01
にゃぁ……
侍女の目を盗み一人でパレルモ伯爵家の庭園へ出て来ていたオリーブの耳に、か細い猫の鳴き声が入ってきた。
3日前に流行り病で倒れたきりベッドから出ることができない母へ、自分が摘んだ花を渡して驚かせようと思っていたオリーブは、近くに猫がいるかもしれないと期待して花壇を探り見る。白やピンクや紫など色とりどりに咲き誇るアネモネの中で白い子猫が微睡んでいるのを見つけたオリーブの口から、耳慣れない単語がぽろりとこぼれ出た。
「おもち……」
”おもち”というのは、オリーブが前世で飼っていた白い猫の名前だ。
パレルモ伯爵家の一人娘オリーブ・パレルモには、この世界にはない”日本”という国で20年以上生きた女性の記憶がある。それはオリーブが生まれた時から頭の片隅にある記憶で、その女性の人生を物語にした本が置いてある感覚に近い。
前世の記憶は幼いオリーブには理解できないことが多く覗き見ることが少なかったために、前世を思い出したのは久しぶりだった。
”おもち”と呼ばれた白い子猫はオリーブの気配を感じ、パチリと目を開けて立ち上がり、オリーブとは反対方向の庭園の奥へ逃げ去ってしまった。
ピンクの目だからおもちではないわ。おもちの目は緑色だったもの。
オリーブはそう思いながらも、ついつい白い子猫の後を追いかけて庭園の奥に足を踏み入れた。子猫を驚かさないように音もなくひっそりと歩き、子猫に導かれて迷い込んだ庭園の奥。
庭園というよりも林といった方が近い、木の香りに包まれたその片隅には、手入れがされずに蔦で覆われた四阿があった。
庭園の奥にあり蔦で中が見えづらい、そんな人目に付かない四阿の中から不穏な会話が聞こえてくる。
「これがオリーブ様の分。ステファニー様には私が盛るから、こっちはあなたがお願いね」
自分の名前が聞こえ、オリーブは思わず息を呑む。ステファニーとはオリーブの母の名前。そしてオリーブはこの声に聞き覚えがあった。オリーブは子猫の事も忘れ、聞き耳を立てながら気付かれないようにひっそりと四阿へ近づく。
「まさか躊躇してるの?あの二人がいる限り、私たちの可愛いマールムは庶子として恵まれない人生を送ることになるの。本当はただでさえ裏切っているステファニー様をこれ以上苦しめることは悲しいわ。二人の命を奪うなんて恐ろしいことだって分かってる。でも、これはマールムの幸せのために仕方ないことなの」
四阿に近づくにつれ、オリーブの心臓はドキドキと音を立て、汗が全身から吹き出てくる。これは母の侍女、ジョナの声だ。会話の内容から、母に毒を盛り、その毒をオリーブにも盛ろうとしているのだと分かる。ジョナの会話の相手が自分の予想とは違って欲しいと願いながら、オリーブは一歩一歩と足を踏みしめ四阿へ近づいた。
「……あぁ分かってる」
父の声だ。
間違えることがない父の声。オリーブは心臓をキュッと掴まれたような衝撃でその場にうずくまりそうになった。自分の小さな足を見つめたオリーブは、それでも、父ではないという可能性にかけ頭を上げる。意を決して蔦の隙間から四阿を覗くと、侍女のジョナとその対面にいる男性の後ろ姿が見えた。オリーブと同じ黒髪で、今朝、一緒に朝食を取った時に見た紺色のジャケットを着ているその後ろ姿は、オリーブの父に間違いなかった。
「流行り病に見せかけるためにまずはこっちの緑の毒を摂取させるの。この毒だけだと死ぬことはないけれど今流行っている肺炎だと誤診させることができるわ。オリーブ様が肺炎だと診断されたら先にこの緑の毒を飲ませたステファニー様に次の赤い毒を飲ませる。そのあとにあなたがオリーブ様に赤い毒を盛る。死亡時にごまかしてくれる医者は手配しているし、これなら二人は流行りの肺炎で亡くなったと思われるわ」
こちらに背を向けている父の表情は見えない。その顔は笑っているのか、澄ました顔なのか、それとも苦痛に満ちている顔なのか。もしも父が苦痛に満ちた顔をしていたとしても、オリーブを殺そうとしていることに反対しないという残酷な事実は変わらないではないかと、オリーブは頭の片隅で考える。
私が可愛くないせいかもしれない……
成人まで生きた前世の記憶を持っているオリーブは、自分が子供らしい可愛らしさが無いと自覚している。
前世のオリーブは5歳の時に両親が離婚し、母方の祖父母が用意したマンションでひとりぼっちで暮らしていた。小学校に上がる前に父と母の両方に新しい家庭が出来、それから両親とは片手で数えれる回数しか会うこともなく、高校生になって数年ぶりに会った父親が、こちらに気付かずに再婚相手に言っていた言葉を思い出す。
「無口で愛想も悪いし何を考えるか分かんないな」
「マールムと違って無口で愛想も悪くてなに考えてるかわからないって言ってたものね」
頭の中で響く前世の父の言葉に、現実のジョナの言葉が被さる。
つい先日、王家が開催した同じ年頃の子息令嬢が集まったお茶会があった。タウンハウスが隣り合う幼馴染の辺境伯令息ラルフとしか話すことができなかったにも関わらず、オリーブを怒ることもなかった父。どちらかというと口数が少なく、食事や団欒の時はオリーブと一緒に母の話に相槌を打つことが多かった父。これらは父の優しさだとオリーブは思っていた。
それは優しいんじゃなくて、ただの優柔不断。誰かのためにと与える気持ちもなく、無責任で流されて生きているだけの人。こんな人のために傷つく必要なんてない。
オリーブは、今まで理解できなかった前世の記憶の一部が分かった。頭では理解したけれど、それでも10歳の心は傷ついている。
オリーブは父とジョナが去った四阿の裏で蹲って膝を抱えた。鼻の奥がツンと痛み、ボロボロと溢れ出た熱い涙が手の甲に落ちてくる。
「にゃぁん」
1人泣き崩れたオリーブの元へいつのまにか子猫が来て、オリーブの涙を舐めて慰めてくれた。
母はすでに毒を盛られているんだ。泣いてる場合じゃない。どうにかしないと。
母のことを思い出したオリーブは立ち上がり、乱暴に袖で涙を拭う。貴族令嬢として10年生きてきた自分が普段しない仕草に、前世の影響を感じたオリーブ。前世は自分自身のはずなのに、それでも一人ではない気がして心強く感じた。