1-3 らでぃっしゅぼーや
こけしの悪夢を振り払うかのように早足で歩いた萌は、予定より早く白塗りの御殿へと辿り着いた。
はぁ……、いつ見ても凄いね……。
萌は左右にゆっくりと首を巡らせると、溜め息にも似た感嘆を漏らした。
純白の壁面は百メートルほど続いているだろうか。通りの一辺が延々と加賀邸の外壁である。塀を一周するだけで十分ランニングコースになりそうだ。
反対側の灰色の壁まで下がると、加賀邸の白亜の城が少しだけ頭を覗かせる。住居の色は、外壁よりも少々アイボリーがかっていて、それがますます御殿っぽさを演出していた。
すでに「家」じゃないよな、これ。「お屋敷」だよ。
萌は壁の一部にある頑丈そのものといった銀色の門扉の前に立つと、俊平の部屋のパスナンバーを入力して、監視カメラ付きのインターホンを押した。
『はい、どちら様でしょう』
俊平はすぐに出た。
「岩崎です。開けてください」
『はぁ、新聞の勧誘? うちは何社も取ってますが?』
「――開けろ、百万石」
軽くドスを利かせる。
『へいへい』
ガチャン、と重い金属音がして、銀色の扉が解錠された。萌は扉の左隅についている小さなドアをくぐって中に入る。扉は萌の後ろでゆっくりと閉まっていき、自動的に施錠された。
真正面にはガレージのシャッターが見える。萌はしばらく直進した。その後、向かって左側へと枝分かれする、玉石の敷き詰められた小道を歩いていく。綺麗に刈られた芝生の真ん中を通り抜けるような設計になっており、庭の広さを堪能できる造りだ。
緩やかなカーブを描きつつ屋敷の玄関に向かう小道。ようやく辿り着くと、扉の前でお手伝いさんが出迎えてくれた。
「萌様、ようこそお越し下さいました」
「いえ……。あの、お気遣い無く」
ライオンの真鍮ノッカーが付いた焦げ茶の玄関扉を開けてもらい、思わず恐縮する萌。最初の訪問時に大半のことを断ったのだが、家主の子供の提案で、これだけはたまに行われるのだ。完璧にからかわれているのだが、どうにも慣れることができない。
――本当、ありえない。
萌は、恥ずかしさを隠すかのように頭を掻くと、ラクダ色のふかふかの来客用スリッパに履き替え、二階の俊平の部屋へと向かった。部屋の前でコンコンと二回ノックをして、「開いてるぜ」という声を聞いてからドアを開ける。
「お早う。伊藤さんに呼ばれて来たよ」
「おう、災難だな」
「まあね」
曖昧に笑みを浮かべつつ、ウォーターベッドに腰掛ける萌。位置としては、学習机に向かって座る俊平の右後ろになる。
「でも、彼女の言い分が納得出来ちゃったからさあ」
「あいつの趣味に合わせることはねえんだよ。――あー、クソッ」
俊平は机に置かれたパソコンの画面を注視したまま、マウスをせわしなくクリックしていた。
クリーム色のシャツにグレーの長ズボンを始めとする衣服は全てブランド物らしいが、量販店の品と大して変わらないデザインだ。彼をこの屋敷と切り離して見た場合、金持ちのボンボンという雰囲気はさほどなく、むしろ、どこにでもいる、ちょっと格好つけた中学生といったほうが当てはまる。
「ったく、なかなか騰がんねぇな」
不機嫌さを隠そうともせず、綺麗に仕付けられた側頭部をくしゃくしゃに掻きむしる俊平。左手で頬杖をつきつつ、いかにもやる気なさげな態度のくせに、決して画面から目を離そうとはしない。
「何、また株?」
「当然だろ。平日に遠慮会釈なくパソコン前に陣取れる、千載一遇のチャンスなんだぞ? 何が悲しくて外出せにゃならん」
俊平はマウスを大きく円運動させた。
「世界は光陰矢のごとし。ごっそりと金を貯める株屋には、悠長に遊び歩いてるヒマなんてねぇんだよ」
「でも、今の所ストレス溜まってるだけみたいだし、見るのやめちゃえば?」
「正論を吐くな! 士気が挫けるだろ! 休みぐらい株してえんだよ……って、売り板一気食い!? おいおい、こいつぁ凄ぇ! 大人買い来襲だぜ」
俊平は俄然やる気を取り戻し、画面に身を乗り出した。
「おおおっ、それも団体さんで!? よっしゃあっ、盛り返したぞ、モエモエっ!」
「――その呼び方はやめろ、俊平」
萌はスッと表情を消した。
「何だよモエモエ、水臭いな。俺はモエモエと喜びを分かち合いたいからこそ……」
「百万石百万石百万石百万石……」
「――いや。正直すまんかった、岩崎君」
呪文のように渾名を呟く萌に、俊平は椅子に座ったまま深々と頭を垂れた。
「分かればいいんだよ、俊平君」
「クソッ、俺の苗字が加賀でさえなきゃなあ」
俊平は実に悔しそうに指を鳴らした。
モエモエという呼称は、学校でわりと流行っていた。陰湿な感じはなかったものの、どうにも恥ずかしいため、出来ればやめてほしかったのだが、嫌がれば嫌がるほど呼ばれてしまう。そのため、ある時期からは諦めて放置していたのだが、俊平に対してだけは、彼の渾名と相殺という形で「愛称禁止協定」を結んでいたのである。――今のように、肝心なときには大して機能しないものだったが。
「ところでさぁ、伊藤さんはいつ頃来るの?」
「あぁ、お前が来たら電話しろって言われてた」
「そーゆーことは早く言おうね」
「すまんすまん」
俊平は、パソコンの脇にあるスタンド型の電話でちえりの短縮番号を押すと、萌に投げて寄越した。
「はい、どうぞどうぞ」
「つくづく株なんだね……」
応対中の僅かな時間も惜しいらしい。萌は溜め息をついた。
『はい、もしもし』
ちえりはすぐに電話に出た。
「あ、伊藤さん? 俺、俊平の家に来たから」
『うん、分かった。すぐに行くわね』
電話が切れた。それから数十秒後、今度は部屋の壁に据え付けられた電話が鳴る。
「萌、取ってくれ」
「いや、流石に駄目でしょ」
「――萌よ、お前にいい事を教えてやろう」
振り返った俊平は、小憎らしいほど爽やかな笑みを浮かべた。
「俺は今、手が離せん」
「自宅のセキュリティ解除を、他人に任せるな!」
「やれやれ。お前って妙なところで律儀だよな」
俊平はぼやきつつ、キャスター付きの椅子に乗ったまま、壁のカメラ付き電話までガーッと移動した。
「はい……あっ、寄付の話は会社にお願いします……うるさいな、分かってるよ」
俊平は電話についている解錠ボタンを押した。その直後、銀色の扉に付属する小さなドアから、黒髪をポニーテールで縛った少女が颯爽と入ってくる。
肩からは茶色の大きな鞄を提げていた。本日の会議用だろう、随分と荷物がありそうだ。
「まったく、難儀な奴が近所にいたもんだぜ」
「それ、絶対向こうも思ってるよ」
「うるせぇ」
俊平はパソコン前に戻り、マウスをクリックした。その瞬間、この世の終末に遭遇したかのような情けない悲鳴を上げる。今のやりとりの最中、持ち株が悲惨な状況に転じたのだろう。
「くそっ、流れが途端に悪くなった! ちえりのせいだ!」
「言い掛かりも甚だしいね」
萌は電話を返すと、俊平がいるほうとは反対側の壁にある木製のレール式本棚から、「あずまんが大王」を一冊取り出して読み始めた。
「伊藤さんは関係ないじゃん。どう考えても自分のせいだろ?」
「ほっとけ! お前に俺の、身を引き裂かれそうなほどの悲痛さが分かるか!?」
「分かりたくもないし、分かんなくていい」
「切り捨て御免かぁっ! 俺とお前の仲は、所詮そんなモンだったのか!?」
「あ~ぁ、どこの誰だったかなぁ。『株は孤独なものだ』って嘯いたのは」
「ふっ……」
俊平は、途端にキザったらしく髪を掻きあげた。
「君子は豹変するのだよ」
「本物の君子が聞いたら怒り出しそうな台詞だね。――あははっ」
「な、なぜ笑う!?」
「いやぁ、面白い漫画だなぁって」
顔も上げずにページをめくる萌。
「思うんだけど、四コマ漫画って、少ない時間を有効利用するにはもってこいだよね」
「――消えてしまえ!」




