1-6 切れないこけし、切れた萌
「バカッ! そんな事あるわけないでしょ!?」
ちえりが大声で叱り付けた。
「ほら、岩崎君、踏ん張って。こっちから引っ張るから。百万石も手伝って!」
「あ、ああっ!」
こけしと萌の右手をつかんだ二人は、全体重をかけて引き剥がそうとした。
「せぇ、のっ!」
「痛い痛い痛い!」
「我慢して! もういっぺん行くわよ!」
「腕が取れる腕が! 痛い痛い!」
萌がもがるほど力を込めて引っ張ったにもかかわらず、こけしはびくともしない。小休止したあとで再び引っ張る。歯を食い縛り、何度も、何度も。
しかしこけしは、タコの吸盤のように右手に張り付いたまま、一ミリたりとも動かない。
胴体の数字はすでに一五○を切っている。時間というのは、迅速に過ぎて欲しい場合はのんびりしているくせに、必要な時には瞬く間に過ぎ去ってしまう嫌らしい性質があるらしい。
「おぉっ、そうだ!」
何度目かの小休止のとき、俊平はベッドから跳ね起き、机の抽斗を開けて中身を引っ掻き回した。
「あー、クソッ! こんな事なら整理しときゃよかったな……」
愚痴りながらも猛然とパソコンの脇に荷物を出していく。キーホルダーや学校のプリントなどが乱雑に放り出されたのち。
「ぃよしっ、あったぞ!」
意気込んだその両手には、金槌と彫刻刀セットが握られていた。
「このタッグで、その木偶人形をかち割る!」
「――おぉーっ!」
窮地の萌には、たった今発掘された鈍色の日曜大工道具と薄汚れた6本入りのクリアケースが、どんな黄金よりも輝いて見えた。
「でも、慎重に頼むよ。慎重にね」
「分かってるぜぃ」
俊平は唇をひと舐めすると、角刀をこけしに当てて、雄叫びとともに思い切り金槌で叩きつけた。
「か、堅ぇっ!?」
俊平は素っ頓狂な声を上げた。
「何だこりゃ、全然刃が通らねえぞ!?」
かなりの衝撃だったらしく、俊平の手は激しく痺れたように震えていた。萌の手に伝わる質感は間違いなく木であるにもかかわらず、こけしには傷ひとつついていない。
「どいて」
いつの間にか、ちえりは胸元にカッターを構えていた。目が恐ろしく据わっている。
「な、何するつもり!?」
鬼気迫るちえりの表情に、萌は思わず腰を浮かして壁に背中を張り付けた。
「ごめん、岩崎君。これしか思いつかなくて」
「だから、何!?」
ちえりはチキチキとカッターの芯を出すと、先端部分を折って綺麗な刃を出した。
「簡単なことよ。こけしが削れないなら、手の平のほうを削ればいいの」
「いっ!? 嫌だぁー!」
萌は激しく頭を振って、半ベソをかいた。
「大丈夫だよ、伊藤さん! こんなカウント、全然問題ないって! 爆発しないかもしれないじゃないか!」
「するかもしれないでしょ!? 大体、こんなこけし見たことないわよ!? 何が起きたっておかしくないわ!」
そのとき、金槌と彫刻刀を置いて静観していた俊平が、突然萌に飛び掛かってきた。喚き散らしつつ払い除けようとするが、俊平も本気だ。右手が制限されていることもあり、うまく抵抗できないまま、あえなく組み伏せられてしまう。
「萌、すまんがお前を助けるためだ」
「似合わないぞっ! 百万石にそんな真面目な台詞は全っ然似合わない! 助けてー! 嫌だ! 助けてーっ!」
萌に馬乗りになる俊平。ウォーターベッドが激しくたわみ、押さえつけられた顔が半分埋まる。
「ちえり……、やれ」
俊平が厳かに告げた。それに呼応するかのように、ちえりは萌の右手首を掴むと、口を真一文字に結んで頷く。十四年を誇るコンビネーションの前では、萌一人の力などあまりに脆弱だ。
「あ、待て、ちえり」
俊平が呼び止めた。もしや起死回生の策を思いついたのかと、萌は一縷の望みに縋る。
「俺の衣装タンスの中に手袋があるから、そいつを填めておけ。剥がした後でお前の手についたら、意味がないからな」
「――そうね。ありがと、俊平」
あぁ、なんだ……。切るのは確定なのか……。
萌は下唇を噛みつつ、執刀前のちえりをじっと見ていた。黒い皮手袋を装着する様子を凝視していると、なぜか必殺仕事人の音楽が脳裏をよぎる。余裕があるのではなく、切羽詰まっているのだろう。
舌先が微かに血の味を捉えた。先程の取っ組み合いで口内を切ったのだろう。今から起こる出来事を想像して、緊張の度合いは更に高まる。
「ごめんね」
不意に、ちえりが心底申し訳なさそうに謝った。
その途端、張り詰めていた気持ちがふっと軽くなり、代わりに後悔の念に囚われる。
――そうだよ。二人とも、誰のために真剣なのさ……。
「うぅん、俺の方こそごめん」
萌は観念した。
「あのさ、伊藤さん。お願いがあるんだけど」
「なに?」
「なるべく、痛くしないでね」
「――善処するわ」
優しく微笑んだちえりは、タオルを萌に渡してきた。口にくわえろという事らしい。もちろん、ありがたく入れさせてもらった。
ちえりは深呼吸したのち、萌の親指の腹から剥がしていこうとした。
刃の照り返しが異様にギラついているように見えて恐怖感を煽るが、それは同時に切れ味の鋭さを保証してくれてもいるわけで、頼もしく映る。たかがカッターとはいえ、それで今から流血沙汰になると思うと、堪らなく蠱惑的だった。
しかし、まさに刃が指に触れようとした瞬間。
パシュッ!
「えっ?」
まるで静電気でも発生したかのように、カッターは大きく弾き返された。
「そ、そんなっ……!」
慌てて刃を当て直そうとするちえりだったが、指先に触れる寸前のところで空気の壁とでもいうべき抵抗があり、やはり跳ね返されてしまう。
「何で、何でよ……!? どうして切れないの……!?」
歯を食い縛って押し当てようとするが、どうしても萌の指に届かない。肩で息をしながら幾度も試みたのち、ちえりの手から力無くカッターが零れ落ちた。放心したような顔には、少しずつ諦めと絶望の色が濃くなり、いつしか目尻に涙が滲んでいく。
「き、切れない……。嫌っ、嫌よ、そんなの……」
両手で顔を押さえるちえり。
「ごめん、モエモエ……ごめん……」
刃が押し返されるのは、ちえりが悪いわけではなく、こけしの力だろう。それでも、くぐもった声で謝罪し続けるちえり。
「諦めるなっ!」
俊平が一喝した。
「こけしの首をねじ切れるかもしれねえだろ! 停止ボタンだってあるかもしれねえ! 探すんだよ!」
俊平は、自身も素早く手袋を填めると、こけしの首を捻り始めた。
萌は右手を投げ出したまま、まるで他人事のように呆然としていた。さっき目にした数字は七○だったから、現在は更に減少しているだろう。
あと、一分ってとこかなぁ……。
萌は右手を弄られながら、朧げに思った。
嗚咽の止まらないちえり、必死の形相でこけしを調べる俊平……。そんな二人の表情など、今まで一度として見たことがない。果たしてこれは現実なのだろうか、全然実感が湧いてこない。
ふと、左手で口のタオルを取り出した。こんな事すら忘れていたらしい。
頬をつまんでみた。つまんだ感触も、つままれた感触も分かる。力を込めると、じんわりとした痛みが広がった。
は、ははっ……、夢じゃないんだ……。
萌は声にならない笑いが出た。
大窓から見た空には、雲がゆったりと浮かんでいる。平和そのものといった眺望だ。
あぁ……。俺がいなくたって、世界は回るんだなぁ……。
萌の中で、何かが切れた。
「いいよ、俊平」




