エピローグ 萌はまた一歩大人になった
萌は風呂に入る前、りんごジュースを飲んでいた。
「ねぇ、お母さーん」
キッチンで、亜里紗が幸子に質問していた。
「なんで亜里紗なんて名前にしたの?」
「え、どうして?」
――む。
萌は耳をそばだてた。
「だって、テストで男子と競争したら、ほんのちょっとの差で負けちゃったんだもん」
「点数だろ、それ? 名前のせいじゃないじゃん」
萌が突っ込んだら、亜里紗が猛反発した。
「違うの、萌姉! スピード勝負だったの!」
あぁ、なるほど……。
萌は合点がいった。
「相手は山田一っていう奴で、あたしが『岩』って書く間に名前全部書けちゃうんだよ? 絶対不利だよ。まあ、上の名前は仕方ないにしても、なんで亜里紗にしたの? ねぇ~」
「それはね、外国でも通じやすい名前にしようって、お父さんと決めたのよ」
「じゃ、カタカナで『アリサ』でも良かったじゃない! ねぇ、何で?」
「それはだって、日本だもの。やっぱり漢字をつけたいじゃない?」
「うっ……」
――そう言われたら、もうどうしようもないな。
萌は忍び笑いをした。
「もちろん、色んな考え方があるわ。でも、お父さんと二人で、幸せになって欲しいって思いがいっぱい詰まってることは、覚えておいてね」
「それは、分かってるけどぉ……」
亜里紗はむくれていた。まあ、話した所で改名できるわけではないし、また、したいとも思わないはずだ。単に不満をぶつけたかっただけだろう。
――そうだ。
「なあ、亜里紗。それって、どんなテスト?」
「先生が作った、簡単な小テストだよ。だから、あっという間に終わっちゃうの。今度もまたあるんだよ?」
「ならさぁ、全員が名前を書き終わるまで、テスト開始を待っててもらえばいいんじゃないかな」
「あ」
亜里紗は目から鱗が落ちたようだった。
「そうだよ、萌姉ちゃん! 凄い! 天才!」
「僕は萌兄ちゃんだよ」
萌は着替えを風呂に用意した。さっきジュースを飲んだことで尿意を催したらしく、先にトイレで用を済ませる。
ふと見ると、芳香剤はラヴェンダーだった。
まさか、これが記憶にあって言ったんじゃないよなぁ……。
萌は軽く笑った。
用を足し、手を濯ぐ。こけしで片手が使えなかったときは、ファスナーを上げるのも一苦労だった。濃密な一日だったせいか、なんだかとても昔の事のように感じられるが、あれはまだ朝の事だったのだ。
「……」
あれっ、待てよ?
萌はふと手を止めた。
脳内で、ぐるぐると記憶が駆け巡る。
そうだよ、いや、でもまさかっ……!
「――ちょっと出てくる!」
萌は外に飛び出した。
閑静な住宅街にある一軒家から出てきたラヴィは、怪訝な顔をした。
「んむ、明日まで待てなかったのか? そんなに恋しかったか」
「いや……、別に、そういうわけじゃないんだけど……」
走ってきた萌は、十数秒ほど使って呼吸を整えた。
「実はさぁ……、どうしても確認したいことがあって」
「ほぉ、なんだ?」
萌はごくりと唾をのみ込んだ。
「あのさ……、俊平の家で起きた事を、監視ボールで撮影してたんだよね?」
「んむ、不測の事態に備えて、ちゃんと見守っていたぞ」
「――見たの?」
「何をだ?」
ラヴィはポーカーフェイスのままだ。
しかし、不測の事態に備えているのならば、こけしを掴ませたときなどは思い切りそれに該当する。
萌は恐る恐る切り出した。
「誰を撮影してたの?」
「こけしマン」
「常に?」
「うん、常に」
ははははは……。
萌は空笑いが止まらなくなった。
「さ……、さっきはうまく伏せてたけど、それってつまり……!」
うっすらと笑みを浮かべたラヴィは、徐に口を開いた。
「『お願いします』」
「!」
「人に物を頼むときの、魔法の言葉だよ?」
頬に指を当て、小首を傾げてみせる。
萌は笑顔を引き攣らせた。
「お……お願いします……」
「『ラヴィ様』」
「ラ、ラヴィ様……」
「はっはっは、こりゃ愉快じゃのお。余は満足じゃ、下がって良いぞ」
「勝手に終わるなー!」
「あれっ?」
ラヴィはきょとんとした。
「命令、それ?」
「い、いえ……。滅相もない……」
たっ、耐えろ……、今は耐えるんだ……。
萌は手を握り締めた。
「ど、どうかご内密にお願いします、ラヴィ様……!」
頭を下げる萌に、ラヴィは楽しそうに笑いかけた。
「大丈夫、大丈夫」
ラヴィは萌の肩を優しく叩くと、耳元でこう囁いた。
「私の口は堅いから」
―劇終―




