時也
まだ生きてたのかお前!
─────1990年4月14日 午後11時59分
月がカーテンの隙間から顔を覗かせている。僕はニヤニヤしながらこちらを見下す月を、ベットに横たわってただじっと見つめている。しばらくすると、その視線に耐えられなくなったのか月はバツが悪そうに隠れてしまった。君もそうやって僕を一人にするのか、と月が隠れている雲をにらむ。けれど、意地悪なお月様はもう出てきてくれない。…また、僕は一人になってしまった。その瞬間、部屋の時計が日付が変わったことを知らせた。その瞬間、僕、時也は7歳の誕生日を迎えた。
◇
僕には両親がいない。父は僕が産まれた日に失踪、行方不明となっていて、母は僕が1歳の誕生日の日に自殺してしまった。いずれも、僕が原因なんだ。
僕は産まれた時から「悪魔の子」と呼ばれていた。その理由は、沢山ありすぎて僕でも分からない。僕の目を見ると呪われてしまい、悪魔の力で死に至らしめられるとか、出逢えば最後、その人やその身近にいる人は突如発狂、失踪・自殺してしまうとか、果ては「死骸の膣から産まれ出た」なんて言われている。当然、そんなことを言われる覚えなどないし、ただ、この世界に産まれただけ。でも、最後はみんな口を揃えて『悪魔の子と関わると必ず不幸になる』と言う。この恨み節だけは百人に百人が決まって言う。…そして、それに関しては僕も嫌というほど理解していた。僕は、いつだって誰かを不幸にしてきた。
1人だけ、五つ上の兄・針也がいるけど、仲がいいとは言えない。…むしろ最悪と言い換えた方が合ってるかもしれない。お兄ちゃんは僕を嫌っている。だって、僕のせいで、家族はバラバラになってしまったのだから。
僕は、お母さんの顔をほとんど覚えていない。ただ、いつも少しだけつらそうな顔をしていた。僕を抱えながら、力ない笑顔を向けて『死にたくなっちゃうね』と、そう言い続けていた事は覚えている。───それだけは、覚えていた。
お母さんは僕が2歳になった時、自殺をした。僕たちが住んでいた小さなアパートの、お父さんのクローゼットの中で、お父さんがよく使っていた赤いネクタイに首を通して死んだ。遺書なんてものはなかったけど、周りの人間はすぐにひとつの予想にたどり着いた。異常な失踪を遂げた父と、その原因とされる「悪魔の子」、つまり僕についてのマスコミや野次馬たちからの批難や罵倒による精神的苦痛、ノイローゼ。いつも蜘蛛の糸の上を渡って歩くように日々を送ってきたお母さんは、僕とお兄ちゃんの二人を残して、自分だけ楽な道に逃げていったのだ。
その後の生活は本当に苦しかった。数少ない親戚の間を、幼い兄弟二人はたらい回しにされる。その理由は単純で、
『気持ち悪い』『気味が悪い』『悪魔の餌食はごめんだ───』
と、どこに行っても口を揃えて僕に吐き捨てる。そうして、ほとんどの家庭には長期間居れず、長くて1年、短くて1ヶ月の期間、まともな人間として扱われないまま今の家に至る。
兄の針也はというと、それはもうひいきされてばかりでいた。
『お兄ちゃんが可哀想』『針也くんはしっかりしてるね』『針也くんは──』『針也くんの方が──』
何度も聞いてきたそんな言葉。いつしか耳には入らなくなった。そして、次第に僕がお兄ちゃんと言葉を交わすことはもなくなっていった。
◇
喉が渇いた。眠くはないけど妙に落ち着かない。あぁまたかと、小さく息を吐きながら体を起こす。ベッドのそばの半開きの窓から入り込んでくる春の夜風が体に巻きついてくる。毛布にくるまっていて、火照った体を冷ますのにちょうどいいはずのそれは、やけに気持ちが悪かった。
ベッドから出る。夜空には月はなく、部屋は窓の外から漏れる街灯でひっそりと照らし出されている。街の郊外、山にほど近いこの家は、夜になると闇がのしかかるように一帯を支配する。今夜は一層暗い。…こんな夜に消えてしまえば、きっと本当にいなくなれるかもしれない。
一際強い風が流れ込む。ビュウウ、と音を立てて一丁前に春の匂いを乗せて飛んでくる。あまりに急な強風で、思わず目を閉じる。立ち込める春の香り、冷たくなる小さな部屋。その部屋の隅で───ひとつ、こちらを見つめて嗤う顔があった。
「───え…?」
閉じてしまった僕の目は、大きく開かれた。暗い部屋の一角、闇に浮かび上がる歪な笑顔。…見てもちっとも嬉しくならない、身の毛もよだつ微笑み。闇に溶け込む黒い躯。スティックのり程の細さの四肢が伸びた、ランドセル一つ分の大きさの体の上に乗っかる、枕一つ分の大きさの意地悪そうな笑い顔。…あれがなんていう名前の生き物なのかなんて知らない。どうしてこんな場所にいるのかも分からない。誰かのように、醜い子どもにも見えるし、人を不幸へと誘う妖精さんとも言える。ただーー、あれは僕にしか視えないものだということは知っている。
穢れた妖精と目が合う。じっ、と僕を見つめている。あれが出てくると、きまって僕は他の誰かから嫌われる。怒られる。気味悪がられる。そんなことにはもう慣れたけど、その人たちの声や視線が怖くて嫌になる。だからアイツのことは嫌いなんだ。目を逸らしたい。けれど、目を背けたらそのそばからどうにかなってしまいそうで怖くなる。
『───ギヒッ!』
それは愉しそうに声を上げ、血走った真っ赤な双眸を、タコ糸のように細くして嗤う。『遊ぼう』と誘うような、無邪気な声を上げてそれは宙に浮いた。だらしなく四肢をぶら下げながら浮遊するそれの姿は、まるで首根っこを捕まれ運ばれる子猫のようだ。
顔だけをこちらに向けたまま、こちらに向かって来る。ゆっくりと、枯れ木のような黒いものが近寄ってくる。
空が晴れる。不意に差し込んだ月光はそれの体を照らし出した。見れば、背中にはコウモリのような、手のひら程度の大きさの羽があり、しかし浮いている割にはほとんど動いていなかった。
僕とそれとの間の距離が縮まる。もう、目と鼻の先にそれは寄ってきた。
…やめて。来ないで。
怖いけど声は出せない。みんなが起きてしまうから。
…怖い。あっちに行って…!
みんなが起きたらまたあの目を向けられる。
…嫌だ。嫌だ。怖い、怖い怖い───!
何が面白いのかそれは笑顔を絶やさない。爪が、伸びる。僕の目玉を目指して伸ばされる。
『…イヒっ!!ギヒィ!アア~~』
焦らすように、恐怖を味わうように。
トウガラシのように長い爪をくるくると目前で回してみせる。知らず、それは片手を僕の頭の後ろに回していた。…もう逃げられないねと、心底愉しそうに笑っている。再び鋭利な爪先が僕の目玉に狙いを定める。もう目を逸らせない。目をつぶりたい。身を背けたい。目を離したい。目はダメだ目を潰させる目を突かれる目を盗られる目を目を目を目を目を───
「うわあああああーーーーーー!」
自分でも驚くくらいの大声で、絶望を叫ぶ。
急な大声で怯んだのか、ギッ、と声を上げてそれは僕から距離をとる。
ーーやってしまった。ずるり、と壁にもたれ掛かり、ハアハアと肩で息をしながら心を鎮める。額には脂汗が浮き、震えで指先に力が入らない。心臓が変なリズムを刻む。…怖かった。焦点が定まらない。
やつは動かない。前と同じ、部屋の隅でこちらをうかがっている。もう嗤っていない、こちらを《敵》と認識したのか、こんな子どもにもまるで警戒心を剥き出しにしている。
『……ッグァ──』
部屋の角、月明かりの手が届かない場所まで後退し、まるで夕飯の支度ができたために遊びを中断せざるを得なかった子どものように、諦めきれないような声を上げて、黒いそれ再び闇へと帰還して行った。
部屋は静かだ。裏山の木々のざわめき、用水路を流れる水のせせらぎ。何も無かった、と言えばそれは現実だ。でも僕は違う。僕の場合、僕の現実は他人にとっては現実じゃない。『またはじまったよ』と、投げられていた匙をさらに遠くに蹴飛ばされる。冷たく、鋭い視線を向けられ、逃げるように僕から離れていく。…僕だって、逃げたいのに。どうして僕にしか視えないのか。冷たい夜風にさらされ、頭と心は平常へと向かう。じっとりと汗が染み込んだTシャツが背中に触れ、感覚を取り戻していく。
◇
あれが視えるようになったのはいつ頃からだろうか。多分、産まれた時から視えていたのだろう。はっきりと像を結んで、さっきのように実像として視え、存在を確認することができるようになったのは、割と最近だ。『アイツの目を見ると不幸になる』なんてことを言われたこともあったが、それはあながち間違いでは無いのかもしれない。僕の目は常に「この世ならざるもの」を映してきた。最近知ったことーー。それはさっきのようなアイツらは人間社会のどこにでも存在していて、ピッタリと人間の背後に付き、その存在を気がつく瞬間を待ちわびているということ。……そう、たった今の僕のように。今はヤツらの正体とか、目的とかそんなことは分からないけど、僕にはそれが視え、ヤツらにも視られていることで、僕は常に、狙われているということだ。
◇
夜が更ける。ーーなんだかひどく疲れた。今の騒動で、隣の部屋で寝ているこの家の家主である夫妻が起きてくる。バタバタと、慌ただしい足音が二つ、僕の部屋の前にやってくる。
「…なあ、これで何度目だ?夜中は頼むから騒ぐなって言ったよな?」
「ほんともういい加減にしてよ!なんだってこっちが気を遣わなきゃいけないの!?病院に連れていったってまるで正常だなんて言われるし、こっちがおかしくなるわ!!」
…そんな、逃げ場のない怒り混じりの質問がドア越しに飛んでくる。頭蓋に響く野太い怒号と甲高い金切り声。……もうドアを開けて話してもくれないんだ。
耳を塞いだ。目をつぶった。窓を閉めて毛布にくるまった。いつもならこうしていれば朝が来るんだ。朝が来ればアイツらは消えるし、僕だけ少ないけど朝ごはんが貰える。そうしたらまた眠れる。そうやって耐えてきたんだ。これからもきっとそうだ。今日だって、いつもと同じで─────
「明日、少年院の人たちが来る。あいつには悪いけど、うちじゃもう面倒は見きれない。半年間もここに居たんだ、そろそろ次に行った方が、お前にとっても良いだろ?」
ずっと大きく心臓が跳ねる。こんなにも塞いでいるのに、まるで魔法のように僕の耳に届いた。
「…ええ。他所に比べて短いかもしれないけど、お互いにとって、そのほうがいいに決まってる。悪いけど、あんたのせいでこっちが異常者扱いされるのなんてもう嫌なの」
「おい聞こえてるか!!朝10時には施設の人が迎えに来るから準備しとけよ!!!」
そうドア越しでうずくまる僕に向かって吐き捨て、二人は自室に向かっていった。「この期に及んで返事もしないなんて――」という声が聞こえなくなるまでに、たいして時間はかからなかった。
夜は更ける。脳みそはグルグル動いてる。目玉はどこも映してくれない。頭が痛い。呼吸が早まり汗が吹き出す。わかっていた。いつかこうなると知っていた。でもそれを無視してた。気付かないフリしていた。分かりきっていた。考えるふりだけして、でも知っている結末が目の前を真っ暗にする。
何度目だろうか。
明日僕はーー
この家を追い出されるんだ。
続いていきます!