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「オリーブさん、今日もお手伝い?」
数学の先生の準備室へ向かっていたオリーブは魔法科の廊下でカイルと鉢合わせ、返事を返した。
授業以外の空き時間に研究をしている先生たちは、魔法科に専用の準備室を持っている人が多い。そのため、先生たちに雑用を頼まれているオリーブは魔法科へ来ることが多く、カイルとは魔法科の廊下ですれ違うと声を掛けられるようになった。
「えらいねぇ。そうだ、これはそんなオリーブさんにだけ特別ね。みんなには内緒だよ」
「ありがとうございます」
カイルはヨレヨレの白衣のポケットから飴を取り出しオリーブの手に乗せると、他の生徒に呼ばれて行ってしまった。
会う度に優しい笑顔で褒めてくれるカイル。オリーブは毎回また頭を撫でて貰えるかもと期待している自分に気付いていた。実はあれから10日ほどたった今でも、毎日、それも気づけば1日に何回もカイルから頭を撫でられた感触を繰り返し思い出している。
その日の放課後、そんな自分を変だと思うオリーブは、原因を調べに図書室へ来た。
『頭を撫でられると、脳の神経細胞に直接感触が伝わり幸せと感じる物質が分泌される』
『自己肯定感が上がるため子供の教育に有効』
頭を撫でられることは幸せな気持ちになる行為だと医学書で確認できたが、どうしてそれを何回も思い出してしまうのかについてはどこにも書いていない。前世の記憶も探ってみても答えはわからない。
図書室の窓際の席で物思いにふけながらぼーっと窓の外を眺めていたオリーブは、渡り廊下を歩く人達の中に猫背で歩いているボサボサの銀色の頭を見つけた。最近ではどんな人混みの中にいたとしてもカイルの姿をすぐに見つけてしまう。
目立つ銀髪だから見てしまうのよ。見慣れたオリーブ色のラルフの頭だって人混みの中ですぐに見つけることができるから、カイル先生を見付けて目で追ってしまうこともおかしくないはずだわ。
オリーブは心の中で必死に言い訳をしながら、カイルの背中が見えなくなるまで見つめていた。
「あら、医学書?具合でも悪いの?」
そんなオリーブに話しかけたのはフレイアだ。図書室に一人で来ていたオリーブはフレイアがいたことに気付いていなかったため、いたずらがバレた子供のように驚いてしまった。言葉なく目を見開いているオリーブを見たフレイアはクスクスと笑っている。
「最近寝つきが悪いので少し調べていたんです。……フレイア様も調べ物ですか?」
オリーブは咄嗟にそう誤魔化したが、ベッドに入るとカイルの笑顔を思い出して眠れなくなるため、全くの嘘ではない。フレイアは自然にオリーブの隣の席に座り、手に持っていた隣国の郷土史を開いた。
「私は妃教育の課題。私、自室で勉強するより人の目がある方が捗るタイプなの。部屋には侍女もいるのだけど、やっぱり図書室やカフェで勉強する方が好きなのよね」
公爵令嬢のフレイアがカフェで勉強などありえるだろうか。前世の世界ならわかるのだが、今世では平民でもカフェで勉強するという発想はないだろう。
フレイアは時折こういった不思議な会話をすることがある。入学当初からなぜかオリーブへ話しかけてくることを含めると、フレイアには前世の記憶がありオリーブも前世の記憶があると気付いているのでは、とオリーブは思ってしまう。
時折、お互いに探り合っているような雰囲気になるのは気のせいだろうか。
「オリーブが熱心に見つめていたのはカイル殿下?」
フレイアの言葉に、オリーブは気が動転して返事が出てこない。別にカイルを見ていたことは悪いことではないのに、認めることが後ろめたく感じてしまう。動揺して変な動きをしてしまい頰が熱くなっているのもわかる。貴族令嬢として完璧なフレイアの前での失態にオリーブはますますうろたえてしまう。
「困らせてごめんなさい。ドミニク様からカイル殿下がオリーブをお姫様抱っこしてたって聞いたものだから軽い気持ちで言ってみたのよ。そんな真っ赤になってまごつくほど本気で好きだなんて思ってなかったの」
”ドミニク様”とはフレイアの婚約者、第一王子殿下のこと。カイル本人か、サイラスが第一王子殿下に話したのだろう。
そして、オリーブはフレイアにカイルが好きだと指摘され、”好き”という言葉が胸にストンと落ちてきた。
頭を撫でられたのが忘れられないのも、笑顔を思い出してしまうのも、すぐにその姿を探してしまうのも、魔法科へ行くのが楽しみになっているのも、もらった飴は食べずに大切に取っておこうと思っていたのも、全部カイル先生が好きだから。……私、カイル先生が好きなんだ。
カイルは王族。子爵令嬢のオリーブと結婚することなどあり得ないし、伯爵令嬢のままだったとしても難しいだろう。オリーブはカイルの愛人になるしか結ばれる道はないが、恋心のために愛人になるよりも、貴族令嬢として家のために結婚する道を選びたいと思った。
オリーブはカイルへの気持ちを自覚したと同時に、その気持ちは心の奥へ秘めておこうと決めた。そして、フレイアをどう誤魔化そうかと迷っているオリーブは、フレイアから思いがけない言葉をかけられる。
「ねぇ、オリーブは『赤いりんごは虫食いりんご』って知っている?」
恋心を自覚したばかりで混乱しているオリーブは、深く考えずに素直に答える。
「たしか外国のことわざですよね」
「えぇ、ブルガリアのことわざね。オリーブはブルガリア以外の国出身の転生者かしら?」
耳慣れない”転生者”という言葉にオリーブは考え込む。転生した者、つまり死んで別の生を生きる者だから前世があるオリーブのことだろう。
そして、ブルガリアは今世にはない前世の国で、『赤いりんごは虫食いりんご』は今世のことわざにはなかったと気づく。ことわざや慣用句も前世と今世で共通しているものが多く、気づくのが遅くなってしまった。
「私の前世は日本人です。やっぱり、フレイア様にも前世があるんですね」
「私も日本人だったわ。”やっぱり”ってことは私が探っていたのも気づいていたのね。さっきのカフェで勉強のくだりも突っ込んでくれたらいいのに」
そう言って笑うフレイアは、制服のポケットから魔道具を取り出した。
「私が席に座る前にこの防音魔道具を起動していたの。それでも人目のある図書室で話すことではないわね。続きはオリーブの寮の部屋でしましょうか。カイル殿下とラルフとマールムについてオリーブに話しておきたいことがあるのよ」
動揺しっぱなしのオリーブとは違い、フレイアはぬかりなく防音対策までしていたようだ。この数週間で仲良くなったフレイアから初めて異母妹マールムの名前が出てきたことで不穏な空気を感じる。同じく日本人の前世を持つフレイアは何を知り、何をオリーブへ伝えようとしているのか。
オリーブは不安で胸いっぱいになりながらフレイアと共に寮へ向かった。




