06
ラルフに連れて来られたのはゾグラフ辺境伯家の馬小屋だった。
オリーブはランタンで照らされた馬小屋の中で最も目立つ芦毛の馬へ駆け寄る。ラルフの愛馬マレンゴだ。マレンゴは耳を立てじっとオリーブを見つめている。
「マレンゴは無理だったろ。ポニーでも二人乗りできるからポニーで行こう」
オリーブに乗馬を教えたことがあるラルフは、マレンゴに乗ったオリーブがその高さを怖がって乗馬を諦めたことを覚えていた。
「ポニーよりもマレンゴの方がずっと足が早いんでしょ?お母様のためなら頑張れる。絶対怖がらないって約束するから、お願い!」
ラルフが乗馬を教えてくれた時に怖くても諦めずに練習していたら、ここで問題なくマレンゴに乗れていたのだ。普段は怖いことや苦手なことから逃げがちなオリーブだが、これからはもう苦手なことから逃げないようにしようと決意した。
「マレンゴは俺の相棒だからお前を振り落とすことは絶対にしない。怖がらずに安心して身を任せれば心配はないから。……その寝間着なら足を広げても大丈夫そうだな」
そう言いながら台座を使い素早くマレンゴに鞍を取り付け、鞍の後ろに飛び乗ったラルフ。マレンゴに跨りながらオリーブに手を差し出している。
オリーブも台座を使い、緊張で体が強張りドキドキとうるさい心臓を無理やり無視して、ラルフの手を掴んで鞍へ跨った。
怖いのはマレンゴではなく、不安定に揺れる身体とこの高さだ。マレンゴはラルフの愛馬なのだ。オリーブはマレンゴのことを信じ、その首へ抱き付き、下を見ないように目をつぶった。マレンゴの毛はスベスベで温かく、干し草の爽やかな香りがする。
オリーブの後ろに跨っているラルフが手綱を握りマレンゴの腹を蹴り、マレンゴは走り出した。
オリーブは揺れる身体に慣れず不安になるが、ラルフに言われた通りマレンゴに身を任せるように意識する。
夜更けに寝間着姿で馬へ乗り出かけようとしているラルフとオリーブは、辺境伯家の門の前で門番に止められてしまった。ラルフは寝間着のポケットへしまっていた母から辺境伯夫人宛の手紙を取り出して門番へ託す。二人でアルバ伯爵家に行くという伝言と、その手紙を辺境伯へ渡すように門番へ頼んだラルフは、無理やり門を開けさせた。
アルバ伯爵家は王都の南にある大聖堂の近所で、大聖堂まで行ったら屋敷までの道が分かる。オリーブはラルフにそう伝えると、マレンゴは南へ向かい走り出した。
意を決して目を開けたオリーブは下ではなく、真っ直ぐ前を向く。街灯が灯る夜の道を灯りを反射する芦毛のマレンゴが駆ける。夜は遅く人も馬車もほとんどいないため障害物は無い。
左右に流れていく夜の街、マレンゴの足音、揺れる身体、今まで経験したことのない状況に、オリーブは思わずこれは夢なのではないかと思ったが、背中にラルフの心臓の鼓動と体温を感じ現実なのだと思い直した。
オリーブとラルフを乗せたマレンゴは全速力で夜道を駆け抜けていった。
しばらくして大聖堂へ着き、記憶を頼りにしてなんとかアルバ伯爵家のタウンハウスに着いた。
もちろんアルバ伯爵家の門は閉まっている。オリーブはヨレヨレになってしまっているが確かに母の紋で封蝋されている母から祖父宛の手紙を門番へ見せる。幸いにも門番が母に連れられて来たことがあるオリーブを覚えていたためにすんなりと中に入ることができた。
門から屋敷の玄関までの道をマレンゴに乗ったまま走り抜け、玄関を守る護衛にオリーブが緊急で来たことを家令に伝えてもらう。
「オリーブ!」
駆け足で駆けつけて来たのは家令ではなく寝間着姿の祖父だった。ボロボロのネグリジェにラルフのカーディガンを羽織っただけのオリーブを見た祖父はオリーブを勢いよく抱きしめる。
「お祖父様、今すぐパレルモ伯爵家に行ってお母様を迎えに行って!お母様が危険かもしれない!」
その強い抱擁に抵抗しながら、オリーブは母からの手紙を祖父へ手渡す。祖父が手紙を読んでいる間に、オリーブの伯父で現アルバ伯爵のロドニーと家令も現れた。
「あの腰抜けが!ただのヘタレかと思っていたらとんだドクズだったとは、ふざけおって!ロドニー、私は今すぐにステファニーを迎えにいく!おいっ一番大きい馬車と着替えをすぐに用意しろ」
祖父はそう怒鳴り散らし、家令に命令するとすぐに着替えのために駆け足で部屋へ戻って行った。ネグリジェで逃げてきたオリーブの様子から母の救出が一刻を争うとわかるのだろう。
祖父から預かった手紙を読んだ伯父は、自分も付いて行くと言ってくれた。伯父はまだ寝間着ではないから着替える必要はない。
「父上だけだと勢い余ってパレルモ伯爵を刺しかねないからね。オリーブがこんな夜更けに逃げ出した事情を含めて詳しいことは父上と一緒に馬車の中で聞こう。……それと、君の名前を聞いても良いかな?」
伯父はそれまで蚊帳の外だったラルフに名前を訪ねた。
「アルバ伯爵、夜分遅くに申し訳ございません。私はラルフ・ゾグラフといいます。オリーブとはタウンハウスが隣の縁で幼い頃から仲良くさせていただいてます。今日は夜更けにオリーブからアルバ前伯爵へ手紙を届けたいと頼まれて、緊急と判断してここまで一緒に来ました。私は、ステファニー様が本来は私の母にメッセンジャーの使用を依頼する予定だったこと以外、詳しいことは何も知りません」
「あぁ君が妹が噂していたいじめっ子のラルフ君か」
せっかく貴公子のように澄ました外行きの顔で伯父に挨拶をしたのに、いつものオリーブへの態度を揶揄われてしまったラルフは、今はバツの悪い顔をしている。
「ラルフ君、オリーブを連れてきてくれて本当にありがとう。部屋と着替えを用意するから暖かくして今日は我がアルバ家に泊まってくれ。ゾグラフ辺境伯家へはメッセンジャーで連絡しておく」
そう話している伯父の元へ執事が来て手紙を渡す。
「噂をすればゾグラフ辺境伯からの手紙みたいだ。……ラルフ君が五体満足で元気ならすぐに屋敷に戻して欲しいと書いてあるよ」
「……帰ります」
ラルフが答えると同時に、まだシャツのボタンを全部閉めていない祖父が戻ってきた。
「ラルフ君が怒られないように辺境伯へ手紙を書く時間が取れなくて申し訳ない。私とアルバ前伯爵は君に非常に感謝している、今度お礼をしに伺いたいとゾグラフ辺境伯に伝えて欲しい。君は強いんだろうけど、今は丸腰だしまだまだ子供だ。帰り道はうちの馬車に並走する護衛から離れないように、充分注意してくれ」
皆で玄関から外へ出ながら、伯父はラルフにそう伝え、それを横で聞いていた祖父も頷いている。慌ただしく馬車に乗り込もうとする直前、オリーブはマレンゴに跨ったラルフの元へ駆け寄った。
「ラルフ!今日はありがとう。”俺を頼れ”ってラルフの言葉があったから逃げきれたの。今日のお礼は何がいいか今度教えてね!……マレンゴもありがとう」
最後にマレンゴを撫で、オリーブは祖父と伯父が待つ馬車へ走って戻った。