思春期と五月病
「けほっ」
慣れないたばこの煙にむせて、すこしでもましな空気を求めて顔をそむけた。
きれいな夜景なんて広がってるわけもなく、たばこで薄汚れたガラスの向こうにあるのは、ただただのっぺりと暗いばかりの夜。
星も見えやしない暗い空と味気ないばかりのアスファルトが、ときどき通る車のヘッドライトに照らされてよそよそしく浮かび上がるだけ。
それでも喫煙所から出て行く気は起きなくて、吸いもしないのに火をつけたたばこ一本がいくらだろうなんて、しょうもないことを考える。
「どうだい、山中くん。仕事は慣れて来た?」
狭い喫煙所のなか、煙を吐きながら話しかけてきたのは別棟に勤める中年男性。さりげなく視線を胸元に走らせて『コバヤカワ』と書かれているのを確かめた。
「いやー、まだまだですよ、コバヤカワさん」
苦笑まじりに名前を告げれば、額の広がって来たおっさんがはれぼったい瞼をわずかにあげた。
付き合いの浅い相手でも、名前を憶えられていて悪い気がするひとはそうそういない。大学時代に学んだ処世術だ。
名札をカタカナ表記にしてくれた誰かに感謝だ。コバヤカワって、どんな字だよ。
「ははは。はじめはみんな、そんなもんさ。君ならすぐに覚えられるよ」
笑いながら火をもみけしたコバヤカワが、俺の肩をたたいて喫煙所から出て行く。
なにもおもしろくないのに浮かべていた愛想笑いは、おっさんの後ろ姿が見えなくなるのと同時にくたばった。
あんたが俺のなにを知ってるんだよ、なんて思ってても言わないけど。
あんまり長時間、喫煙所に居座るわけにもいかない。仕方なしに俺もたばこの火を消し、胸ポケットに入れたたばこの箱に手をやった。
大型スーパーの社員になって一か月。たばこ休憩と称して仕事を抜け出すために買い始めたたばこの箱は、もう空になりそうだ。
ため息をこぼした俺を非難するように、どこか遠くで雷の音が鳴っていた。
*****
スーパーの食品売り場のバックヤードに戻るのが、すこし遅かったらしい。
山積みの商品で視界の悪いバックヤードまでは、食品売り場の店長、つまり俺の上司である井出が、公園のハトみたいに通路を見回していた。十中八九、俺を探してるんだろう。
「あ、山中くん!」
痩せているというより、こけたといった表現がしっくりくる頬で笑った井出が、鶏ガラみたいな体で足早に寄ってくる。
腹を空かせた鳥がエサをみつけたみたいだ、なんて考えてることは、表には出さない。
「おつかれさまです、井出さん」
「うん、おつかれさん。明日の発注ね、少しだけ直させてもらったから」
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
へらへら笑って謝罪とお礼をない交ぜにしてしまうこと。
たばこを理由に仕事を抜け出すこと。
会社員になってからのこのひと月少しで、身につけたのはそれだけ。
大学の頃は成績優秀、顔も良ければ人当たりも良い、将来有望だなんて言われてたのに。
今は、くちを開けばため息しか出ないつまらない男だ。
「謝ることないよ、山中くんはがんばってるんだから。パートさんも言ってたよ、山中くんがね……」
痩せこけた笑顔で伝えられるねぎらいのことばに、俺はへらへら笑いながら相づちを打つ。
がんばってる。ああ、がんばってるさ。
入社してすぐはわからないことだらけで、とにかく覚えなければとがむしゃらにがんばった。
なのに、わからないことが無くならない。ひと月経っても発注ひとつこなせない。
覚えても覚えても、わからないことが湧いて出るようでつらい。
けれど何よりつらいのは、そんな無能を誰も責めないことだ。
「はい。わかりました。がんばります」
こんな薄っぺらい相づちしか打てない俺なのに、誰も罵ってこない。
がんばってるね、えらいな、すぐできるようになる、なんて耳に心地のいいことばばかり吐いて、逃げ道を塞いで行く。
だから俺はがんばるしかなくて、でもがんばるのはもう疲れてしまった。
「じゃあ、僕はレジのほう見て回るから。山中くんはバックヤードに誰か残ってないか、確認お願いするね」
「はい。ありがとうございます」
人の良い店長とわかれて、閉店作業に入る。
雑多なものであふれたバックヤードは、雑然としているのにどこか寒々しい。窓のない作りと照明の少なさのせいだろうか。それとも、薄汚れた寒色の蛍光灯の明かりのせいか。
「冷凍庫よーし、更衣室よーし」
商品を乗せたままの台車の影に目をやりながら、要所要所で扉を開けていく。
冷蔵室も事務室も見て、生鮮の加工場も確認した。
パートさんたちは閉店時間には帰っているし、アルバイトの子たちは閉店作業を終わらせたら帰るから、残っているはずがないのだけど。
たまに作業で残っている社員がいるけれど、今日は誰もいなかった。
「店長に報告して、鍵閉めだな……はあ、また明日も仕事か……」
誰もいないバックヤードを歩きながらついこぼれた愚痴は、俺の気を滅入らせて消える。はずだった。
「あ、山中さん!」
「柳さん……」
薄暗いバックヤードの、さらに退廃的な段ボール捨て場から現れたのは、アルバイトの柳だった。
俺の入社と同じ、四月からアルバイトをはじめた女子高生。たしか、三年だったはず。
明るくて元気で人懐っこくて仕事の覚えも早いし、同じ学年の息子を持つパートさんいわく、勉強も出来るらしい。だけど家計に余裕がないから、進学のための資金をためる貯めに学校から特別に許可をもらってアルバイトしているんだとか。
俺とは大違いの、本物の優秀な人材だ。
「あの、わたし、段ボールの片付けが終わってないのに気がついて。すぐ終わるかと思ってやってたんですけど、もしかして、閉店時間過ぎちゃってます……?」
ほら、こんなときでも誰かのせいだなんて言わない。十中八九、ほかの大学生バイトが放って帰ったんだろうに。
「うん。みんなもう帰って、俺と店長で閉店チェックしてるとこ。見落とさなくて良かった」
胸のなかの醜い嫉妬を押し隠して、へらりと笑う。
まったく、女子高生にまで劣等感を抱くとは、自分で自分に呆れてしまう。
「すみません。はやくタイムカード押さな、きゃあ!」
バツン、と大きな音を立てて電気が消えた。
途端にあたりは真っ暗になって、物の影すらもあやふやになる。
「停電、か?」
「ですかね……」
周囲の建物を確認しようにも、窓がないからわからない。明かりがあれば出口なり売り場なりに歩いていけるけれど、就業中は個人のスマホはロッカーに入れておくルールのせいで、手元にライトはない。
あるのは、スーパーの敷地内でだけ使えるPHSだ。
「店長、出ないな……」
暗がりのなか、指が覚えているボタンを操作して店長に連絡を取ろうとするが、話し中のようだ。
あちらも停電しているとしたら、ほかの部門の責任者たちと連絡を取り合っている最中かもしれない。
「はあ……ちょっと、待とうか。いまに守衛さんが懐中電灯持って回って来るはずだから」
「ですね。真っ暗で、足元も見えなくて危ないですし」
立ったままでいるのも何だからとお互いにそろりそろりと手さぐりし、適当に引き寄せた段ボールを敷いて壁を背に座る。
暗闇の中でふたり、並んで黙り込むと、沈黙が重い。
それは柳も同じだったようで、となりから空気の動く気配が届く。
「あの、山中さん……」
ためらいがちな声に身構えた。
「たばこ、吸い始めたんですか?」
「え、ああ、うん。そう、わかる?」
さっきの情けない独りごとについて聞かれるのかと思っていたものだから、気が抜けた。
見えていたなら顔がこわばっていただろうと思えば、停電に感謝だ。
「匂いが、すこし」
「はは。たばこでストレス解消できるかな、と思って手を出してみたけど、ダメだね。仕事を抜け出す口実にしかならなかった」
気が抜けたせいで、余計なことばまでこぼれてしまう。
そう自覚したときには、遅かった。
「あー、ごめん。こんな暗い話、聞きたくないよね」
忘れてよ。
笑ってそう続けようとしたのに、それをさえぎったのは驚きに弾んだ声だった。
「山中さんでも、ストレスってあるんですね!」
「……ええと、どういう意味だろう」
真っ暗なせいで、柳がどんな顔で言ったのかわからない。だけどつい声が低くなるのは、仕方ないだろう。
「あ、ごめんなさい! あの、悪い意味じゃなくてですね」
お前ストレスないだろ、をどう捉えれば悪い意味じゃなくなるのだろうか。
わからない。声音からは嘲りの感情を拾うことはできないし、俺の知る柳なら相手を馬鹿にするような発言はしないと思っていたけれど。
顔が見えないのが地味につらい。柳の表情が気になってたまらない。
この停電、いつまで続くんだ。
「悪い意味じゃなくて、あの。山中さんくらいテキパキ仕事できるひとでも、ストレス溜まるんだと思ったら、安心しちゃって」
「安心?」
予想外なことばに柳を見た。何も見えない。けれど、照れたように笑う気配が感じられた。俺の思い違いでなければ、だけれど。
「えへへ。わたし、アルバイトをはじめるときに『来年は大学行って一人暮らしするんだから』って料理洗濯を自分でするなんて大見得を切ったんですけど」
それはまた、なかなか無謀なことだな、と俺は大学生になったばかりのころに想いを馳せた。
掃除に洗濯それから炊事。自分で自分の世話をするのがこんなに大変なのかと、驚いたものだ。
加えて、柳はアルバイトもはじめたばかり。覚えることはいくつもあっただろうし、家事をするとなると帰ってからも休まる暇はない。それも学生生活を送りながらなんて。
「なかなか、張り切ったもんだな」
ついこぼれた笑いは嘲りではなくて、ほほえましさからだ。
それが伝わったのか、柳がおかしそうに笑う声が聞こえて来る。
「ですよね。はじめた次の日には自分でもそう思ったんですけど。でも、言い出した手前、やっぱり無理だったなんて、親には言えなくて。それに、そんな情けないことじゃ大人になんてなれない、って思っちゃって、だから」
「だから、俺でもストレスあるって、安心したってわけだ」
「はい。山中さん、いつもてきぱき動いててかっこよくて。理想の大人っていう感じがして尊敬してるんです」
手放しの称賛が照れ臭くてくすぐったい。そう思えれば良かったのに、思考が卑屈なほうへ引きずられるのは、真っ暗闇のせいだろうか。
まるで、先の見えない暗がりにいるような、そんな心地を嫌でも掘り起こされる気になってくる。
「そんな立派なもんじゃないよ」
ありがとう、うれしいよ。そう言えばいいとわかっているのに、くちから出たのは隠すはずの本心。
「俺なんて、仕事もまだ覚えきれてないし、そのくせたばこに逃げることばっかりうまくなって。どうやった仕事を休めるかしか考えてない。柳さんはすごく立派に仕事をしてるし、まだ高校生なのに将来を見据えてて、むしろ尊敬するのはこっちのほう。きみは、俺なんかを理想にしちゃだめだ」
言っていて、自分のことばにさらに落ち込む。毎日、毎日、仕事を休むことばかり考えているなんて、ほんとうに情けない。
はあ、と知らずため息がこぼれたとき。
指先に、何かが触れた。
「わ、冷たい」
間近で聞こえた声に、やわらかくて暖かいそれが柳の指だと気づく。
「え、っと……?」
「ネガティブになっちゃうのは、身体が冷えてるからだってお母さんが言ってました!」
元気な一言とともに、探り当てられた俺の手がぬくもりに包まれる。両手で包まれても、俺の片手の指がはみ出してしまうほど頼りなくちいさな柳の手。
「わたし、がんばります。山中さんもがんばってるってわかったから、わたしももうちょっとがんばってみます」
ぎゅう、と握りしめられた手から柳の決意が伝わってくる。純粋で、眩しいほどのやる気に満ちている。
「だけど、がんばるのに疲れたら、またいっしょに愚痴の言い合いっこしてもらっていいですか? わたし、聞くだけしかできないですけど」
「……ああ」
年下に慰められて情けない、なんて気持ちがかき消されるほどにまっすぐな想いが、憂鬱の底に沈んだ俺の感情に温もりをくれた。
本当だ、温かいと気持ちが上向くんだな。
「俺で、よければ」
「うれしい。ありがとうございます、山中さん」
その瞬間、ぱっと照らし出された柳の笑顔に、俺は息をのんだ。
憂鬱なんか捕えられないほど、胸がかき乱されるやわらかな笑顔。喜びに染まるその顔が、目に焼き付く。
「あー! いたいた、山中くん! と、柳さん? ありゃー、停電に巻き込まれちゃった? 遅くなってごめんねえ」
「店長! びっくりしましたよ」
懐中電灯を片手に現れた店長に、柳が立ち上がり駆け寄る。
「いやあ、落雷だってさ。あと十分くらいで復旧するらしいから、冷凍ものもダメにならなそうでひと安心だよ」
「良かったです! あ、すみません。わたしまだタイムカード押してないんですけど、どうしましょう」
和やかに会話をするふたりに、顔が向けられない。のろのろと立ち上がり、懐中電灯の明かりからさりげなく逃げる。
「いいよいいよ。停電のせいで遅くなっちゃったんだから、今の時間まで勤務ってことにしよう。山中くん、タイムカードに書いてあげてね」
「え、あ、はい!」
急に名前を呼ばれて焦るけれど、ふたりは気にせずバックヤードの従業員出口へと向かう。
あれこれと話すふたりの後ろをついて歩きながら、俺は火照って仕方ない顔を冷まそうと必死だった。
懐中電灯ひとつしかないこの暗さなら、赤くなっているであろう顔を隠せる。
けれどうるさい胸の音が柳に聞こえてしまうのではないかと気になって、胸に当てた手のひらに当たったのはたばこの箱だ。
愚痴の言い合いっこ、しましょう。
脳内で勝手に再生された柳の声と笑顔に、指先まで熱くてたまらなくなる。
明日からはたばこに逃げなくても大丈夫な気がした。