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飛熊はオリーブの胴体よりもずっと太い腕を振り回し、尖った爪で切り裂くような攻撃を繰り返している。
当たれば致命傷は免れないだろう。ラルフがオリーブを抱きかかえて避けてくれなかったら間違いなくオリーブは大怪我をしていたはずだ。
無事王都へ戻ったらラルフに何かお礼をしようと決意し、オリーブはラルフに「助けてくれてありがとう」とお礼を言うと、ラルフは眉間に皺を寄せオリーブを睨みつけた。これは一人でテントを出て飛熊に襲われた事について後で説明しろと怒っているのだと、幼馴染だからこそ分かってしまう。アラスターへシグナルを送っていることから、偶然だという言い訳はできない。
怒っているラルフが握っている剣の柄の先で以前オリーブが作った飾り紐が揺れている。飾り紐が目に入っただけで緊張が解け、暗闇も、お化けも、飛熊も怖くなくなっていくのが分かる。
ラルフはオリーブの前に立ち、騎士達の攻撃には加わらないもののテントへ戻る事なく飛熊との戦いを真剣に見つめている。ラルフ、オリーブ、カイル、カイルを護衛している騎士の4人で離れたところからアラスター達を見守ることになった。
皆、飛熊からの攻撃をギリギリでかわしている。人数が多いおかげか息遣いや表情には余裕が見えるが、飛熊は飛んで躱すことができるため、こちらの攻撃が思うように当たっていない。剣で切りつけるだけでなく、炎や雷の魔道具で魔法攻撃をしてもまるで当たっていないかのように効果がない。
攻撃を避けられた飛熊が悔しそうに「ガァー」と地面が揺れるほどの大きな呻き声を上げる度、オリーブは思わずビクリと体を震わせてしまう。
「飛熊は筋肉が頑丈で魔法耐性が異常に強い!強化した剣で関節や顔面を物理攻撃してください!」
そうラルフが叫ぶと、アラスター達は飛熊の突きをかわしつつ慎重に関節や顔を狙いはじめた。ラルフは飛熊と戦うアラスター達を真剣な眼差しで見つめたまま、次はカイルへ問いかけた。
「カイル殿下はなぜわざわざ危険なところに来たのですか……」
「飛熊の討伐を見れる機会なんてそうそうないからね。研究のためだよ。ここには私も護衛騎士もいるし、オリーブさんのことは任せてラルフくんも参加してきたらどうかな」
「あなたがいるところにオリーブを残して行けるわけがない!」
ラルフはキッと顔をカイルへ向け、思わずといった様子で怒鳴った。普段は世間体を気にして好青年を演じているラルフが王族のカイルに向かって声を張り上げるという暴挙に驚き、どうしてラルフがそこまでカイルを警戒しているのかも分からず、オリーブは混乱してしまう。思わずラルフとカイルの顔を交互に見比べたが、カイルを睨みつけているラルフに対して、カイルは気にする様子もなく微笑んでいる。
「……オリーブが転んで怪我した日、カイル殿下がオリーブの頭を撫でる手のひらに僅かな魔力が生じるのを感じました。通常なら魔道具を介さないと魔法は使えない。でもあなたは王族だ。魔道具無しで使える伝承魔法があるとしても不思議じゃない。……あの時オリーブの頭に流した魔力は何だったんですか?」
通常魔力の流れなどわからない。魔獣討伐をする騎士は、魔道具無しで魔法攻撃をしてくることがある魔獣を相手にすることもあるために魔力の流れを感じるように鍛えるのだと、当のラルフから聞いたことがある。辺境の地で5年間も魔獣討伐をしていたラルフだから僅かな魔力でも見逃すことなく察知することができたのだろう。
オリーブがカイルを意識しだしたのは、あの日頭を撫でてもらってからだ。いつまでもカイルの手の平の感触が忘れられず、また撫でて欲しいとカイルを探すことが止められなかった。そう、自分でもいきなりのことに戸惑い医療の本で調べたくらいの異常なあの感覚。正直に言うと、あの感触を思い浮かべるだけで、今もカイルに頭を撫でて欲しいと思ってしまう。
フレイア様との会話がきっかけでカイル先生を好きだと思ったけど、思い込みだったのかもしれないわ。カイル先生への気持ちをよく考えるように言われた時、前世と今世ともに父親からの愛をもらえなかったせいで年上のカイル先生に父を重ねて愛を求めてるのかもしれないとも思っていた。でも、突き詰めて考えると、ただカイル先生に頭を撫でて欲しいという衝動だけかもしれない。私は本当にカイル先生のことが好きなのかしら……。
「ガァー!」
飛熊の大きな鳴き声にハッとし、今は自分の気持ちについて悩んでいる状況ではないと気づき、オリーブは気持ちを切り替える。
カイルに好意を持つように強制されていたかもしれないという怒りや悲しみはない。それよりもどうしてオリーブへ魔力を流したのかという疑問の念が膨らんでいく。
ラルフの問いを受けてもこちらへ笑顔を向けているカイルが何を考えているかわからず薄気味悪い。ラルフとオリーブの二人から問い質すように見つめられているカイルが返事をしようと口を開いたその時、オリーブ達のすぐ後ろ、建物の裏口ドア付近から歌声が聞こえてきた。
「♪~~~~~」
マールムだ。
オリーブと同じ黒い髪を風にたなびかせ、歌いながらゆっくりと飛熊の方へ歩いていく。マールムから揺ら揺らと虹色のオーロラのような光が漏れ揺れている。それは水底から空を見上げたような幻想的な光景で、まるでマールムだけ別世界にいるかのようだ。
「♪~~~~~」
歌っているのは古くから伝わる愛の歌で、今はもう使われていない古語の歌詞が神秘的な雰囲気に相乗効果をもたらしている。オリーブはこの古歌の訳は知らないが、歌姫が式典の余興で披露する歌として知っていた。正直、リズムはずれているし、声に伸びもなく余裕を感じない。下手とまで言わないが手放しで上手とは言えない。
それでもなぜか惹きつけられ、ずっと聞いていたいと思わせる不思議な歌声。つい先ほど気付かされた、カイルに頭を撫でて欲しいと思ってしまう感覚に似ている。
「胸元から出た魔力を音に乗せてるのか……」
ラルフは吐息のような声を漏らし、分析しつつもマールムの歌に聞き入っている。アラスターやサイラス、他の騎士達も飛熊へ警戒は怠らないものの攻撃の手を止めてマールムの歌を聞いている。
そして、カイルは目を見開き食い入るようにマールムを見つめて、うっとりと呆けたような顔をした。オリーブはそんなカイルを横目で見てしまったが、オリーブの心は凪いでいる。
先ほどまで騎士達に爪を振り下ろしながら呻き声を上げていた飛熊は、マールムが歌い出したとたんにピタッと動きを止めその場に立ちすくしていた。目から光がなくなり、声も上げない。しばらくすると、ゆっくりと動き出し、サイラスの元へ一直線で歩いて行く。
飛熊はサイラスの前で前足をつき、四つん這いになり首を差し出して動かなくなった。
その異様な光景に背中を氷で撫でられたような悪寒が走る。オリーブだけでなく、飛熊の目の前にいるサイラス、アラスターやラルフ、騎士達も皆が引きつったような表情をしている。歌っているマールムとそのマールムを見つめるカイルだけが恍惚とした表情をしていて、周囲との温度差が不気味だ。
ドンッ
サイラスによって飛熊の首が落とされ、その巨大な身体が倒れた衝撃で地面が揺れた。あれだけ暴れていた飛熊は一切の抵抗もせず、呻き声を上げもせずに、自分の命を差し出した。サイラスの足元に転がる飛熊の首を見たマールムは歌うのを止め満足そうな顔をしている。
理性の無い巨大で凶暴な魔獣が成敗された喜びよりも、マールムの力に対する恐怖がその場の空気を支配している。飛熊をテイムできるのなら、人間もテイムできるのではないかと警戒するのはおかしなことではないだろう。
力のある歌姫にテイムされると自分の命も厭わなくなるのね。歌姫の力は怖い。けど、同じ力を使える私も皆から同じように恐れられるということの方がもっと怖い……。
怪物を見るような目でオリーブを見るラルフやフレイアを想像するだけで足が震えそうになる。周りの皆はそんなオリーブの内心に気付かずにその場に立ちすくし、強張った表情でマールムを見つめている。
そんな重い空気の中、カイルだけが明るい表情でマールムの元へ真っ先に駆け寄って行った。
「ありがとう!マールムさんの素晴らしい歌声のおかげで飛熊を討つことができたよ。マールムさんは歌姫だったんだね」
カイルはマールム手を取り両手を繋いでとろけそうなほど甘い笑顔でお礼を言い、マールムはそんなカイルへうっとりとした顔を向けた後、恥ずかしそうに照れながら「お役に立てたみたいで嬉しいです」と言っている。
「パレルモ嬢、靴を脱いでこちらに渡してもらおうか」
まるでここにはカイルとマールムの二人しかいないかのように見つめ合っている二人を気にする事なく、アラスターがマールムへ話しかけた。
先ほどまでの畏怖を引っ込め、高位貴族らしい無表情でマールムに向き合うアラスターの横にはいつのまにか一人の王国騎士がいる。飛熊の討伐の時はいなかったその王国騎士はハンカチの上に何かを乗せて手に持っている。
「これは踏みつけられたモラレスの実のカケラだ。我がマルティネス公爵家で建てたそこの館の二階の窓際でで回収した。パレルモ嬢がモラレスの実から飛熊を出し歌ってテイムし、その後館の二階の窓際へ行って様子を見ていたこと、私とサイラス殿下とラルフの出現時にこのモラレスの実を踏みつけて壊し、裏庭へ出てくる前に大きなカケラをトイレに流したことも、全て見ていたと今この騎士から報告された」
マールムには王国騎士の監視が付いていたようだ。王国騎士ということはここにはいないドミニクもしくは陛下か王妃が命令したということ。オリーブがモラレスの実を見てゲームヒロインの自作自演を疑ったように、フレイア達は事前にその可能性に気づいていたのだろう。
この飛熊の襲撃はマールムの自作自演だった。しかもアラスターと王国騎士に知られている。奇跡的に怪我人はいないが、オリーブはラルフがいなかったら確実に大怪我をしていた。
「あなたの靴を証拠として押収し、どうしてこんなことをしたのか王城で話を聞くことになる。大人しく同行願おう」
マールムはアラスターを筆頭に数名の王国騎士達に囲まれた。
それ以外の騎士達とサイラスは事情は知らなかったものの、飛熊の襲撃から討伐がマールムの台本通りの狂言だったことと陛下達がそれを予測して動いていたことに気づいたのだろう。マールムへ厳しい目を向けて成り行きを見守っている。
マールムはまるで気遣うようにマールムを見ながら頭を傾げているカイルの背に隠れた。




