅いだけなのかと思っていた。そして少しずつ自分の体が成長していくにつれて、すっかり覚えてしまったストーリー、ええ、そう。鬼退治のために何をすべきかということを着々と考えていたのだった。

たとえば一番最初に彼女が考えたのは「早く家来を三人決めて誘わなければ」というものだった。そしてまずは犬にコンタクトを取ることを試みることにした。でもまだその決意をした時に桃は小さくて、青く(正確には黄緑だけれど)固い実に過ぎなかった。

でもそんなこと、全然気にしていなかった。

「早く犬が来ないかな。誰かが声をかける前に、早くしないと」

そのような期待で小さな胸をいっぱいにしていたのに、犬はなかなか彼女の元にはやってきてくれなかった。なぜかというと、桃畑に犬は入らないように、人々が気をつけていたからなんだけれども。

犬はお利口で勇ましくきっと自分にとって良きパートナーになってくれると彼女は漠然と信じていた。そのはずだったのにある日、その夢はもろくも崩れ去ることに。何が起こったかというと、急に桃畑にやってきたぶち模様のノラ犬は、こともあろうに彼女につかえるどころか、彼女がなっている木の根元を縄張りを示すためなのか、おトイレとしての用を済ませているのだった。

これは相当なショックだった。かしずかれるはずだったのに、逆に最下層的な扱いをされてしまったのだから、ね。

このダメージから立ち直るのに彼女は三日もかかってしまった。でもそれとは裏腹に日々、彼女のボディはすくすくと育っていった。もちろん丸々とね。

次に彼女はどうしたかというとやや妥協することにした。

「犬はちょっとなぜかダメだったみたいだけど、まだキジがいるものね」と。そしてまたまた性凝りもなく、わくわくと自分のところに長い尾を持った山の鳥が、さあっとある日、やってくることを夢みていた。

ところがこれもいっこうに叶えられる日がきそうになかった。そもそも空を見上げてみると噂のキジにはほど遠い、地味な地面と同じ色をしたこじんまりとした鳥がせわしなく電線なんかに賑やかに止まってパタパタとはためいている、そんな程度。たまに珍しい鳥が通りかかっても彼女に敬意を示すようなことは欠けらすらなかった。逆にある日、急に狙われて食べられそうになった仲間を見た時にはもうドキドキして生きた心地がしなかった。「あの物語はウソだったの? こんなはずでは」

桃は、この仲間が結局、引きちぎられてとうとう食べられてしまったのを見て、自分はキジの如き鳥の存在からも家来として、かしずかれることはないんだとなおも落胆してもう立ち直れないような気がしてきた。

そんな桃が沈んでいる心境から浮かび上がれない、でもようやく頭をもたげるくらいには立ち直ってきた時、彼女に変化が起こった。

それは外部からのものだった。

有無を言わさず世の中が真っ暗になってしまったのだった。それは彼女が失明してしまったということではありません。(えっ、どこが目か、ですって。そういう細かいことには拘らないということで)。

何か、カサカサと風が吹くと、その真っ暗に視界を遮ったものの音がした。それが何かは、彼女にはさっぱりわからなかった。

それでもまだ彼女は希望を捨てていなかった。性懲りもなく、その小さな思考回路の中では桃太郎への夢はまだこっぱみじんになどなっていなくて(そもそも桃太郎は男性で、彼女は女性だったのに、そんな事にすら気がつかない恐ろしい程の鈍感さも手伝い)、犬がダメでキジがダメでもまだ猿が残っている、と固く信じていたのだった。

そしてとうとうある日、視界が急にぱあっと開ける日がやってきた。それは小さな子供の手で行われた。明るくなって初めて分かったことには、彼女は紙の袋ですっぽりと覆われていたのだった。それは桃が成長する過程としては当然のことであり、その行為により彼女は無傷で病気にもかからず丸々と太った。でもお日様には当たっていなかったので、その色は青くまだまだ若いと感じさせるものでしかなかった。

で、彼女は最初、明るい光を見た時、何を思ったか。そう、肝心な部分。

その瞬間、彼女の心にピカリと瞬いたのは「やっと猿を探すことができる!」ということ。彼女はどこまでも前向きだった。まあ、そういうところがこの桃の、他の桃にはない魅力だったのかも。

そして一番始めに彼女のターゲットになったのは、こともあろうに彼女をすっぽりと包んでいた紙の袋、それを取った小さな男の子だった。孝行者の彼はまだ九歳で、桃農家を経営している父親を手伝っていた。台に乗った自分の背にやっと届くこの紙の袋を「やっ!」とかけ声をかけて取ったのだった。あまりにも勢いをつけて取ったので、彼は尻もちをついてしまった。そう、ぺたんと地面に座り込んだ形になってしまったのだった。「なんて可愛らしいんだろう」

桃は、そう思い「自分の桃太郎的家来。そう、あの猿の役に相応しいのはこの子しかいない!」と。それは一目惚れにも等しかったかもしれない。でもその辺りのことは彼女にはまだよくわからなかった。忠誠を誓う家来と恋心を抱く異性を混同してしまったのだ。だって生まれて初めてのことなんですから、何れもね。

それでまた男の子が小柄だったので、ますます桃からすると「あの、桃太郎の猿によく似ている、もうぴったり。これは縁かも!」と。

だから彼女は早速アプローチを開始することにした。

それは自分の方を振り向いて欲しいって強く強く願ったの。そう、念をテレパシーを男の子に送ったんです。

でもこれは実にまずいことだった。桃のテレパシーが通じたのか男の子は彼女の方をチラリと振り向き、桃をもぎ取ろうとしたのだ。

これには桃は大層驚いた。

やだ、こんなところでもぎ取られたくない!!!

この叫び、きっと周りの桃たちにも響いたことでしょう。テレパシーが。するとその念に驚いて、男の子は鷲づかみにした手を思わず離してしまったんです。

はあ、良かった。

それにしても全く、自分は猿すら信用できないっていうか、家来にも出来ないらしい。

彼女は、ここで始めて素朴な疑問を持った。自分には桃太郎になれる素養があるのだろうか。そして誰かに聞いてみたいと思った。だから隣りの桃にそっと打ち明けてみた。

隣りになっている桃は品行方正で、実に全うな桃であり、常識に長けている印象だった。すると案の定、その隣桃りんももはあっさりとこう言ったのだった。

「『桃太郎』になるってー。笑っちゃう。いったいどういう頭してるの。あたし達の使命はねえ、桃として立派に食べられることなの。どう食べられるかは未知数だけどねえ」

こう言われてしまった彼女は大層ショックを受けた。

その後、彼女はやっと丸々と太って成長した。ある日、ブツッと大人の手によって収穫されたのでした。

そして他の桃と一緒に大きな箱に入れられて運ばれる最中に、周りの桃達からこの後、どんな風になっていくのかをいろいろと聞かされたのだった。それで彼女がどうしたかというと、そのひとつひとつにいちいち夢を見たのでした。

たとえば彼女の前にいた桃の話。その前桃まえももは、桃アイスクリームのことをそっと打ち明けてくれた。だから、彼女はまずは桃アイスクリームになろうと思った。

桃太郎プランはコケてしまったけれど、桃アイスというのはどうして、なかなか良さそう。なんでもアイスクリームという滑らかでピチピチ冷たくてとろけるもの、その中にぎゅうぎゅうと練り込まれるらしい。まあ、それぐらい耐えてあげられるものね。いいんじゃない。どことなく高級感あるし、ね。だからまた彼女はわくわくしてきた。それで誰かの舌に乗せられてすうっと溶けてまろやかな気配を残しつつ消えていく、なんだかロマンチックじゃない。アイスクリームってミルクと砂糖と卵の合体したものらしいけど、バニラがほんのり香るステキな食べ物らしい。その中にコラボできるなんて。

ふふ。と、いうわけで桃はうっとりとその日が来ることを待ち望んでいたのでした。でも世の中はそんなに甘くなかった。アイスクリーム候補の桃の中に、彼女は選ばれなかった。それは運のせいかもしれないし、彼女の器量が良すぎた(アイスの原料に選ばれるのは傷ものが多い)からかも、いずれにせよ彼女はショックでくらくらしてきた。

でもまもなく立ち直り(彼女は常に前向きだった)、今度は桃のコンポートというものになる可能性というのを後ろの桃から聞いた。その後桃こうもも曰く「コンポートは品の良い、冷やして頂くデザート。フレンチレストランのデザートなんだ」

彼女はまたしても夢を描いた。それはどうやら何時間もコトコトと砂糖と一緒に煮込まれるらしい。そして最後に桃のリキュールをひと垂らし。まあ、ステキ。大人の味ではないか。だからまた小さな胸をときめかせ始めたのだった。それなのに、それなのに、彼女は桃コンポートの選抜にも外れてしまいましたとさ。何度目の挫折だろう。と、途方にくれる彼女。

「でも、まだまだ行ける」と、桃は自分を身捨てていなかった。

それで次に左の桃から、桃のジャムの話を聞いた。その左桃さもも曰く「ジャムっていうのは単純に見えて実はかなり奥が深いんだって。そもそもその歴史を遡ると、メインとなる材料の砂糖はかなりの貴重品。当時、砂糖と一緒になれる桃は、それはもう天にも昇る思いでジャムになっていったらしいの。当時の王侯貴族にフルーツジャムが献上されたと書かれた文献もあるとかって。まあ、作り方と言えばひたすら砂糖と一緒にぐつぐつと煮込むだけだけど、当時は一日半とか、それは長い時間かけて作ったそうなのね」

ふーん。シンプルらしいけど、だからこそ奥が深いっていうことなのかな。ここで桃はまた憧れを抱いた。ジャムでもいいかなあ。そんなに歴史があるっていうんならね。と、桃ジャムを軽くみていた。でも、ここでまたもや彼女はジャムの選抜から外れてしまった。

今回の気落ちはちょっと長かった。考え込む時間も結構あった。

どうして!

どうして自分だけ外れてしまったんだろう。そんなに自分って魅力ないんだろうか。決して他の桃に劣っているとは思わないけれど。 と、そんな悶々としているところへ今度は右の桃が囁いてきた。その右桃うもも曰く「『桃の缶詰』って良いみたいよ。あたし、どうやらそこへ行きそうなんだけど」

「えっ、なにそれ」と、ここで彼女はまた希望を持った。「それはねえ、内側が銀色にピカピカ光っていて、上が丸くて縦に長い、そんな器に幾つかのあたし達がぎゅうぎゅうに入れられるんだって。それでもってその前に砂糖で煮込まれるらしいの」

「なあんだ。じゃあ、桃コンポートと変わらないじゃない」

「違う違う」

え、どう違うの。ここで彼女は真剣に焦りを感じた。どうして自分だけその違いに気が付かないのか。

「『桃の缶詰』は缶に詰めるってとこがすごおく重要なの。あのツルツルの銀色に光輝く物体の内部に入れるってことはすごい名誉なことなんだよ。実はまあ、候補になっているみたいだから言えるんだけど、ね」

があん。

これを聞いて、彼女は自分だけこんなにも落ちこぼれてしまったのかと、酷く気分が沈んでしまった。

でもまだ可能性はある。何かになるっていうね。

あれ、どうしてそんなふうに思えるのか。この訳の分からない根拠のない自信。いったい何処から?

桃は自分自身に戸惑った。…。よくわかんないけど、自分はとにかく何かになれるんだから。繰り返し繰り返しそう思えるのが彼女は不思議だった。

宣言していた通り、右桃うももは、桃の缶詰用に去って行ってしまった。次々と彼女を残して他の桃達は売れていく。

一人(もはや人)、ポツンと売れ残った彼女。

さて次の日、彼女はあっさり選ばれて、暗い物の中に入れられてどこかへ運ばれて行った。

気が付くと、自分はたっぷりの暖かいものに浸っていて、周りにはいろんな者達がごろごろと居た。それでもってそんなに不快感はない。

どうやらうたた寝してしまったらしい。

ここはいったい何処なんだろうと、不安になった。

すると、よく分からないものが彼女の意識に届いた。それはこの同じお鍋の中から飛んで来ていることが分かった。

(大丈夫? 僕達はカレーの具になったんだよ。それも君はメインの具になったんだ)テレパシーで男性の声が語りかけた。

(ね、ね。あなたはだあれ? さっぱり状況が分からないんだけど、それにカレーってなあに?)

(僕はカレールー。カレーっていうのはとても人気のある大衆的な料理のこと)

(どうして私とあなただけが意識交換できるの。他のもの達はみいんな沈黙してるのに) 

(他のみんなは、もうすっかり溶けちゃって自分ってものが無くなっているんだ。僕は何故か溶けても意識を保てるらしい。君は?)

(私はまだ自分の身体が残っているわ。きっと一番最後にお鍋に入れられたのね。煮込まれてかなり柔らかくなっちゃってるけど)

ルーは、更にテレパシーを続けた。

(これから僕達は選ばれて向こうにいる男女に含まれるらしい。要は人間の口の中で舌っていう長い物とだらだらと戯れるらしい)

(どうしてそんな事が分かるの?)

(先輩達から代々噂を聞いているからね)

(それでどうなるの?) 

(僕達はコラボしてこれから人間の体の中に入って、その一部分、なんて言うのかな細胞のひとつひとつになるんだよ)

(えーっ、なんかすごい話。でも、私なんだか怖いわ)

(大丈夫。怖くなんかないよ。何か別の存在に生まれ変わるってだけさ)

ということは、自分はようやく何者かになれるんだ。と、彼女は誇らしい気がしてきた。単なる桃からの脱却。

ルーは、一言つぶやいた。

(ここまでなんて長かったことか)

暫くすると、ふいに大きくてまん丸い光るものが現れた。彼女はそれに掬われて、おしゃれな先のとがった容器に入れられ、本当に噂の通りに運ばれていったのでした。そしてもちろん、カレールーも一緒でした。


テーブルで向かい合って、二人の男女が座っている。

どことなくお互い遠慮しているような感じ。この洋食のお店に入ってきた時から、それは変わりませんでした。このお店のオーナーはカレーを得意としていて『シェフの気紛れカレー』というスペシャルメニューを提供していた。いったいどんなものかというのはその日のお楽しみ。

「あ、そう言えばまだ名前を聞いていませんでしたね。僕は井原と言いますが、そのあなたのお名前は、あ、その前にオーダーをしましょう。いいですか、僕のお薦めで」

「ええ、もちろんです」

そう言って彼女は黙った。彼のオーダーを聞いてから自己紹介をしようとしているのだろう、と彼は判断した。

「マスター、今日の気紛れって何?」

するとその五十代半ばに見える男性は、すかさず応えた。

「今日はすごく迷っちゃって、結局、果物なんですよね」

「え、果物。いいんじゃない。で、それはなに?」

「それがね、ちょっと飛び過ぎていたかもしれないんですけど、桃のカレーなんですよ」

「えっ、桃のカレーなわけ。ちょっと大胆だね。…でも、それって美味しそうじゃない。じゃあ、ふたつ頼もうかな。いいですよね、それで」

彼は、彼女の方を見ながら言った。「ええ、もちろんです」

あれ、さっきと同じセリフだ。緊張しているのかも。この先、長そうだな。振り出しに戻ったような。まあ、いいけど。退蔵はあまりこだわらず話を進めることにした。

「いいの? あなたはともかく、お隣りの女性の方。桃カレーってラストに生の桃を入れて仕上げてるんだけど。それからルーにも練り込んであるし」

「え、はい。大丈夫です。ありがとうございます」

彼女は少し戸惑っていたが、マスターの説明に納得したようだった。

「なんか、ほんと今日のカレーは気紛れな感じだな。桃なんて」

「私は、桃わりと好きなんです。でも桃とカレーって…。想像できないような。でも美味しそう、かな?」

あれ、リラックスしてきたみたい。このまま話も弾むといいな。それにしても…。

彼はふと我に返った。カレー絡みだから、対応できているけれど、いつもなら見ず知らずの女性ということでスルーしている存在だ。外見もそんなに悪くない。これを機に親しくなるっていうのもいいかも。カレー談義で? カレーコミュニケーション? カレーを一緒に食べ歩くとかどうだろう。それにしても、つい誘ったんだけど本当にオーケーしてくれたので、びっくりしたな。「もう一件、どうですか。美味しいカレーのお店があって」って言ったらのってきたんだから。何が幸いするかわかんない。

「あの。私の名前なんですけど」

「あ、そうでしたね」

彼はつい、自分の世界に入ってしまっていた。

「佐伯静香といいます。さっきはすみません。唐突に。しかも盗まれたとか犯したなんて」

「いや、いいんです。まあ、さっきのカレーがいまいちだったから、物足りないっていうことでそういう感想をもったんじゃないですか」

「それは…。まあ、私にとっては何でも良かったんですけど」

「え…」

彼は沈黙こそしていたけれど、実は驚愕していた。だってカレーが全ての彼に対して、カレーなんてどうでもいいと今、目の前の彼女は口にしたも同然だったのだから。一瞬、退こうかという思いが彼の中でよぎった。でもそれを慌てて打ち消す。退くのは一番簡単。そうじゃない方を選んでみよう。折角ここまで進んだんだし。

「どうしたんですか」

「…その、何というのか。何でも良かったっていうのは、要するに」

「ええ、たまたまカレーを選んだだけですけど…別に、私にとってはカレーだろうとチャーハンだろうとラーメンだろうと何でも良かったんです。実をいうとカレーを食べている自覚もあまりありませんでした」

「え」

「だって本当に意識を向けていなかったんだもの。あなたに言われて初めて、あ、そう言えば自分はカレーを食べていたんだな、って思い出したくらいなんですから」

この発言は彼にとって衝撃だった。ということは。だって自分はカレー絡みだったからここまで辿り着いたのに、そのカレーを否定されたも同然じゃないか。それでもってカレーを否定されたという事は自分を否定されたという事とほぼイコールということ。

彼はここでどういう態度を取るべきか素早く考えを巡らせた。さあ、この次の行動はどう出るべきか。

1怒るのは大人げないから、せめて冷静に「これで帰らせてもらいます」と言い、静かに去る。なぜならカレーがテーマ外というのはもう論外だったから。

2ここで何とか彼女の興味をカレーに引っ張ってきて、そして更に会話を深みへと進めていく。

3相手はカレーに興味が無いという事を、もう仕方がないから達観したつもりでひたすら受け身で聞き役になって気の済むまで付き合ってあげる。


一体この中のどれが後から悔いが残らないだろうか。そう、彼は頻繁にさっきの出来事を振り返り反省するタイプだった。それで今のこの選択は出来ればなるべく間違いたくないと思った。

もしも1を選んだらどうなるだろう。想像してみる。確かにストレートに考えると、カレーから外れているというのはもう大きくバツ。だからここできっぱりと去る。それが一番かっこいいのかも。でも、とまた別な考えがよぎる。ここまで続いてきた縁をこんなに簡単に切ってしまうというのはどこか惜しい気がしないだろうか。

それでは次。もしも2を選んだらどうなるんだろう。このままいったらもしかしてもしかすると恋愛めいたムードになることを期待出来るかも。恋愛? 結婚しているのにいいのかって? いいに決まってる。それはそれ、これはこれ。世の中ってそんなものじゃないかって思ってる。

ではラスト。もし3を選んだらどうなるだろう。単にだらだらと聞き役。聞き流しているだけだとしても意味があるかどうか。カレー抜きというのはもう論外だけれども、やっぱり恋愛につながる可能性はあるかも。そもそも人ってしゃべりたがるものだし。聞き役をしてもらいたがっている女性って多いんだと思う。カレー抜きでの恋愛のムードを作るというのはひどく自信ないけれど。

だってカレーありきだから堂々と振る舞えたんだから。…。そうして彼は結局2で進めてみようと思った。そしてそれがだめそうであれば折角の異性との縁なので3に瞬時に切り替えてみようかと決心を固めたのだった。

じゃあ、それで行こう。と、彼は思わず決意のために目の前に置かれているスプーンをにぎりしめようとした。そこへ桃カレーが運ばれてきた。

「私、大丈夫かしら。普通のカレーじゃなくって」

えっ。

「桃ってスリリングですよね。それでもりんごが入っているのをイメージするとそんなでもないような。バーモンドカレーってありますからね」

そんなことを口にしつつ、彼は彼女の真意はどこにあるんだろうと考え続けていた。自分への好意の加減と関係あるんだろうかってね。

でも関係でも彼女の顔を見ると、そこには「ただ単に思って言っただけだったの」という表情しかないように見えた。目はまっすぐカレーを見つめていて、口元もカレーに向けてエネルギーを送っているような、これからの決意をうながしているような、そんな風。

これはもうわかりやす過ぎ。

もういい。彼は気を取り直してとりあえずカレーを食べることに専念することにした。

「…」「…」

彼女は桃のカレーを食べ始める。スプーンでひと匙掬い、飲み込む。光るスプーンを優雅に、というわけでもなく無造作に操りカレーの中めがけて刺す、深く刺さるスプーン。そしてえぐられてスプーンに乗るライスとカレー。それは桃であるため珍しさも加わり、どことなく余裕のある美味しい物に見えた。

彼女は女性らしく少なめにスプーンに乗せるのかと思ったら、これが意外。スプーンからこぼれそうなくらいたくさん乗せていた。そしてそれを口に運んでいく。じっと見ているわけじゃないけれど、さっと見ただけでわかる。ワンテンポ遅れて、彼は黙々とカレーを掬って食べようとしていた。

「…相性いいみたいな?」「な?」

彼女が語尾を気持ち、上げたような気がした。確かにそう聞こえた。それと相性いいみたい、ってもちろんそれってカレーとのことだろう。…。間違っても自分との相性と言っているわけではない。そうに違いない。桃のカレーなんてあまりにも珍しいから口にして、思わず出てしまったセリフなんだろう。それにしても「な?」っていうのは? 相性がいいと自覚出来たけれどもまだはっきりと自信をもって美味しいと言いきれないということだろう。うん、それしかない。きっと。…。

でももしかしたら自分との相性が良いという可能性も全くないとは言えない。ここは勇気をもって確認してみようか。でもあんまりはっきり聞いて否定されたらどうしようか。何か、こう無難にどちらにも受け取れる言い方ってないだろうか。

「な?っいうのは、結局、その」「あ、ええ、美味しい、これって」「…そんなに」

これはヒットだと彼は思った。そして桃のカレーがこんなにもすんなりと彼女に受け入れられたということは3よりも2でいけるのでは、いけそうなのではと思い始めてきた。

これは彼にわくわくしたものを起こさせた。

「その、カレーが美味しいって言ったんですよね、今」

「ええ、カレーの柔らかい中に桃の感触がゆるゆるとはまっていくような」

ん、今のなんかわかりにくいような。

「…あくまで感覚的なんですけど、身体が喜んでいるように思えて。そちらは」「えっ」

実はまだこの時点で彼は食べていなかった。桃カレーは熱い出来たてだったのに幾分、冷めてきていた。急いで口にする。同じ銀に光るスプーンで。その始めて彼の舌に触れられた桃の感触。カレーと混在されていての感触。それはやっぱり林檎でもなくオレンジでもなく柿でもなく葡萄なんかでもなく、かと言って桃だと言わなければ、「あれ、これってなんだろう。この味の感じだとフルーツっぽいけどこんなのあったっけ。カレーに入れるような果物って。まさか野菜じゃないよね、トマトとも違うし。柔らかくて酸味があって繊細な甘いと思わせるものがあって。あれあれ」って感じで全くわかりにくかったろう。

それでも彼にはそう思わせなかった。だって初めから桃だってわかっていたのだから。

口に含む。噛む。香りを味わう。そう、これ、これが桃のカレーなんだ。ふうん。

「どうです?」

「…そうですね。甘くて酸味があってこの歯ざわり、柔らかく自然な、まあ珍しいし悪くないかなって。やっぱり桃なのかなって。まあ、知ってるから言えるんでしょうけど。あ、」

退蔵はそうひと言発して、一瞬目を細めた。

彼はちょうど桃のハートに当たる部分を噛んだのだった。その途端、自分のものではない希望や悲しみや嬉しさや落ち込む感じ、あと怒りや不満や欺瞞やらあらゆる感情を花火が目の前ではじけるように瞬時に得たような気がした。

今のは、何だったんだろう。

彼はあまりにも短い時間に、それも目に見えない感覚だったので、彼女に言うのは憚られた。でも彼女の方でも何か、彼の方に言いたげに、いつのまにか潤んでいる目が訴えているのを感じた。

「もしかして桃が、カレーの中に溶け込んだ桃が、あなたの口の中でどうかしたのではありませんか。またまた盗まれたとか犯されたとかって」

彼はそう聞こうとも思ったけれど、その前に自分に訪れた微妙な変化を伝えたいという欲求に駆られて、でも述べていいのかどうか迷ってしまって困ったような、でも決してカレーが不味いというわけじゃないんですよ、とでも言いたげな彼精一杯の複雑な表情をして、それでもなお笑みもそこに加えようと、口角を少し上げたのだった。

「あの、唐突なんですけど、聞いていただてもよろしいでしょうか」

「え、ええどうぞ。もちろん」

今、自分がわかりにくい微妙な表情を浮かべたからそう言ってきたのかと彼は思った。まさかね。

「私、実は生命保険の勧誘員なんです。もうすぐ二年経ちます」

「ああ、それは大変そうなお仕事ですね」

ここで自分を誘ってくることはないだろうと思いつつ。

「それで、二年もやってて言うのもなんなんですけど、どうしてこう毎日働かなければいけないんだろうっていうことなんです。まあ、それは生活のためなんでしょうけれど」

「…出来ることなら僕だって働きたくなんかないですよね。上司に気を遣い、部下からは避難されないように狭間で揺れてます、いつも」

「私、今のこの仕事は好きでしているのではなくて、たまたまなんです。だからこんな風に思ってしまうのかもしれません」

自分だって今の仕事は好きではない。もちろんそれは生活のためだ。どこまで考えてももちろんそう。こんな牢屋のような、洗脳されてるようなところ、一刻も早く脱出してしまいたい。そう思わない日はきっとないだろう。

だからカレーでかろうじて全ては支えられているんだ。

「まあ、食べながら話しましょうよ。折角ですから冷めてしまわないうちに。それから語りましょう」少なくともカレーを食べる人に悪い人はいないし、と思いたい。

「ええ、そうですね」

彼女は微笑んでそう言った。ところで、彼女のカレーの食べ方はなかなか優雅だった。さっき、定食屋では特に気にならなかったけれど、まるでフランス料理を食べているようにスプーンを操る。カレーを乗せたスプーンはまるでくるくるとパスタを巻くフォークのように優美で見事なしぐさだった。

こんな風に品よくカレーを食べる人に、それもこういうカジュアルな店でのカレーなのに一切手を抜かないその素振り、これはマル。きっと信用出来る人だ。彼はそう思った。

するとその想いが彼女に伝わったのか、彼女も信頼しています、という眼差しを彼に向け始めたのだった。

「あの、聞いてもいいですか。もしかしたら、これってとりとめないって思うかもしれませんが」「そんなことありません。もちろんどうぞ」

「その、どうして私達ってこんなにも日々、賢明に働かなければいけないんでしょうか。どうして毎日遊んで暮らしていてはいけないんでしょうか。どうして結婚しなければいけないのでしょう。ひとりで優雅にしていてはどうしてだめなのでしょう。結婚しないからってそれがどうだっていうのでしょう。私は毎日、好きな本と好きな音楽に囲まれてほんのたまに気の合う友人と会って元気になって。そんな感じでずっと暮らしていけたらなって思うんです。それって何か欠落していますか。いけないんでしょうか」「…」

退蔵はここでなんと言ったらいいのか躊躇してしまった。前半の働くという事に関しては彼も常々思っていることで、自分だって誰かに聞きたいとしょっちゅう考えていたのだから。結婚の方はともかく。

困った。彼女は今、自分に解答を求めている。まさか「ええ、そのお気持ち、よおくわかります。実は私もそれにそっくりなことを思っていたんです」と、そんなことを言っても何にも進歩なし。ここで同意だけしたって仕方がないだろう。ここはなんとしてでも自分なりに誠意ある一歩を、何かこれはという意見を言わなければ。

彼は内面で強くそう思った。でも一体それではここで何を言ったら、そう、何が気のきいた発言なのかよくわからなかった。さあ、どうしたものか。

そこで彼がどうしたかって。もちろん決まっている。カレーの力にあやかろうとしたわけだ。彼はまず無言で、残っている桃カレーの最後のひと口をきれいに平らげた。そう、桃カレーのパワーが充分に体中にみなぎるようにと願いつつ。

すると、まるでカレーにコーティングされた桃の分子がぴちぴち反応した気がした。

これだ。彼はその一瞬を逃さなかったし強く確信した。

「佐伯さん、大丈夫です。その、そういう意識を持つことがまずは大切なんです。それらが全てのことを引き寄せるのです。そう、あなたが言ったことはきっと、ええ、間違いなくみんなが思っていること。まあ、毎日ずうっと思っているわけではないかもしれませんが、ふとした瞬間にちらりと世の中の人皆が心に浮かぶはずのことなんです。そう、だから大丈夫。あなたは全然間違ってなどいません。もちろん、私も自分自身、間違っているなどとは思わない。きっと労働や結婚生活っていうのはあなたにとっても私にとっても、また他の人達にとっても捉え方によっては修行のようなものなんです。だから軽々しくないし楽しくないしそう簡単に達成出来ないようになっているんです。でもそこがいい。そんな風に思えませんか。あ、いえ、別に私だって百パーセント、そう思っているわけではありません。とりあえずそう簡単にいけないところがいい、そう口にしてみるだけで何か違うと思うんです。これは一応言っておきますけれど、強がりではありません。さあ、どうでしょう。この解答は」

彼女は退蔵のことをじっと見つめていて、とうとう口を開く決心をしたようだ。その眼差しとムードで彼は、彼女が言うことをほぼ把握出来ている気がした。 

きっと「ええ、そうですね」と同意するのだろう。そう確信していた。漠然とね。

「私、毎日、営業していてそれが、誰かの何かを犯していたり、もしかして奪ってる、そんな瞬間があるのでは?と思ってしまうことがあるんです。そういうのってわかります?しなくてもいいことを無理にしているような」「…」

彼は答えられない。だって分からないんだもの。ええい、ここはスルーしてしまおう。

彼の沈黙に、特に彼女は気を悪くしたふうでもなく、またまた口を開いた。

「…私、これまではそんな風に物事を考えたことってあんまりなかったんですけど。どうしてそう思えるのかって言われても困ってしまうんですけど。どう言ったらいいんでしょう。私はまだまだ迷っていていいのではないかって。もしかしてそうなのかなって。戦争はないし介護する親がいるわけでもなく愛を交わす恋人がいるわけでもなく世話をするべき夫や子供がいるわけでもない。そう、そういう意味では自由なんです。私はとても、のびのびしているはずなんです。ああもう、どうしてそういうことに今まで気がつかなかったんでしょう。そして今、それに気がついたということはあなたのお陰なのでしょうか。だとしたら感謝の言葉を述べなければいけないんですけど。そんな気持ちです」

そう言いながら彼女は最後の一匙をその美しい口元に運んでいった。

あれ、自分が言ったこととピントがズレている気がするんだけれど。…。でも、ま、いいか。こんな結末もたまにはあり。と彼は心の中でつぶやく。

今、傍目には、彼は彼女のその食べ具合に相好を崩したままに見えてなんともだらしのない、あ、いや、美人に弱いのは誰でもありがち、と思われているに違いないのでは。と、横道的に周囲がそんなふうに彼は気になった。まあ、いいか。と軽く開き直る。

ふと、ここで急に彼は欲求を覚える。とうとうと語ってみたいという衝動だった。せっかく彼が彼女のために発言しているのに、彼女は全くかみ合っていないことを言ってきたからかもしれない。それも彼に感謝しなければなどと。感謝。そんな風に言われたことって最近あっただろうか。妻に子供に言われたことは?もちろんない。

こんなにも自分は日々消耗しながら会社に行っているのに。そう思ったせいもあったのか、彼は勢いよく話し始めた。

「佐伯さん、私のカレー好きというのはどうしてかというと紛れもなく母親の影響なんです。私の母は家事が苦手、というよりもほとんど家事をしない人でした。家事が嫌いだったんです。いえ、別に母がお嬢様だったからとか、うちが裕福でお手伝いさんがいたからとかそういうわけでもありません。また、何か仕事を抱えて忙しかったというわけでもありません。単に家事が嫌いだったんです、母は。そういうわけで我が家は物心ついたころからそれは埃っぽく汚なかったんです。あと料理だってもう、何と言ったらいいのか。スーパーのパックものやレトルトがほとんどでした。で、そんな中で唯一、母が作れたのがカレーだったんです。……私は結局、母のことが好きだったんです」

こう言い切った途端、なぜか彼はどっと泣けてきそうな気がした。でもこらえた。

「あと、いいでしょうか。こんな話を続けても。母は宮沢賢治が好きで小さい頃、よく読み聞かせてくれました。セロ弾きのゴーシュみたいな童話から永訣の朝のような詩まで」

そう言って彼はついに下を向いてしまった。もう、なんだか涙がこぼれてきそうでそんなの見られたくなかったから。

すると彼女が今度は、下を向いたままの退蔵に口を開いた。

「良いエピソードですね。私の方での母の思い出ってなんだろう、って思いだしてみると、桃を買ってくるととても丁寧に皮を剥いて、食べさせてくれたんです。たとえばそんなことでしょうか。……。でも、そちらのエピソードにはかなわないような。それにしても、

彼女は彼を見た。彼も彼女を見た。

その時、お互いの頭の中にほぼ同時に明るくてほの甘い何とも言えない感覚が押し寄せてきた。それはまるで彼らが個体ではなく、同じひとつの身体のように思わせるエネルギーだった。

今、二人は向かいあっているだけなのに心を、体を触れ合い安堵する境地に行こうとしていた。それは桃の想いがミックスされたもので、その感性はでまるで初体験の男女が寄り添うかの如く周囲には見えたのだった。

そう、間違いなくこれから後、今日だって明日だってあさってだってしあさってだって延々と二人にはすべきことが山ほどあって、それは嫌々している仕事が大半を占めていて、どうしようもないのだけれど、こんな風に少し息抜きみたいなことをしているだけで、もう少しやっていけるかもしれない、と退蔵には思われた。

二人は細胞レベルで共感度が上がっていった。これからほんのしばらく同意出来ることは多いだろう。

                            (了)                 







































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