旅の醍醐味
翌朝。鳥の鳴き声で目が覚めた私は毛布を抜け出し、外の空気を吸いに出た。ちらりとルーアに視線をやったところ呑気な顔をしてぐっすり寝ていた。人の気も知らないで、そんなことを思いながら天幕の間を縫って歩いていると何やら人の話す声がする。
『もし、なにを、している?』
『おはよう!今から朝食の準備をするの。お姉さんも暇なら手伝ってよ』
『駄目だよ、ナギ。こちらのお人は体が弱いんだと。旦那さんに心配かけさすんじゃない』
昨日のおませな女の子だ。ナギ、というのか。それにしても昨日ほっとかれたのは私が体が弱い設定になっているからだったのか。彼女たち同様に動けるとは思わないけれど、だいぶ旅を通して体力はついてきたと思う。ルーアにだけ色々させるのもなんだし、ここは一つお手伝いをさせてもらおう。
『ワタシ、元気。手伝う、たい!なにする?』
ぐっと拳を作るとナギが嬉しそうに手を引いて調理場へ連れて行ってくれた。ここにある食材を洗って切るらしい。包丁に触れるのは生まれて初めてで恐怖心がないこともなかったが、トントンとリズムよく音を立てるナギの真似をしているとそれっぽく出来た。大きな鍋に水と切った食材を入れて、手際よく火をつけたナギにしばらくかき混ぜながら様子を見て欲しいと言いつけられ、ときおり大きな木のスプーンでぐるぐると混ぜながら次第に良い匂いを漂わせ始めた鍋を見ていると息を切らしたルーアに腕を掴まれた。
「あんた、何して」
「見ればわかるでしょう、お料理してるのよ」
意外と才能があるかもしれないわ、と汗をぬぐいながら話すとルーアはずるずると地べたにしゃがみこんでしまった。
「ちょっと、大丈夫?」
「ええ、はい……お願いだから、黙ってどこかに行かないでください。あんたがいなくてどれだけ肝が冷えた思いがしたか」
「それはあなたが爆睡してたのが悪いんじゃない。朝も弱くて夜も弱い旦那様?」
薄っすら昨日の記憶があるのかばっと顔をそらしたルーアに生暖かい視線を送っていると、手に小さな壺を持ったナギが戻ってきた。
『朝から見せつけてくれるわねェ。さ、味付けするから手伝ってよ』
壺を手渡され、何だろうとのぞき込むと茶色のどろどろとしたものが入っている。え、まさかこれを鍋の中に入れるのだろうか。ルーアに目で訴えるとこくりと頷かれた。どうしてそんなに平然としているのか!こんな、なんというかとても口に入れていいと思えない物体を前にしてさっきより落ち着いた顔をしているルーアはどうかしている。
「ねえねえルーア、これ、何、食べて大丈夫なの」
「ただの調味料です。原材料は豆かなんかだったかと。発酵食品ですよ、あんたらも食べるでしょう、チーズとか」
そちらのほうがぞっとしますけどね、と呟くルーアに木のスプーンを押し付け、ナギによってどぼどぼと茶色い物体が鍋の中に投入されている様子を見ていると、だんだんと美味しそうな匂いがしてきた。まさか、あの物体からこんなに香しい匂いがするなんて。
中身をお椀に移したナギに味見してみてよ、と手渡され、恐る恐る口をつけると見た目からは予想もつかない優しい味わいに感動してうっかり舌をやけどしてしまった。
『こ、これ、美味しい!すごい、なんで』
『秘伝の調合で作ってるからね!喜んでもらえて良かった。さ、みんなのところに持って行ってよ。旦那さんもよろしく』
気づけば天幕はほとんどが折りたたまれていて、人々が思い思いに輪を作って座っている。溢さないように運んでいくと、みんな感謝の言葉を口にして受け取ってくれて、今まで自分で食事を作った経験なんてなかった私には本当に貴重な体験だった。
少し硬くなり始めたパンと、簡単な野菜炒めと汁物が並ぶ、言ってしまえば素朴な食事だが、その過程を知るととても貴重なものに思えた。みんなと同じように手を合わせて、ルーアとナギと会話を楽しみながら食べる朝ごはんはあっという間だった。
商団の人々と寝食を共にするようになって一週間。目の前にそびえる高い山についてルーアに聞いたところ、あれの向こう側に果ての国が広がっているのだという。
「な、長かったわ……ところで、どうやって果ての国に入るつもり?」
「当然あの山を越えます。それが、俺たちにとって一番安全なので」
商団の人たちとはここでお別れです、とあっさり告げられ、あの最初に話しかけてくれた女性やナギとの別れを惜しむ間もなく、再びルーアとの二人旅に戻ってしまった。
「みんな随分とドライと言うか、そういうものなの?」
段々と小さくなっていくみんなの姿を見送りながら尋ねるとルーアはまあ、と頷いて山の方へ歩き出していく。
「国民性ですかね。縁があればまた会うだろう、という考えがあるんです」
「ふうん。なんだか素敵ね、そういうの。私もまた会えるかしら」
「きっと。言っていましたよ、あんたみたいな人がいるなら今度はアルトレッタに行商に行くのも悪くないと」
「本当!?じゃあ是非私の家に寄って欲しいわ。お父様も喜ぶでしょうね」
きっと叶わない妄想だ。わかっているけれど、みんなと父と食卓を囲む風景を考えるだけで心が温かくなり、涙腺が緩みそうになる。
「では俺もあんたの旦那役として雇ってもらわないといけませんね」
いつもどおりの眠そうな顔でルーアが冗談かわからないことを口にする。まあ冗談だろうとルーアの軽口に乗ることにして、泣きそうな顔を隠した。
「ええ、お給料は弾むわよ。ふふ、本当になったらいいのに」
「必ず実現します。その為にもお父上に会わないと。さあ、行きましょう」
そう言って差し出された手に驚いてルーアの顔を見上げると彼の耳はほんのりと赤い。ああ、励ましてくれているのか。彼の優しさを素直に受け取ることにして、私たちは険しい山道を登り始めた。
山を越えると言っても別に頂点を通るという訳でもないらしく、その日は山の中腹にある宿に泊まることになった。
「ええ、あと一室しかないの」
「元々宿が少ない場所で、しかもこの時期はご来光を拝むために山登りに来る人が多いんだそうで。あんたの部屋はとれたし、俺はそこらへんで適当に―――」
「いいわ、同じ部屋で。というか今更でしょう、私たち昨日まで同じ天幕で寝てたのだし」
あの後、二人で一つの天幕を借りるのは申し訳ないから他の人と同じところで良いと言ったのだが、遠慮しなくていいとにこやかな商団のみんなに押し切られて結局ルーアと二人で寝泊まりすることになってしまったのだ。本来なら未婚の男女が同じ空間で寝泊まりするなんて卒倒ものだが、旅を続けるうちに図太くなった神経は全く動じることなく、着替え中は出て行ってもらったり仕切りを置いたりすることで随分快適に過ごせるようになった。もう自分が普通の令嬢に戻れるか怪しい。
「それはそうですが……部屋の広さなども昨日までとは違いますし」
「もう、めんどくさいわね!『ご主人、私たち、二人で泊まりたい。大丈夫?』」
『勿論だとも。ああ、夫婦かあんたら。ったく甲斐性のない旦那だなぁ。大変だろう、これ持ってきな』
宿屋の大将から手渡された小瓶を眺めているとルーアの手がひょいと伸びてきて奪われてしまった。顔を茹で蛸のように真っ赤にしたルーアに大将がにやにやと何か言っていて、尋ねても教えてくれない。結局突き返したらしいルーアに手を引かれ、大将から『仲良くなァ』と声を掛けられながら部屋に入ると予想はしていたが狭い。しかしベッドは大人二人寝転べそうな広さで良かったわね、とルーアを見るとげんなりとした顔をしていた。
もしかして遠慮などではなく普通に私と同じ部屋が嫌だったのだろうか。今更ではあるが謝っておくと、「別にあんたが悪いわけじゃない」と言いながらも不機嫌そうなルーアにお湯を使ってくると良いと部屋を追い出されてしまった。とりあえず、お言葉に甘えて久しぶりにたっぷり湯を張った浴槽につかることにした。
お風呂から上がって、なんだか部屋に戻る気にならなくてロビーでぼんやりとしているとさっきの大将がコップ片手にやって来た。
『さっきはすまんことしたな。旦那と喧嘩しちまったか?』
詫びだ、としゅわしゅわした液体の入ったコップを差し出され、有難く受け取ることにする。口の中に入れるとぱちぱちとはじけてほんのりと甘い。果汁でも入っているのだろうか。あとでルーアに何という飲み物か聞いてみよう。
『そんなことない、ます。そういえば、アレ、何だったです』
『あ~……ここだけの話だぜ。その、男が元気になるアレだ』
ははぁ。それなりに社交界でゴシップを聞きかじっていた私はなんとなく理解した。そりゃあ初心なルーアはあんな反応を返したわけだ。それにしてもこの飲み物美味しいな。大将の話に相槌を打ちながらちびちび口をつけていると、いつの間にかコップの中身は空っぽで、なんだか頭がくらくらしてきた。
『ありゃ、奥さん。もしかして酒弱かったか?』
『……?そんなこと、ない、思うけど』
夜会などで出されるワインやシャンパンは全然いける口だ。旅の疲れで酔いが早く回ってしまったのかもしれない。段々と重くなる瞼を閉じる寸前、見慣れた漆黒が視界に映った気がした。
ふわふわする。夢の中だろうか。多分そうだ。だってルーアが今まで見たことないくらい至近距離にいるんだもの。こちらをのぞき込むルーアは照明のおかげか色っぽい。
「あんた、無防備にもほどがあるでしょう……もし宿屋の主人が悪人だったらどうするんです」
ルーアのひんやりとした指が私の前髪に触れる。火照った体にはそれが心地よくて、もっと、とすりよると固まってしまったのでガシ、と掴んでほっぺたに乗せた。うん、気持ちいい。
「だいじょおぶよぉ、ルーアが助けに来てくれるでしょお」
まるで王子様みたく!なんてね、ルーアは王子様なんてガラじゃないか。楽しくてけらけら笑っていると突然視界が暗くなった。ああ、ルーアが覆い被さってるのか。え、なんで。
「俺が、悪人だとは思わないんですか。ほら、俺が今あんたを襲ったって誰も助けには来ない」
「ふふふ、面白いこと言うわねぇ、ルーア。あなたがそういう人なら私はこんなとこまで来れてないわよぉ」
それに、ほんのちょっぴりだけど、あなたになら構わないなんて。まあ絶対に言わないけれど。覆いかぶさるルーアの肘にチョップをかますと呆気なく私の上に崩れ落ちた。
目と鼻の先に何が起きたか理解していない間抜けなルーアの顔が迫り、両手でぎゅうと頬を押しつぶしてやった。不細工でかわいい。
「大したことないじゃない。もお寝ましょう、なんだか疲れたわ……」
あれ、もう寝てるんだっけ。どちらでもいいや、私は胸の上で固まったままの邪魔な重しをごろりと横に転がした。なんだか変な夢だったな、そんなことを思いながら私の意識は再び闇に溶けていく。
「ああ、本当にどうしてくれるんだあんたは……」
遠くでルーアの声が聞こえた、気がした。