旅路は続くよ 後編
『可愛らしい奥さんだねェ、よくここまで二人できたもんだ。私らに出来ることがあったら言っておくれよ』
挨拶に伺うと、恰幅の良い女性が話しかけてきた。なんとなくしかわからないけれど悪い印象を持たれまいと笑うことに専念することにする。内容は後でルーアに聞けばいいのだし。
『ありがとうございます。そうだ、衣類を取り扱っているとお聞きしたのですが、妻のために何か見繕って頂けないでしょうか』
『勿論!こっちにおいで』
女性が私に向かって手招きをしている。ルーアを見ると、「服を新調するのでついて行ってください」と言われた。そんなにみっともない格好ではないと思うのだが、何か考えがあってのことだろうし言われた通り女性の後を着いていく。
天幕の中に入るとそこかしこに色とりどりの布が積まれていた。呆ける私を他所に、女性は私とそう変わらない年代の女の子たちを連れてきていくつか布を持たせると、次々と私の体に当てさせては何やら指示を出している。あまりの目まぐるしさに目を回している間に、私の着ていた洋服は脱がされて代わりに女性たちと似たような恰好になっていた。布のような衣は何枚も重ねられて胸のすぐ下で太い帯で締められていて、少し息苦しいが背筋が伸びる感じがする。見ている限りそんな風には思えなかったのだが、身に着けるととても滑らかで肌馴染みの良い生地が使用されていることがわかる。女性が選んでくれた、淡い藤色の布地に見慣れない白い花がいくつも浮かんだ衣に見とれていると、姿見の前に手を引いて誘導された。その前に置かれた椅子を指さして『座ってちょうだい』と言っているのはなんとか聞き取れたので、頷いて座ろうとしたが着慣れたドレスと違い一歩の感覚が取り辛く尻餅をつく形で座る羽目になってしまった。
女性は少し驚いた顔をしていたけれど、私の後ろに回ると手際よく髪を結ってくれた。こんなに高い位置で纏めたことがなかったので頭の重心が取れずふらふらしていると、何か声をかけて女性は天幕の外へ出て行ってしまった。
私も外に出ていくべきかわからず座ったままでいると、こちらも着替えたらしいルーアが天幕に入ってきた。上は私と同じ形の群青色の衣だったけれど、下はスカートに切れ目の入ったような不思議な衣装で、これはハカマというズボンの役目を果たすものらしい。特に西部の人間が好んで着るため、現地の人から浮かないようにこれから先はこの服を着て果ての国を目指すという。ようやく合点のいった私は素直にこの状況を楽しむことにして、勢いよく立ち上がった。すっかり頭から抜けていたが、この衣装は一歩がいつもより小さくなってしまうのだった。私はルーアにダイブする形となり、彼の体が意外と逞しいことを思いがけず知ることとなった。
「ごめんなさい……その、ね、まだ慣れなくて」
「仕方ありません。だいぶ服の感じが違うでしょう。きつくありませんか」
しっかりと抱き留められ、すとんと下ろされた私を見下ろす形になったルーアはいつもと違い後ろで髪を一つにを束ねているようだった。まるで尻尾だわ、そんなことを考えているとひょいと先ほどの女性が入り口から顔をのぞかせた。
『お兄さん、簪はいいのかい?』
女性が手に持つ箱にはぎっしりと煌びやかな飾りのついた髪飾りが並べられている。しかし中心に飾られた宝石は全て真っ黒で、私の視線にルーアは少し照れたように説明してくれた。
「……既婚女性は相手の瞳と同じ色の宝石を身に纏うという伝統があって、気を利かせたのでしょう。俺たちには必要ないものだ」
「どうして?いいじゃない、私たちは夫婦ということになっているのだし。何か問題でもあるの」
もしかして見られて困る相手を地元に残して来たとか、と尋ねるとルーアはそうではないが、と首を振った。
「そちらで言う結婚指輪のようなものなので、あんたが気にするかと思って」
「全然!そうだ、折角だし選んで頂戴よ」
どうせあの男からは金に物言わせただけのつまらない石ころをもらうことになるのだろう。その前に旅の思い出として形に残るものがあっても良いと思った。ためらっている様子のルーアだったが、私が引かないことを悟ってか女性の元へ行くと箱を指さしながら話を始めた。
こちらに聞きとらせないためか北部の、私にとっては聞きなれない言葉で会話する二人から視線を外し、もう一度姿見の前に座りなおして待つことにする。
それにしてもルーアの語学力には舌を巻く。少なくとも三つの言葉を操れるようだが、それだけではないのだろう。やる気のなさそうな雰囲気を醸し出しているからかそんな風に見えないが、相当優秀なのではないだろうか。
大分時間をかけて決めたらしいルーアが髪飾りを手にこちらにやってくるのが鏡越しに見え、「目を閉じて」と言われたのでそのとおりにすると後頭部にルーアの手が触れた。なんだか恥ずかしいけれど自分が言い出したことなのだし、とにやけそうな顔を抑えて顰め面を作っているとゆっくりとルーアの気配が離れていく。目を開けると、お団子の横から薄紫の花細工が覗いていた。全貌が見えない私のためにルーアが後ろから手鏡で髪飾りを映してくれ、ようやく髪飾りを見ることが出来た。
纏め上げられた髪の中心を貫く銀色の棒のようなものの先端には、ルーアの瞳そっくりの宝石が銀細工に縁どられて鎮座している。そこから垂れる鈴と薄紫の花細工は、その武骨さを和らげ女性らしさを加えていて率直に私の好みだった。
「素敵……ありがとう、ルーア!」
あとでお金は払うわ、と小さく言うと、ルーアにはそんなところ見られたら甲斐性なしだと笑われるから勘弁してくれ、とやんわりと断られてしまった。申し訳なく思っているとそれよりも、と真剣な色を瞳に浮かべたルーアが髪飾りに触れた。
「お父様はやはり都にいらっしゃるそうです。そして、先日破落戸をけしかけてきたのはイーヴェル・ラグドニル―――あんたの婚約者、ですね?」
耳元で囁かれた名前にどきりとした。もう潮時かもしれない。自分一人で抱え込めるような話ではなかったのだ。ルーアなら、受け止めてくれるのではないか。そんな思いが頭をよぎるが、これを話したら本格的にルーアを巻き込むことになる。もしもすべてを知った彼に見捨てられたら私はどうすればいいのか。たとえルーアが旅を続ける選択をしたとして、彼が事情を知っていることをあの男に知られたら、どんな目にあわされるか想像に難くない。思わず目をそらした私の頬にルーアの冷えた手が添えられ、上を向かされた私はじいとこちらを見る底なし沼のような闇に引きずり込まれそうになる。
「俺は引き受けた仕事を途中で放り投げたりはしない。出来るだけ、不確実な要素は減らしたいんです。どうか話してくれないか」
ここまで言われて強情に跳ね除けられるような性格をしていない。私は小さく頷き、いつかのようにルーアの瞳をしっかりと見つめ返した。
ふ、と表情を緩めたルーアは「今夜伺います」と言って懐から取り出した小さな袋を女性に渡して天幕を出て行ってしまった。私たちのやり取りをどう勘違いしたのか、女性からの生暖かい視線を感じながら私も他の人の元に合流する。
ルーアは同行する対価として自らを労働力として差し出したようで、荷物を馬車に積む手伝いをしていた。私はというとルーアが何と言ったのかはわからないが特に何もすることなく、出発前で暇なのか時たまやってくる子どもたちの相手をするくらいだった。
昼前に一行は町を出て、女の人たちとぎこちないながら他愛のない話をしてのんびりと山道を歩いていると、開けた場所に出た。どうやら今日はここで寝泊まりをするらしい。ルーアは他の男性に交じって天幕を張っている。私も何か手伝うべきかと周りを見回していると、少女にバケツを手渡され、ついてくるようにとジェスチャーされた。少女の後をついていくと、流れの緩やかな小川に出た。水を汲むためにきたのか、と納得した私は見様見真似でバケツを川の中につっこむ。
『ねェ、どうしてあの人と結婚しようと思ったの』
少女の言葉に私はバケツを取り落としかけ、なんとか川に流されるのは阻止したが中身はすっからかんでもう一度汲みなおさなければならなかった。
『どうしてって……?』
『外のヒトはアタシたちとは必要以上関わろうとしないし、他所からお嫁さんを連れてくるなんて珍しいもの』
瞳を輝かせる少女に、別に嫁ぎに来たわけでもないし、そもそもルーアとは偽装夫婦なのだ、などとはとても言えず私は後で口裏を合わせてもらう必要があるなと思いながら適当にでっち上げた。
『彼がエストラ・リメディラード人、わかったの結婚した後。えっと、少し、驚いた。でも、そんなの関係ないでしょ、その人……愛するのに』
ううん、恥ずかしい。少女はきゃあと頬に手を当てていて、楽しそうでなによりだ。火照る顔をぱたぱたと仰いでいると草陰からルーアが現れた。どうやら私のことを探しに来たらしい。何と説明するか悩んでいると、ルーアに向かって少女が早口でまくし立てていて、きっとさっきのことを言われているんだろうなぁと遠い目をしていると顔を真っ赤にしたルーアがこちらを凝視してくる。口パクで合わせろ、と言うと頼もしい相方は理解したようで更に少女が興奮するような何かを口にしたようだ。少女の声にならない叫びを背景にもうどうにでもなってしまえ、と憎たらしいまでに穏やかな川の流れを睨みつける私であった。
さて、その晩。ルーアが少女に余計な情報を与えたせいか、二人きりで天幕に押し込められた私たちは向かい合う形で座っていた。
「そういえば初めてね、同じ部屋に泊まるのは」
ふむ、と顎に手を当てふざける私にルーアは不満たっぷりといった顔でガシガシと頭を掻いた。
「そうですね!ったくあんたが変なこと言わなけりゃこんなことには……」
「なによあなただってノリノリで話してたくせに。そうだ、なんて言ったのよ」
「別に、普段素直になってくれないからこういう機会に本心を聞けて嬉しく思う、って言っただけです。それっぽいでしょう」
「そりゃあきゃあきゃあ言うわ……咄嗟にそれが出てくるあたり、あなたさぞモテたんじゃないの」
「それが全く。って、そんな話はどうでも良いんです。さあ、洗いざらい話してください」
話をそらしてこのまま就寝に持ち込めないかという私の浅はかな考えはお見通しだったようだ。私はぽつりぽつりと、あの日のことを話し始めた。
歓楽街でも奥まった路地に足を向ける二人の後をつけていた私は、路地裏で顔を近づけて何かごそごそとし始めたのに気がついて踵を返そうとした。流石に婚約者のそういうところを見る趣味はないし、止める気も起きなかったからだ。運悪く一人でいた時に見かけて単身追ってきてしまったせいで証人が作れなくて残念だ、なんて思っていたその時だった。女の赤い唇から信じがたい言葉を聞いたのは。
「ねえイーヴ、本当に私を伯爵夫人にしてくれるのよね」
どういうことだ。伯爵夫人?私ではなく彼女があの男と結婚するのは構わないが、ラグドニル家の爵位は既に彼の兄が継いだのではないか。
「勿論さ。あの女は籍を入れたら面倒な伯爵共々始末するよ。夫人は扱いやすいから残してやってもいいけど……ああ、こんなところではなくちゃんと君を感じたいな」
「やだぁ、イーヴったら」
こちらにやってきそうな二人から背を向けて、私は先ほどの言葉を反芻しながらひた走った。あの男は、何と言った。私と、父を殺す?そんな、恐ろしい話本当に実行できるのだろうか。いや、あの男ならやりかねない。どんな杜撰な策だろうと母を味方につけていればどうにかなってしまうのだろう。母は良くも悪くも貴族だ。醜聞を隠ぺいするためなら、多少の違和感には目を瞑るだろうし、父を好いていないようだから協力することだって考えられる。
仕事柄いつも危険と隣り合わせの父は事故を装って殺害することが可能だろうし、身を守る術を持たない私なんて毒でも盛られれば一発だ。
死にたくない。でも、どうすれば?夕食も取らず頭を働かせ続けた私は、結果自分でも驚く方向に突き切って家を飛び出し、ルーアに出会った。
全てを話した後、ルーアの反応はどうだろうと彼の顔を見ると眉根を寄せて苦しそうな表情をしていた。どうしてそんな表情をしているのか、と尋ねたところ彼は肺の空気を全て吐き出してしまうのではないだろうかというほど深いため息をついて、目をくわっとかっぴらく。
「言いたいことは色々ありますが、決めました。俺はどんな手を使ってでもあんたを父親の元へ送り届けます。だいたい何なんですか、あんたの婚約者は!自分勝手にも程がある」
何が彼の気に障ったのかわからないが、珍しく怒っているようで普段丁寧な言葉が紡がれる口からは罵詈雑言が留まることを知らない。なぜか私が宥める側へと回ることになり、気づけば夜もだいぶん更けてきていた。
「……だから、俺が、けちょんけちょんにしてやるので、あんたはなんっの心配もしなくていいんれすよ」
ほとんど目を瞑っているのに意識はあるようで、さっきから似たようなことばかり言っている。私のことにここまで怒ってくれるのは嬉しいのだが、まさか彼にこんな感情的な一面があるとは知らず、どう扱えばいいのかわからない。
「うん、ありがとうルーア。わかったから、わかったからもう寝ましょう?」
「はい、寝ます……おやすみなさい」
元々限界だったようでその言葉の直後、ルーアはがくりと落ちた。薄いけれど敷物の上だし、毛布を掛けてやれば冷えることもないだろうと隅に置いてあった寝具を漁るが毛布は一枚しかない。しかもよく見たらその他も一点ずつだった。新婚夫婦、だから気を利かせたのだろうか。私は枕と毛布だけ借りることにして、ルーアがギリギリ入るくらいに毛布を掛けてやって背中合わせになるように寝転んだ。大判のものだったからある程度の距離は確保できたけれど、言ってしまえば男性と同衾しているわけだ。そのことを意識しないよう、さっさと寝てしまおうと目を瞑るがそういう時に限って眠気は来ない。ゆっくり頭を動かすと、寝息を立てるルーアの横顔はいつも覆い被さっている前髪が上手く左右に落ちていてやはり整っているのがわかってしまう。
ああ、嫌だな。ルーアと旅を始めてもうすぐ三週間。知り合ってたったそれだけしか経っていないなのに、私の心は不毛な思いを叫んでいる。彼のどこに惹かれたかは上手く説明できないけれど、眠たげな瞳も、意外と繊細なところも、軽口に付き合ってくれるところも、彼の全てが愛おしいと思ってしまうのだ。
自分と父の命を守るために旅をしている最中で、彼はただ報酬のために同行しているとわかっているのに、なんて身勝手で厄介な思いだろう。そもそも、貴族を嫌いだと明言している彼に貴族をやめることなんて出来ない私には勝算なんてこれっぽちもない。こんなどうしようもない思いは捨ててしまわないと、そう思うのに簪を贈られた時も、私のために怒ってくれた時も勝手に嬉しくなってしまう自分にはつくづく嫌気がさす。
ルーアの話だとあと十日もすれば都に入れるのだそうだ。それまで私の思いが暴走してくれないといいのだが。しかし、先ほどの怒り疲れて寝てしまうなんてまるで子どものようなルーアを見ても全く冷めず、むしろかわいいと思ってしまった私はかなり末期だと思う。
埒が明かない、と頭を振って再び背を向けた私は、後ろでもぞりと動く気配には当然気づくこともなかった。
「まだ見つからないのか!」
バン、と拳で机を殴りつけた男は苛立ちに任せて椅子を蹴り飛ばす。その音にびくりと肩を震わせた使用人は頭を下げたまま状況を報告した。
「港に残した者からは何も便りがありません。陸路を向かわせた者からは、リーデルの町で青い髪の女を見かけたが逃げられてしまったという報告が上がっています。もしもご本人だったなら、今はかなり果ての国に近づいているのではないでしょうか」
「使えんな……明日には果ての国に着く。必ず、あの女を捕まえてやる。すぐに出れるように手配しておけ」
男の言葉に深々と礼をした使用人は音もたてず船室を出ていった。一人残された男―――イーヴェル・ラグドニルは形の良い唇をぎり、と噛み締めると虚空を忌々しそうに睨みつける。
「手間をかけさせおって、厄介な女だ。しかしまあ、婚姻が早まったことには感謝しなければな。せいぜい残り少ない人生を楽しむがいいさ」
ははは、と血のように赤いワインを傾け愉快そうに笑う男を乗せた船は、闇夜に紛れてエストラ・リメディラードの港に入ろうとしていた。