2-1 僕たち男の子
結婚式の曲は、少女が芝生の上に横たわると徐々に弱まり、ついには鳴り止んだ。
萌はおっかなびっくりといった様子で少女に接近していった。
彼女は萌と同年代ぐらいの背格好だった。両手は胸の上で組まれていて、紫のブーケを抱えている。薄紫のベールに覆われた顔は、目を閉じていても端正な顔立ちだと分かった。
緑が映える芝生の中にあって、紫色のドレスは一層幻想的な魅力を引き立てている。まるで御伽噺の世界にいる姫君のような、触れることも憚られてしまうほどの神々しさが漂っていた。
今の所、少女は全く起き出す気配がない。立て続けに発生した事件に、萌の感覚はすっかり麻痺していたが、このまま目覚めなかったらと思うと流石に少々不安になった。
萌は、姫に傅く騎士のごとく、ゆっくりと跪いた。震える指を静かに伸ばし、慎重に薄紫の布をめくる。ベール越しでも息を呑む美しさだったが、直接目にするとそれ以上だ。肌は透き通るような白さで、鼻と口は小さく整っている。艶のある髪は眉の上で綺麗に切り揃えられており、透明感のあるスミレ色だった。
天使かもしれない。
萌は本気でそう思った。
「どうしてウェディングドレスなのかしら?」
出し抜けに声がしたので、飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて振り向くと、そこには俊平とちえりが立っている。二人分の靴音が聞こえなかったとは、よほど気が動転していたらしい。
「何だよ、萌。ベールを上げてベーゼを交わそうってハラか? 抜け駆けは許せんな~」
「そ、そんなつもりないから!」
萌は手を振って必死に否定する。頬がさぞかし紅潮していることだろう、その事すらも恥ずかしい。
「そうよ、岩崎君は彼女が心配だったから調べてくれただけ。あなたと違ってね」
ちえりは手の甲で俊平の胸を叩いた。まだ少し両目が充血していたが、表面上はすっかりいつもの調子を取り戻しているようだ。
「それにしても、こけしっていう和のテイストに、ウェディングドレスのミスマッチを帯びて出現した謎の少女……。うーん、何だかゾクゾクしてきたわ」
腕を交差させて自分の両肩を掴んだちえりは、興奮を押さえきれないといった様子で武者震いしていた。大方、「眠れる芝生の美少女」に対する無限の可能性に想いを巡らせているのだろう。出来事の衝撃度のわりには驚くほど冷静だが、先ほどの騒動でワンクッションおいたことにより、三人とも奇妙な現象に対して耐性がついたのかもしれない。とりわけ萌の場合、爆弾騒ぎで死と隣り合わせだったため、「これで死ぬことはないだろう」という気持ちがあった。腹というのは、立たせずに据わらせるもののようである。
「ま、分析は後にしようぜ。ずっとこのままってわけにもいかねぇだろうしよ」
言うが早いか、俊平は彼女の背中と頭の後ろに手を回し、ゆっくりと上体を起こした。頭飾りとブーケが邪魔だったのだろう、頭飾りは萌に、ブーケはちえりにと、それぞれ投げ渡す。
「ちえり、先に言っとくが、別に他意はないからな。お前の婚期が遅れそうだから渡すとか、そういう含みは全くない。だから、安心して受け取ってくれ」
「――その減らず口を縫い合わせてやりたいわ」
「残念ながら、そいつは無理だな」
俊平はシニカルに笑った。
「何せ、俺の口は鋼鉄製だからよぉ。針がポッキリ折れちまわぁ」
「なら、ハンダでくっつけるまでよ」
「ハンダ? おぅ、あれだな、白黒模様で笹食ってる……」
「シマウマね」
「パンダだよ。どんだけ美食家なモノクロ野郎だ。一匹飼いたいぜ」
矢継ぎ早に台詞を応酬しあう二人。いつもの調子になるべく早く戻したいのだろう。もしかしたら、萌の気持ちを慮って、ことさら元気いっぱいに振る舞ってくれているのかもしれない。
そんな二人への感謝の代わりとして、萌も普段通りに言葉を紡いだ。
「俊平、今のは駄目だよ。伊藤さんがそのままパンダって返したら面白くないもん。甘えすぎ」
「へっ、参ったねぇ、こりゃ」
俊平は思いっきり頭を振った。
「芸人の息子に本気の駄目出し食らっちまった。こいつぁちょっと立ち直れねぇな。三秒ぐらい」
「全然応えてないじゃん、それ」
「岩崎君」
ちえりは萌の肩を叩きつつ、優しく諭した。
「駄目なのは今だけじゃないの。百万石の性根は、常に安定して腐ってるのよ」
「何抜かしてんだ。萌、ガツンと言ってやれ」
「うーん、薄々勘付いてたんだけどね」
「おいコラ、否定しろよ。さもなきゃハッキリ勘付け」
俊平はボヤきつつも、なるべく少女に負担がかからないよう、自分の体勢を細かく調整していた。最初は衣装に合わせてお姫様抱っこに挑戦しようとしていたらしいが、どうやら想像以上に難しかったらしく、少女に対して後ろ向きに屈み直すと、彼女の二の腕を自分の肩に掛け、純白の手をそっと掴みつつそろそろと立ち上がる。ガラスの靴を引き摺る形になってしまうが、この際やむを得まい。
「お袋や兼淵さんに詮索されると厄介だな。斥候を立てて、警戒しながらシケこむか」
「シケこむ?」
ちえりが眉根を寄せた。
「何だか、微妙に嫌らしい表現ね」
「ま、思春期だからな」
清々しい笑みとともに白い歯を覗かせる俊平。しかし、目尻が些かだらしない。
「俊平……」
萌は溜め息をつきつつ、額に手を当てた。
「鼻の下、伸ばしすぎ」
「何だよ、おぼこい奴だなぁ、萌。少々のエロスはこの時期の嗜みだぞ?」
「でもねぇ……」
「うおあーっ!」
唐突に雄叫びを上げる俊平。今度は何事かと、二人もやにわに表情をひきしめる。
「いきなり何よ、百万石」
「しょ、諸君……。落ち着いて聞いてくれ……! お、俺は今、国家機密に匹敵するほどの事象に接触してしまった……!」
「だから何、どうしたの!」
俊平は重々しく口を開いた。
「今、俺の背中には……! 夢と希望の詰まった双子の膨らみガフォッ!?」
問答無用。ちえりの弾丸のような右ストレートが、俊平の左脇腹を正確に捉えた。
一歩、二歩と、呻き声を上げながらよたよたと後退する俊平。しかし、口元には不敵な笑みを浮かべている。
「お、衰えたな、ちえり……。お前の拳なぞ、蚊が刺したほどにも効いておらぬわ……」
その言葉とは裏腹に、未だ足元が覚束ない俊平。千鳥足でのふらつきようは、泥酔した仕事帰りの会社員を彷彿とさせる。
「あのねぇ、百万石。そんなに強く叩いてないでしょ?」
「いいや、そんな事はない。効いてはいないが効いている……うおぉ、真っ二つに裂けたぞ、尻が! 医者はまだかぁっ!」
ちえりは呆れたように溜め息をついた。俊平への攻撃時には無類の強さを発揮する「黄金の右」だが、ちゃんと手加減しているから一撃で致命傷のパンチをする事などありえない。当然、俊平の悪ノリである。
「伊藤さん。それじゃあ俺も肩を貸すから、俊平と両側から……」
「うぅん、岩崎君はさっきの騒動で疲れてるでしょ? アホボンの百万石は、体力だけはあり余ってるから、今はしっかり休んでて」
「あ、あのぉ、ちえり先生……」
俊平が恐縮した様子で挙手をした。
「背負う行為は一向に構わないどころか、いつでもカモンなんですが、夢と希望に触れずに運ぶのは、物理的に不可能ですぜ……?」
「意識するのをやめなさい」
「いや、でもホラ、僕って健康的な男の子ですから……」
「――男の子」
ちえりが、にっこり笑って鉄拳を構えた。
「やめちゃう?」
「さー、頑張って運ぶぞー!」
俊平は、片目を瞑って愛嬌たっぷりに舌を出しつつサムアップすると、打って変わって沈痛な面持ちになり、黙々と運搬作業に取り組んだ。過去によほど大きな災難に見舞われたことがあるようだ。
――ご愁傷様、俊平。
萌は心の中でひっそりと合掌した。




