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春待つふたり

作者: 氷雨

淡く光立つ俄雨

いとし面影の沈丁花

溢るる涙の蕾から

ひとつ ひとつ 香り始める



松任谷由美 「春よ、来い」より


 思えば、私があのひとに惹かれたのは、必然だったのかもしれない。


―――――――――――――――――

 まだ冷たい俄雨に、早足で歩く。

 呼び止める聞き馴れぬ声に首を傾げたが、このまま濡れていては外套が駄目になる上に風邪をひいてしまう。私は、気付かない風を装って早足に立ち去ることにした。どうせ、知らない声だ。

「ねえ、寒くないの。如月の雨はまだ冷たいわ。」

 困った事に、声の主は私がわざと無視していることに気付いてはいないようだ。若しくは、私の意思を無視仕返しているか。諦めて振り向けば、和傘を差した和装の少女が佇んでいた。何処から抜け出してきたかは知らないが、箱入り娘というヤツだろう。

「……ええ、寒いですよ。一刻も早くねぐらに帰って休みたい。見ず知らずの人間に何か要件が有るのでしたら、手短に願いたい。」

「寒いのなら傘を差せば良いでしょう」

「……見て判りませんか? 私は傘を持っていないのです。俄雨に降られてしまいましてね。…まぁ、生憎傘を買う金もありませんが」

 そう言った瞬間、少女は差していた傘を此方に差し出した。

 唐突な奇行に思わず言葉を失う。矢張り女という生き物はよく解らない。生前の母の含み笑いに何度やきもきさせられたことか。……大抵は、父のことだったが。下らない事を考えている間にも雨はしとしとと降り注ぎ、彼女の質の良さそうな着物の肩口を濡らしてゆく。

「有難うございます。しかし、お嬢さんが風邪を引かれては困りますから。」

「か弱きおなご扱いは御免ですわ。」

 いくら辞退しても傘を差そうとしないので、受け取って彼女に差す。其れが気に食わなかったのか、黒目がちな瞳が此方を睨んだ。

「は、なかなか気の強いお嬢さんですね。ですが、私のような者に傘は似合いません。私は軒先で雨粒でも眺めていましょう。」

「まあ。風流なこと。私もご一緒しても?」

「私は構いませんが、何も面白い事はありませんよ。貴女の方がよっぽど面白い」

 精一杯嫌味を込めて放った言葉さえ、さもおかしそうな笑い声に軽くいなされてしまった。女という生き物に口論で勝つことなどそもそも不可能だったのだ。


 みすぼらしい外套を着た男と素人目にも高価だと分かる着物に身を包んだ少女。見えることさえあり得なかった筈の二人が、肩を並べ雨粒を眺める様は、さぞ滑稽であっただろう。声をかける事はおろか、互いの横顔を盗み見る事さえせず。私達は雨の地を叩く音だけを聞いていた。


―――――――――――――――――

 あまりに静かで、眠ってしまっていたらしい。

「外で、しかも見知らぬ殿方の横で無防備に眠るなんて…御父様に知れたらなんと言われるか。」

 何故起こして呉れなかったのか、と傍らを睨めば其処に居た筈の男が居ない。あの奇妙な時間は、夢だったのだろうか――

 傘を差して歩き出せば、肩から何かがずり落ちた。見ればそれは質素な外套で。縒れてはいるが、幾つも繕った跡がある其れは、記憶に残る男が着ていたものと同じだった。ああ、あの奇妙で、胸踊る時間は現実のものだったのだ。嬉しくなって駆けだしたものだから、裾が少し汚れた。……これは、御祖母様に怒られますね。


 案の定怒られてしまったが、御祖母様が激昂しておられたお陰で外套に気づかれずにすんだ。

「お借りしたのだからお返ししなくては失礼ですよね。」

 とはいえ、今日初めて会った男の住所に心当たりなどない。仕方ないので外套を破らない程度にあちこちひっくり返して手掛かりを探ることにした。


……


 ポケットから探ったせいで、裾裏に縫い付けられた氏名と住所に気づくまで五分も掛かってしまった。ポケットに入っていたまんまるの団栗に歓声等あげている時間は正直言って無駄だったが楽しかった。

「さて。これであの方のお名前も住所も判ったことですし…次に御祖母様がお昼寝なさった時にまた脱出しましょう!」


―――――――――――――――――

「此の前は外套を貸して下さって有難う。」

 身分の違う二人が出逢う。人生に二度と無い、御伽噺のようなこと。

と、思っていたが。御伽噺から飛び出して来た彼女は元いた場所に帰る気が無いらしい。箱入り娘に外の世界はそんなに面白いか?

「…わざわざどうも。…こんな襤褸、返して呉れなくとも構わないのに。」

「大切なものでしょう?洗っておいたわ」

「なっ…! アレは過ぎて細心の注意を払わなくては解れが手に負えなくなるのですよ!? それを、洗った!?」

「冗談ですよ。きっとそんな反応をされると思って…不本意ですが、洗わないでお返しします。」

 満面の笑みで差し出された外套をできる限り無造作に受け取る。全てを見透かしたように笑う彼女が少し憎らしい。どうやって突き止めたのかは知らないが、アパートまで乗りこまれても迷惑なので丁重に追いださせて頂いた。屹度彼女は何も解っちゃいない。だのにこの胸騒ぎはなんだ?


……

 染み付いた煙草の匂いに微かに混じる、花のような甘ったるい香り。着物に焚かれた香かとも思ったが、そのような嗅ぎ慣れない香りではなかった。

「…なんにせよ、調子が狂う」

 すっかり襤褸になってしまった外套は、本来父の持ち物であった。記憶にある父は、いつも煙草をふかしていて。友人がしつこく勧めるからこの銘柄ばかり吸っていると苦笑していたのをよく覚えている。父亡き今も自分がたまに真似をしてふかすものだから、いくら干しても煙草の匂いはとれなくなっていた。それはまるで、癒えない傷のように。


 また甘ったるく鼻腔を擽られて、舌打ちする。早く忘れてしまいたい。覚えていて無益なことに悩まされるくらいなら、数式の一つや二つ覚えた方がまだましというもの。

「…よし」

 どうすれば良いか判らなかったので、取り敢えず父の趣味で集められた数学書を紐解くこととした。この数学書の大半が友人から譲り受けたもの、残りは友人から罰として取り上げたものらしい。

 ――外套は、暫くの間干され続けた。


―――――――――――――――――

 あの外套から仄かに匂った煙草は、やけに懐かしく。

「…そういえば御父様も昔はよく煙草をふかしてらしたわ」


 幼い頃から、貴女の御父様はご立派な軍人様なのだと聞かされて育ってきた。昔こそなかなか会えぬ父に恨み言を溢したものの、今は尊敬している。女の身である私は父のように士官學校に入って軍人になることはできない事が残念な程に。いつも気高く、優しい父の、ゆったりと煙草をふかす姿が好きだった。――ああ、そういえば。御父様が涙を流していたのを一度だけ見たことがある。煙草をふかしながら涙を流して、それきり煙草はやめてしまわれた。なんでも、一番の御友人が亡くなられたとか…。幼い私には――今の私にも――人の死というものは解らなかった。

「……もう、解らない、では済まされないのでしょうね。」

 戦争が起きようとしている。


―――――――――――――――――

 近々戦争が始まるだとか。それでも私の元には徴兵が来ない。父のように、エリートコースでなくとも多くの功績を上げて認められた父のように、人の役に立てる人間になろうと思っていたのに、いざ志願してみれば身体の脆弱さを理由に入隊はおろか徴兵も来ない始末。

「……なんてザマだ」

 軍に入れなかった数年間、父が遺した書を紐解いて知性だけは身についた。けして裕福ではないので弱い身体はそのままに……倒れても独り身故迷惑をかけることもない。


 ぱたぱたと軽い足音が聞こえる。

 こんなお転婆な足音はあの少女しかいまい。……まあ、私を訪ねる人間など彼女しかいないのだが。

「最近物騒なのだからもっと自分の身を気遣ったらどうです。貴女の家の方がよっぽど安全でしょうに。」

「今日がきっと、家を出る最後の機会になると思ったので…」

「貴重な一日をこのような寂れた場所で過ごすのは勿体ないと思いますがね。」

「私は、貴方が戦地へ行ってしまわれる前に貴方にお会いしたかったのです!」

 戦地へは行かないが、天涯孤独の身を慮って呉れるひとが居るのはまあ、素直に嬉しいものだ。ああ、なのに何故だろう。頭の芯が冷えてゆく。彼女が口にした其の名は、

「………じゃない。」

「え?」

「其れは私の名じゃない!」

「……? でも外套に」

「外套は父の…今は亡き父のもので、その名は父のものだ。」

「あ……御免なさい…私、知らなくて……あの」

 突然のことに彼女は肩を震わせて。見ていて痛々しかった。彼女にあたっても仕方無いことは分かっている。だのに感情が溢れて止まらない。そういえば父の命日が近かったな、と何処か遠くで考えていた。

「……帰ってくれ。」

 出来る限り優しく言ったつもりだったが、彼女の瞳には涙が光っていて。罪悪感にきりきりと胸が痛んだ。静かに閉められた戸の外から乱れた駆け足が聞こえたとき、居てもたってもいられなくなって思わず飛び出したが、小さな背に掛ける声は喉をつかえて出てこなかった。


―――――――――――――――――

 数年前。

 血を流す一人の男を若い男が抱えている。慌てる青年に対し、死に瀕した男はどこか気怠げに微笑みさえ浮かべていた。

「何故です!何故、私を庇ったのですか!」

「はは…。貴方が呉れた煙草が美味かったからでしょうかね」

「冗談はよしてください!こんな、こんな傷を負って…」

「……貴方にはまだ未来がある。私はもうここで打ち止めでしょう。二等兵からよくここまで来られたと思いますよ。もう、十分です。」

「貴方のような優秀な人なら、まだ…!」

「私より優秀な人間など沢山います…例えば貴方のように。」

「私など、独りでは、何も!」

「香坂。お前なら、できるさ」

「あ……待って、手当てをしさえすれば、……!」

「……がんばれよ」

「っ …………はい。」

 静かに目を閉じた男に、青年は静かに祈った。

「おやすみなさい、如月さん。」


―――――――――――――――――

 あれからどれだけの日が経っただろう。

 戦争は始まってからその勢いを増し、遂に私の元にもお鉢が回ってきた。以前の私ならば素直に喜んでいただろうが、今は笑う気にもならなかった。あの日の彼女があまりにも儚げで。今このまま戦地へ行ってしまえば、もう二度と会えない気がしてならなかった。

「……馬鹿らしい、」

 口ではそう言いながら、アパートをあとにした私の心は、未だ幸い死んではいないらしい。


 足は自然と初めて会ったあの場所へと向かう。会えるかどうかなどどうでも良かった。ただ、記憶の欠片でも拾えれば、自分への餞別には十分だ。なんて。

「……どうして。」

 いつの間にか年が巡っていたようで。景色はもう随分と様変わりしてしまったが、いつかのあの花の香りがゆったりと流れていた。俄雨さえ降ってきて。ただ一つ違ったのは、


 あのひとが傘を持たずに佇んでいたこと。


「何があったのですか!」

 外套を脱いでかけてやれば、ああ、あの時みたいですねと弱弱しく微笑んだ。

「……父が、亡くなりました。家が混乱していて、だから、私も出られたのです。」

「……っ、そんな」

「ええ、御友人との約束も達せられて。十分頑張られましたから。屹度、天上で再会を果たされているのでしょうね。」

「どうして、貴女は……。そう、気を張ろうとするのですか。私のような下賤の者の前でくらい、素直になっても良いではないですか。」

 大人になった、と言ってしまえば聞こえは良い。しかし、今目の前に居る少女は、無邪気な姿を無理に押し込めて、心の底で苦しんでいるように見えた。

 息のしかたと、泣き方を忘れてしまったような。

「……怖いんです。御父様も、貴方も…いずれは私の元からいなくなってしまわれることが。こんな当たり前の事に、今更気が付いたのです。気付いた時には、遅すぎた。」

 私は居なくならない、などと、どうして言えようか。今にも崩れてしまいそうな彼女を残して、私は戦地へ行ってしまうというのに。いつかの心地よい静寂とは似ても似つかない重苦しい其れを打ち払うように、少女は言の葉を落とす。


………


 言われるままに辿り着いたのは、慎ましい花をつけた木の下

「これは……?」

「沈丁花、という花です。」

 薄桃色の花弁を慈しむように見つめて、彼女はそっと呟く。

「木にしては短い命ながら、こうして一心に匂う姿は美しいと思いませんか。この木のような女性になれと言われてきましたが……御父様は、この木が短命である事を御存知なかったのでしょうね。」

「ええ、とっても。しかし初めて見る花です。香りの良い花といえば金木犀ぐらいしか知りませんでした。」

「殿方は花の名など気に留めなくても良いのです。そのようなもの、戦地では何の役にも立ちはしない…………」

  背けられた顔からは何も伝わらない。まだ、まだ貴女は私を拒むのですか……

「悲しい事を言わないでください。名前は香りを、香りは思い出を呼び起こすもの。沈丁花の名を聞く度私は貴女の事を思い出すでしょう。……たとえ戦地でも……」

「……ふふ、それは素敵な事ね」

「私は本気で……!」

 もどかしい。こんなに貴女の事を想っているのに。やっと気づけたのに。貴女を幸せにするどころか、笑顔にする事さえ出来ないのか。

「……本当に、美しい花ですもの。想い出にするには十分ですわ」

「貴女の方が、この花よりもずっと美しいのに。想い出に出来ないほど鮮やかで、この目に焼き付いて離れないのに……!」

 感情に任せてほんのりと紅い唇に自分の其れを寄せ――

「やめっ…………!」

 か細い声にはっとする。私を遠ざけようとする細い腕は震えていて。

「……すみません。たとえ貴女に受け入れられなくとも、私は」

「いけません。今は、何も仰らないで。」

 向けられたその瞳は、はっきりと私を拒絶していた。

「…………わかりました。しかし、いくら貴女の願いでも、私にだって譲れないものはある。」


「貴女のことを、待ち続けます。」


―――――――――――――――――

 ――数年後、如月。

「……あのような事を言われては、つい期待してしまいそうになります。」

 傘をくるりと回してみると、夕空に宝石が舞った。

「まぁ、綺麗なこと。……けれど、淑女がこんな遊びをするなんて、はしたないわよね……。あの方なら、きっと笑って許してくださるでしょうけど。」

 あれだけ拒んでおいて、結局、私は彼を忘れる事は出来なかった。離れて想いを封じ込めようとすればするほど、彼への想いは募るばかりで。懐かしい彼の人を訪ねて、もう二度と来まいと誓ったあの場所に今一人佇んでいる。花の色も香りもすっかり褪せてしまっているのに、想い出だけが鮮やかに残っている、この場所に……

「どうしてこんなに恋しいのでしょう。まだ私を愛して下さっているか、生きていらっしゃるかさえわからない貴方のことが……」



「…愛しています、如月様。」



終  


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