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18 死の衣

 広い空間に踏み出せば、胸の魔法陣が痛む。

 もともと死神が書き記した魔導書は、人間と悪魔が戦っていた時代に書かれており、俺の魔法陣は、対峙するデーモンの存在に呼応しているようだ。

 強力な古代魔法だが、周囲にいる者であれば、術者さえ巻き込みかねない禁術である。

 使わずに済むとも思えないが、スワロフを巻き込むのだけは避けたかった。

 しかしデーモンの前に立てば、赤黒い巨体に圧倒されるし、武器を手にした訪問者にも動じる様子がない。

 まともにやりあえば、鋭い爪で瞬殺されるか、攻撃魔法で粉微塵されそうだ。


「カールさん、どうします?」

「悪魔が人語を解する亜人だったのなら、こちらの説得に応じるかもしれないぜ」

「それは無理だよ」

「どうして?」

「ボクが来たのは二度目だけど、アイツは人の話に耳を貸さなかったよ」

「結果は?」

「選りすぐりの強者が十名、生きているのはボクだけ」

「それなのに今回は、俺と二人きりで来ようと思ったのか」

「カールさんの強さは、ちゃんと確かめたよ。カールさんは、ボクの知る誰よりも強かった」


 前髪ぱっつんのスワロフが、神様でも拝むように手を合わせて、俺に憧れの眼差しを向けている。


「そういうの弱いから、キラキラした目で見るな」


 俺の背後でマサカリを身構えるスワロフの言うとおり、人類に敵意のある悪魔は、言葉が通じても話が通じる相手とは限らなかった。

 だからと言って、いきなり飛び掛かっても勝てる気がしない。


「もしかして現代語が通じなかった可能性も――」

「いいや、人間の言葉は理解している。それに、ここがドワーフの作った街の最下層だとわかっている」


 俺とスワロフが空間に立ち入っても無反応だったデーモンだが、態度を決めきれないことに持て余した様子で、立ち上がり黒いマントを翻した。

 勝てない相手ならば、機嫌を損ねないように交渉の手段を探るしかない。


「言葉が通じるなら、ドワーフの坑道にモンスターを連れ込まないでくれ。人間を襲わなければ、俺が外で暮らせるように交渉してやるぜ」

「封印を破り、ここを出ていくのは容易いが、ドワーフの街を頂くには、まだ兵隊の数が足りなくてね」

「ダンジョン出入口の小競り合いは時間稼ぎで、手駒が揃えば鉱山都市を占拠するつもりか」

「そうだよ人間、我は要塞のような岩山の街が気に入っている。ここを魔王城として、各地に封印された仲間を再結集した暁には、我らを地中深くに追いやった人間と戦争する」

「人間と悪魔、戦うのが宿命か」


 俺は左腕の魔法陣に指先を当てる。

 剣を抜いてモンスターを斬り裂いた俺は、魔導書に書かれた理を疑わなかった。

 剣も魔法も、俺の責任で使えば良い。

 術者が人を傷付けた責任まで、魔導書の執筆者が背負う必要がなければ、まして押し付けるなんて言語道断である。

 左腕に風の盾を出現させた俺は、同じように右腕の魔法陣に指先を添えた。


「我は剣を極めし者が書き示した理を解する者、斬り裂け剣の舞!」


 風の盾、剣の舞、両腕に魔法をかけた俺が、長剣を下段に構えると、デーモンは腰を屈めて手のひらを地面に当てた。


「人間は、我が結界の内側で、どうやって兵隊を増やしていると考えている」

「横穴でもあるのか?」


 いいや、モンスターの出入りできる横穴があるなら、結界は無意味だ。

 俺とスワロフがダンジョンに潜った横穴だって、普段は護符により封印されている。

 しかしデーモンのはったりでなければ、そもそも封印を容易く破れるらしい。


「我は、土塊に死んだモンスターを反魂させている。一気に数が増やせないのは、復活した兵隊に分け与える我の生気が、まだ本調子ではないためだ。もう半月もすれば、それでも千体を超える兵隊が揃う」


 デーモンが地面に当てていた手で、土を摘むように引き上げると、摘み上げられた土塊が人型になる。


「なるほど、反魂したモンスターと戦わせる気だな」

「違うぞ人間、悪魔は本来、魂と引き替えに人間の願いを叶えてやるものだ。お前の魂と引き替えに、最も再会を望む死者を一人だけ生き返してやろう」

「俺の魂と引き替えに、再会を望む死者が生き返るだと――」

「カールさんっ、心にも思っては駄目だよ! 蘇生した死者が生き続けるには、カールさんの命が削られる」

「スワロフ、どういう意味だ」

「ボクは怖くなって引き返したけど、一緒に来た強者は、蘇生した死者を連れ帰った翌日に死んだよ。アイツは、彼の恋人を蘇生したんだ」


 デーモンが念を込めた土塊は、足元から徐々に人間を形作った。

 俺に恋人がいなければ、亡くした近親者もいない。

 殺めてしまったセオへの後悔も消えていれば、顔が思い浮かぶのは一人しかいなかった。

 束の間の再会、この場を借りるならば――


「ふはははッ、人間は、亡くしてしまった大切な人と再会すれば、二度と元の土塊には戻せない! お前が再会を望む愛しい人は、女か? 両親か? いったい誰の復活を望んだ――、って、若い男?」


 俺の再会を望んだ相手に意表を突かれたデーモンは、高笑いを止めると、メガネのノッチを指先で押し上げたカイルを凝視している。


「自らの命が削られると知ってなお、若い男との再会を望むのとは……。ホモなのか」

「俺は他人の同性愛に寛容だが、自分の同性愛疑惑には不寛容だぜ」

「まあ、どうでも良い。人間は、メガネ人間を連れて、短い余生を語り明かせば良かろう」


 復活したカイルは、振り返ってデーモンを見据えているが、自分が置かれた状況を把握しているのだろうか。

 スワロフはカイルから距離を取れば助かると考えて、『メガネを置いて逃げよう!』と、広い空間から坑道に戻って騒いでいた。

 現状を把握したドワーフの少女がリリンのところに戻れば、対策を講じた兵団が鉱山都市に駆けつけてくる。

 だから俺が犠牲になっても、彼女だけは逃がすつもりだったので、坑道まで逃げてくれるなら手間が省けた。


「スワロフは、上の連中に状況を知らせろ」

「カールさんは、どうする?」


 俺は黙ったまま、爆炎魔法の魔法陣が描かれたスクロールを天井に放り投げて、坑道を行き来できないように落石で塞いだ。


「カール、なぜ絞首刑になった僕が生きている?」

「カイルの後ろにいる赤い悪魔が、俺の命と引き換えに願いを叶えてくれたらしいぜ」

「では僕は、やはり一度死んでいるんだね。それをモンスターが、カールの命と引き換えに復活してくれた。カールが自己犠牲で、わざわざ僕を蘇生させるなんて」

「仮初の命だから感謝はいらない」

「見下された気分だよ」

「そう見えたなら、たぶん言い訳しても無駄なんたろう。だがな、俺はカイルを侮ったことはない」


 デーモンは椅子に肘掛けて、俺とカイルの会話に耳を傾けている。

 静観を決め込む悪魔は、生者と死者の再会を見ることが退屈凌ぎなのだろう。


「カールに恵んでもらった命で、生き恥を晒すくらいなら、友人として罪人の僕を斬り捨ててくれ。頼むよカール、僕を斬ってくれ」


 カイルは腰に手を置いて項垂れると、あのときと同じように『僕を斬れ』と迫ってくる。

 俺の友人は、やはり侮れない男だ。

 あのときも斬れと懇願していた彼は、近付く俺を返り討ちにしようと、頭を下げるふりで前傾に急所を隠して、すぐに反撃できるよう態勢を整えている。

 俺の発した一瞬の殺気に反応して、手負いになっても返り討ちを企む機転の速さ。

 あのまま執務室で剣を抜いていれば、憲兵隊長に斬り掛かった重罪人として、絞首刑に送られたのは俺だったかもしれない。


「今回は、遠慮なく斬らせてもらうぜ。ただしカイル、騙し討ちはなしで正々堂々と決着をつけよう」

「カールから、その言葉が聞けるとはね。僕が死んだ後、どんな心境の変化があったんだい?」

「女の子に、手合わせしたことのないカイルより、自分が強いなんて思い上がりだと指摘された。本当のところ、お前には負けたくないので試合から逃げていた気がする」

「優劣をはっきりさせるために、僕を蘇生したのか。心残りが同じとは、お互い負けん気が強いね」

「構えろカイルッ、行くぜ!」


 カイルは正面に向いて抜剣すると、下段に長剣を構える俺を見据えた。

 剣技を繰り出す速度は、剣の舞を発動している俺が勝っているものの、彼の切っ先は風に揺れる蝋燭の火のようで、どこから打ち込んでくるのかわからない。

 純粋な剣術であれば、人と打ち合って磨いた友人の腕前は洗練されており、勝つために手段を選ばない俺の腕前は粗削りだった。

 それに暇を見つけては、二人でモンスター討伐で時間を過ごしていたので、同程度の実践経験もある。

 こちらから仕掛ければ、虚実の掴めない剣の軌道に翻弄され、あちらの出方を伺えば、時間だけが過ぎていく。

 カイルの戦法は、相手に打たせてから攻撃に転じる。


 いわゆる後の先。


 友人は真剣での斬り合いだとしても、肉を切らせて骨を断つことのできる精神力の持ち主であり、狡猾さにおいては、命のやり取りにおいても、騙し合いで一枚上手を取れる人物だ。


「カールは、気が短いのが欠点だ。僕が視線を逸らせたり、咳払いしたりすれば、それを合図に斬りかかってくる」

「手の内を明かしても良いのかよ?」

「こんなことは、手の内に入らないよ。もう一つ忠告するなら、僕がカールの命を奪っているのは本当のようだ。気力が萎えて、腕にかけた魔法の効果が切れている」

「ご忠告、どうも」


 忘れていたわけではないが、死者であるカイルは俺の生気を吸収していれば、にらめっこが長引くほどに、俺が不利な状況に追い込まれる。

 とはいえ、今の忠告こそ、俺に打ち込ませるための誘い水であり、勝ちを焦れば負けるのが必至だ。

 駄目だ。

 俺には、カイルに勝つ方法が思いつかない。


「やっぱり俺には、カイルが斬れない」

「またか、いつもカールは僕との勝負から逃げる」


 肩の力を抜いた俺は、カイルの付け入る隙なさに戦意喪失した。

 へそ曲がりのことだから、また不貞腐れて愚痴るのだろう。


「同情じゃなくて、お前には勝てる気がしない。カイルとの勝負で黒星を付けたくないし、どうせ宿主の俺が死ねばカイルだって土塊に還る。勝者のいない戦いなら、決着つけずに死んだ方がマシだ」

「カールが、僕を斬り捨てれば済む話だ」

「カイルを倒した後、後ろにいるデーモンと一人で戦えると思うか。そいつを見逃せば、誰かさんみたいに、モンスターを集めて人間と戦争を始めるそうだ」

「戦争を始める?」

「カイルの自業自得に詫びる気もなければ、俺の贖罪は済んでいる。お前だって、その機会がほしいはずだ」


 カイルは『なるほど』と、言葉の意図を汲み取ったらしく、剣の切っ先をデーモンに向けた。

 俺は最初から決着を付けるために、友人との再会を望んでいない。

 こんなとき、頼れる男との再会を望んだ。


「ハンデ戦で勝ちを譲られても、僕も不本意だからね。最後くらいは、憲兵隊長としてモンスター退治に真摯に取り組もう」


 カイルは明らかに格上のデーモンに剣を向けているのに、メガネのズレを直す余裕を見せている。


「カイルを呼んで正解だ」

「カールとの決着も、いずれ付ける。弱った男に勝っても、僕のプライドは戻らないからね」

「死んでなお、いずれ決着って……。カイルには、ますます勝てる気がしない。しかし味方であれば負ける気がしない」


 強敵を前にしてカイルと肩を並べていると、学校帰りに街の外にいるモンスターを倒していた頃を思い出す。

 俺は大人でも手こずるモンスターでも、友人と二人なら負け知らずだった。

 社会に出て功を焦った彼とは、最悪の結果に終わったものの、俺が背中を預けられる男は、やはりカイルしかいない。


「カールは、どこまで僕を頼るつもりだ。僕が父上に頭を下げなければ、高等学校に進学できなかった。僕がいなければ、剣の見取り稽古もできなかったし、上級魔導書の閲覧資格だってなかった」

「カイルには、いつも感謝している」


 敵国と戦争を画策して絞首刑になったカイルが、いつまでも地獄を彷徨う、しょぼくれた姿を想像したくない。

 デーモンが人間との戦争を企んでいるのなら、悪魔の野望を打ち砕き、汚名をそそいで天国で安らかに眠ってほしい。


「カール、左右から挟み撃ちにする。奴が魔法陣を隠しているならマントだから、早いうちに処理しておけよ」

「わかった!」


 デーモンの右に回り込んだ俺は、身体を斜に構えて飛び上がると、人間の胴回りほどの太さがある二の腕を斬りつけた。

 顔色一つ変えない悪魔が、薄皮の剥けた腕を押さえており、その間隙を縫うように反対から、カイルが脇腹を刺突する。

 座ったまま二人同時に相手にするのは、さすがに分が悪いと立ち上がった悪魔が、翻したマントに手を当てて、炎の魔法で反撃してきた。

 魔導書を持っていなかったデーモンは、カイルの予想通り、マントの裏地に様々な魔法陣を描いている。

 厄介なことに、マントはスクロールのように使い捨てではなく、同じ攻撃魔法を連打して、こちらを牽制していた。


「人間、とても面白い。死者との再会を利用して、援軍を得るとは面白いぞ。しかし、その援軍は我の作った泥人形だと忘れたか? 我が指を鳴らせば、魔法が解けて土に還る。さあメガネ人間、別れの言葉を伝えてやれ」


 カイルは『そうだな、では一言だけ』と、攻撃の手を止めて背中を向けた。

 友人は結末を見ずに退場すことに、些か心残りがあるようだが、術者であるデーモンを倒せば、土に戻ることを知っており、今さら死を恐れていない。


「カールが熱心に解読していた禁書、僕にも見せなかった三つ目の魔法があれば、あのモンスターを倒せるのかい?」

「禁書の魔法は、俺自身が命を落としかけた。カイルに手加減したわけでも、出し惜しみしてたわけでもない」

「そうか。僕はカールの隣に立てたことを――」


 デーモンが『一言だろう?』と、パチンと指を鳴らせば、カイルの姿は、床にぶちまけたバケツの水のように消えた。

 人間と戦争を企む悪魔に一太刀浴びせたのだから、あっちに戻ったら、天国に行けるように神様に申し開きしろ。

 天国や地獄があるのか疑わしいが、生き返った彼が、最後に手を貸してくれたことで、生きている俺は救われた。


「別れの言葉くらい、ちゃんと言え。でもまあ、俺もカイルの隣に立てたことを誇りに思うぜ。それに、お前にはすぐ会えそうだ」


 デーモンは一対一ならば、俺に勝てると余裕の表情で見ている。

 手足をもいでやろうか、それとも首を捩じ切ってやろうか、悪魔はそんな仕草で笑っていた。


「勝ちを確信しているところ申し訳ないが、捨て身になれば、お前を倒す切り札がある」

「人間には悪魔の命を奪う術がないから、我は地中深くに幽閉されていた。土塊に魂を吹き込むデーモンには、どれほどの生命力があると思う。我には、ゴブリン一万体と同等の命がある。人間が、我の心臓を一万回貫こうとも死なぬ、悪魔は殺せないゆえに、この世界の地下には我の同族が――」

「死の衣を発動すれば、数の問題じゃないんだぜ」


 俺は胸元を開けると、胸に描いた魔法陣に左手を当てた。

 周囲にいる生きとし生けるものを喰らい尽くす、古代語で描かれた禁書の範囲魔法は、敵味方、術者さえも無差別に命を奪う。

 俺が古代語の翻訳、そして本文を理解しなければ、悪魔たちが地上に君臨した時代でも、発動により街一つ壊滅させた、誰も唱えない禁断の魔法だったらしい。


「馬鹿な……、その胸に描かれた魔法陣は、扱いきれないと人間が自ら封印したはず。その魔法陣が描かれていたのは魔導書でもなければ、本文は魔法術式でもない」

「いや、本の表紙に書かれていたし、試しに使ったけど魔法だった」

「た、試した? それは天使の記した福音書、描かれているのは召喚術式のはずだ」


 悪魔の蔓延っていた時代は知らないが、召喚術式は魔法ジャンルとして体系化もされている。

 何千年も経った人類が、デーモンの知っている人類と同じ知識なわけがない。

 俺たちは日進月歩、惰眠を貪る悪魔より進化している。


「俺の翻訳では『死神』だったのだが、そこは天使と訳すべきだったのか。でも執筆者の意図さえ理解できれば、詠唱のスペルミスくらい些細な問題だ」

「天使と死神は、致命的なスペルミスではないのか?」

「意見の相違だ」

「しかし人間、そこまで言うのならば、お前との交渉に応じてやらんこともない。我は兵隊を連れて立ち去り、坑道は一両日中にドワーフに引き渡そう」


 弱気になったデーモンを見ると、やはり禁書の魔法ならば悪魔の命を奪える。

 俺がカイルの命を弄び、二度目の死を与えた悪魔を見逃すと思うのか。

 死の衣、その絶対的な力に疑問を抱いた俺は、たった一回の発動で封印してしまった。

 執筆者の書き示す理、目の前にいる悪魔と道連れならば命も惜しくない。

 その覚悟が必要だった。


「我は死神が書き示した理を解して代価を捧げんとする者、摘み取る命に着せよ――」


 デーモンは、足元から空間全域に広がる光の輪から逃げようと、マントの下に折り畳んでいた黒い翼を広げる。

 俺も輪の中に立っていれば、範囲魔法の影響を受ける。


「人間っ、ま、まて、金か、女か、お前の望む物を渡してやろう!」


 今の俺は、金にも女にも十分過ぎるほど恵まれている。

 馬鹿な奴だ。


「――死の衣」


 詠唱を終えると、輪から伸びた光の柱が内側にいる者を閉じ込めた。

 唯一の出口だった坑道が塞がれていれば、そもそも物理的に閉じた空間を飛び回ったところで、デーモンには範囲魔法から逃げる術がない。


「大口叩いた悪魔が、みっともないぜ」

「人間っ、お、お前だって死ぬんだぞ!」

「その覚悟がなければ、もとより魔法を使わない。おい、そろそろ死神がお出ましだ」


 輪の中心、デーモンの椅子が置かれた空間の中心、そこに底の見えない大きな穴が開くと、岩で作った椅子が落ちて、それを小石のように手で払い除けた死神が、穴から顔を覗かせる。

 乳房を片腕で隠した全裸の死神は、広く思えたドーム状の空間に上半身しか出せなかった超巨大な女だ。

 金髪碧眼でウェービーな長い髪の女の死神は、巨体に見えた赤い悪魔が、まるで雀のように見える大きさである。


「な、なんで人間が、神の代行者である天使を召喚できるんだ! く、くそ、誤算だ。こんなことなら、さっさと仲間を再結集すれば――」


 死神はデーモンの黒い羽根を指で摘むと、片方の手を俺に差し出した。

 この女が悪魔の言うとおり、魔法でも死神でなく天使ならば、手を差し伸べる意味するところは、悪魔払いの感謝をすれば良いのだろうか。

 俺は一礼してからポケットを手探りして、盗まれないように持ち歩いていた交易金貨を指先に乗せた。


「浄財です」


 死神改め天使は、金額に不満なのか眉根を寄せてツバを吐き捨てた。

 しかし俺がポケットを裏返すと、今日は勘弁してやると言わんばかりの態度で、渡した金貨と、ブルブルと震えるデーモンを連れて、底の見えない穴の中に沈んでいく。

 広い空間は大穴が閉じると、何事もなかったかのように静まり返った。


「そうか。前回はゴブリン程度で呼び出した上に、寄付も渡さないで仕事させたから、怒り狂って殺されかけたのか。しかし天使のやつは、隠すほど乳はなかったな……。あ、女と決めつけていたけど、天使には性別がないんだ」


 俺は仰向けに寝転ぶと、帰り道のない空間に一人きり、つまらないことを考えながら、いつ来るのかわからない救助の到着を待った。

 このダンジョン攻略では、セオやカイルとの因縁が断ち切れたものの、やはり絶対的な力、死の衣を死なずに発動できたのは収穫である。

 ただ死の衣を発動する代価が、命ではなくても良いとわかっても、年収の三倍近く浄財を納めたのに、あんな顔をされるのでは、気軽に使えないと。

 あんな奴を気軽に呼び出していたら、街の予算も財政難で破綻するはずだ。

 死の衣は、俺のポケットマネーで扱いきれない禁断の魔法である。

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