1-5 爆弾発言
失禁しなかったのが不思議なくらいである。喉が張り裂けんばかりに絶叫した萌は、壁に反響した自分の声で激しく耳鳴りを起こした。突然の大音響に、三半規管がパニックに陥ったらしく、衝撃で頭が揺さぶられ、意識が一瞬朦朧とする。
「どうした、萌っ!?」
すぐさま、廊下を猛烈な勢いで疾走する音が耳に飛び込んでくる。
「何かあったの、岩崎君! 大丈夫!?」
「い、いや……なんでもない、よ……」
「嘘っ! 今の叫び声、只事じゃなかったわよ!?」
「あ、後で話す! だから、今は待って!」
心配してくれるのは嬉しいが、流石にトイレにまで入られるのは気まずい。萌はひとまず、洗面台の上にこけしを置こうとした。
「あっ……、あれ?」
しかし、こけしは萌の右手の平にくっついたまま外れない。指の腹たった一つ分ですら、接着剤で貼り付けたかのように剥がせない。
紫色のおかっぱ頭と胴体は、紛れもなく道で見かけたあのこけしである。
萌は全身から血の気が引いた。平衡感覚がおかしくなったのか、トイレの景色がぐにゃりと歪む。厳冬の猛吹雪の中、裸で氷の風呂に浸かったかのように体が総毛立った。
ありえない、ありえない、ありえない……。
萌は小刻みに頭を振りつつ、洗面台に腰を押しつけるようにしてもたれかかった。左手でおもむろに頬を叩く。躊躇した気がするので、もう一度、今度は気合いを入れて。
しかし、ちっとも痛くない。
鏡の中の自分は、口を半開きにしてすっかり惚けている。今にも泣き出しそうな顔だ。
萌は、シャツの胸元をねじるようにして握り締めた。右手のこけしは依然として外れない。呼吸が荒くなり、耳たぶが激しく脈を打つ。心臓が雑巾を絞ったようにきつく絞め付けられる。
苦しい、気持ち悪い……。誰か、助けて……。
「――か! おい、本当に大丈夫か!?」
不意に、トイレのドアを連打する俊平の声が聞こえた。はっと我に返る。
「どう、岩崎君? 救急車呼ぶ?」
さっきからずっと声をかけてくれていたのだろう。ちえりの心配そうな声も耳に届く。
二人が必死に呼び掛けてくれたおかげで、萌も何とか僅かに残っていた理性を掻き集めることができた。
「う、うん、大丈夫……。部屋で、待ってて……」
出来るだけ落ち着いた感じに聞こえるよう、努めてゆっくりとした口調で話す萌。
――ありがとう、二人とも。
萌は、先程とは違う涙が溢れそうになった。
萌はその後、左手だけを使ってなんとか用を足した。ファスナーを引き上げるのが思いの外難しかったが、とりあえず手を洗って外に出る。
「おいっ! 大丈夫か、萌?」
トイレの前には、心配そうな顔の俊平とちえりが待っていてくれた。
「岩崎君、大丈夫? 顔色、優れないみたいだけど」
萌は軽く頷くと、右手を二人の目の前に持ち上げてみせた。
「――こけし?」
俊平は怪訝な顔をした。
「それで、何で絶叫するんだ?」
「持ってなかったんだ」
言葉に出すと改めてその異常さが分かる。
萌は身震いしたのち、ゆっくりと繰り返した。
「持って、なかったんだよ」
「持ってなかった?」
ちえりが自分で確認するように尋ねた。
「突然出現したの?」
「おいおい、ちえり。考えてモノ喋れよ。そんな与太話を真に受けるか、フツー?」
俊平は半笑いでちえりの肩を押した。しかし、萌の顔を見てたちまち表情が凍りつく。
「マジ……か?」
「うん」
萌は蒼白な顔で頷いた。
「部屋に戻って話すよ……。ちょっと、しんどい……」
萌は真っ直ぐ歩こうとした。少し足元がふらついてしまい、慌てて俊平が支える。そのまま肩を貸してもらいつつ、なんとか部屋のウォーターベッドまで辿り着くことが出来た。
「岩崎君。つらいようなら、横になってもいいからね」
「大丈夫、これで」
萌は手で制した。それを右手で行ってしまい、嫌でもこけしが目に入る。
――駄目だ駄目だ、こんな事で滅入ってちゃ。
萌は自分を奮い立たせると、二人のほうをおもむろに見た。
「実は、このこけしと最初に出くわしたのは、俊平の家に来る途中だったんだ」
二人とも真摯に耳を傾けてくれている。何気ない事だが、それが非常に心強い。
「俺が歩いてると、なぜか道の真ん中に立ってて……。それで、近くにゴミ捨て場があったから、子供の悪戯かと思って、袋に捨てたんだ」
「捨てた!?」
俊平が大声を出した。
「おいおい、だってそこに……!」
「静かに! ――岩崎君、続けて」
ちえりが先を促す。萌は頷いた。
「そのあと、これでよしと思って額を拭ったら……、いつの間にかこけしを握ってたんだ」
自分でも呆れるほど説得力のない話だが、事実なのだから仕方がない。
異様に喉が渇く。カラカラだ。萌は唾を飲み込んだ。
「疲れてるのかなと思って、もういっぺん袋に入れたら、今度は問題なく入ったままだったからすっかり安心してたんだ。で、それっきり忘れてて、さっきトイレに行ったら……」
「突然出現した。そういうわけね?」
ちえりは萌の台詞を引き継いだ。
「大丈夫、落ち着いて、気を楽にして……。それで、他に何か、気付いたことはある?」
「手から外れないんだ」
「――分かったわ。それじゃあ、まずはよく見せて」
彼女も異常な事態に混乱しているだろうが、そんな素振りは微塵も見せない。ちえりは萌の右手をそっと包み込むようにして握ると、紫色のこけしを様々な角度から調べた。
「元々こけしっていうのは、東北の温泉地で土産物として売られていた、人形の玩具なの。でも、全身紫色っていうのは聞いた事がないわね……。パソコン、借りるわよ」
ちえりは俊平の返事を待たずにネットでこけしを検索した。ずらりとこけしに関するページが出現し、そのうちの幾つかを開いていく。画像がふんだんに使用されているページが多く、調べるにはうってつけなのだが、全てのこけしがこちらを凝視している気がして、萌にはとても正視できなかった。
「こけしには沢山の系統があるの。岩崎君の手にあるのは津軽系かしら。でも、全身紫っていうのは、やっぱりどの系統にも存在しないみたいね」
「お、おいっ……!」
突如、俊平が萌の右手を指差した。
「萌……。これって、一応こけしだよな」
「う、うん。多分……」
「なんか、妙な数字が浮き出てきたぞ」
「えぇっ!?」
慌ててこけしの正面を見ると、胴体部分に三つの漢数字が出現していた。クセのある筆字で縦に並んでおり、二九五、二九四、二九三……と徐々に減少している。どうやら三桁の数字を表しているらしく、一秒ごとに一つずつ少なくなっているようだ。
何だっけ、こういうの……。映画でよく目にする光景だよね、大抵クライマックスで出てくるんだ。解体不可能なときは遠くへ放り投げて爆発炎上、主人公達は助かってめでたしめでたしってやつ。――あれ? でもその技、手に張り付いてたら使えな……。
そこまで思い巡らせた途端、萌の歯は、まるでそれ自身が意志を持ってしまったかのように、カチカチと恐怖のリズムを撒き散らし始めた。
「――これってよぉ」
俊平が、ごくりと喉を鳴らした。
「もしかして……爆弾か?」




