1-2 道での遭遇
その後、朝食を終えた萌は、食器を流しに浸けたのち、洗濯物を干す幸子を手伝った。
「家事は大変だねぇ」
大量の洗濯物を抱えながら、萌は思わず呟く。
「うふふ。見直した?」
「いや、もう十分知ってるから」
「すごいでしょ?」
「うん、すごいすごい」
実際、本当に頭が下がる思いなのだが、照れもあって、わざと適当っぽく返事をする萌。
そんな萌を見て、幸子は含み笑いをした。きっと、何もかもお見通しなのだろう。
幸子は手早く服を広げると、流れるような手つきでハンガーに通していった。ズボンやスカートには洗濯ばさみも併用する。下着やタオルなどもあっという間に大きな洗濯ハンガーに干し終わると、少し高い位置にある物干し竿に引っ掛けた。
うーん、主婦恐るべし。
萌は感服した。
「じゃ、俺は食器洗うよ」
「あ、待って。せっかくだから、その前に萌ちゃんのお布団干しちゃうわ」
「分かった」
萌は自室に戻り、布団一式を順にベランダの幸子に渡した。予めタオルでベランダの手すりを乾拭きしていた幸子は、手際よく布団を干すと、大きな布団ばさみで挟んでいった。
それが終わると、萌はパジャマの袖をまくりながら鼻歌交じりに階段を降りていき、台所に立った。今日のBGMは「銀河鉄道999」。スポンジに洗剤をつけ、先ほど水に浸けておいた食器をまとめて洗っていく。全部洗ってから、便利グッズの店で購入した黄色いキャップの填った細長い蛇口レバーをひねり、泡を濯ぎ落とす。節電節水は地球と家計の双方に幸せをもたらす、人間の美徳である。
透明なビニールシートの敷かれたダイニングテーブル越しに居間を見ると、幸子が万年こたつの上にある草加せんべいを囓りながら、サスペンスドラマの再放送を見ていた。さっき新聞でチェックしたところ、別に信太郎が出演しているわけではなかったので、純粋に興味本位だろう。愛知が舞台らしいので、今日はきっと伊良湖岬の突端で、それまで頑なに口を閉ざしていたはずの犯人が、何故か突然、人が変わったかのように饒舌に語り出すわけだ。崖には何らかの魔力が働いているらしい。
「萌ちゃん。お昼、何食べたい?」
「んー、何でもいいけど」
萌が乾燥機に食器をきちんと並べてスイッチを入れ終わったとき、タタタッ、タタタッ、タッタッターンタ・タタタタタッタッタ、とラデツキーが鳴り出した。タオルで手を拭いた後、ピンクとシルバーのツートンカラーで彩られた電話を持って耳に当てる。
「はい、もしもし」
『あ、岩崎君?』
「そうだけど……。何、伊藤さん?」
休日に何の用だろ。
萌は不思議そうに同級生の名前を呼んだ。
『うん。あのね、オカ研のことなんだけど、調査する題材が絞りきれてないじゃない。だから、それの話し合いをしようと思って』
「あぁ~」
萌は頭を掻いた。
彼女、伊藤ちえりは、一年生のときに萌と同じクラスだった。入学式のあと、名前順に男女でたまたま横に並んでいたさいに話しかけられ、それ以来知り合いとなったのだ。
――思えば、あれからだったな。怪しげな彩りに染まった中学校生活の幕が上がったのは……。
萌は当時を思い返していた。
※ ※ ※
「岩崎君は、まだクラブとか決まってないの?」
桜咲き誇る入学式の翌日。通常授業の一時間目が始まる前に、ちえりが話しかけてきた。
「うん、昼休みと放課後に見て回ろうと思ってるんだけど……」
今にして考えると、絶妙のタイミングであった。運動系で意中のクラブでもない限り、その時点で決定しているのは極めて稀である。
「あ、じゃあ面白いクラブがあったわよ。オカルト研究会っていうの」
「えっ……? い、いや、あんまり幽霊とかお化けとかに興味はないんだけど……」
「まあまあ、食わず嫌いはよくないわよ。それに、どうせ色んなクラブを見て回るんなら、普段自分が行かないようなクラブにも、一度は顔を出してみたっていいんじゃない?」
なるほど、高説ごもっとも。
というわけで、萌は早速その日の昼休みに、化学部と兼用になっている三階のオカルト研究会の部室――つまり、化学室――を訪れることにした。
「あのぉ、すみません。ここがオカルト研究会って聞いて来たんですけど……」
「あっ、いらっしゃーい、岩崎君」
「――伊藤さん!?」
萌は猛烈に嫌な予感がして、自然と頬が引き攣っていた。
実は、ちえりが超常現象に尋常ならざる興味を持っており、入学式当日にその足でオカルト研究会に入会していたこと、他の人にもそれとなく勧誘話を持ちかけていたこと、引っ掛かったのが萌と他一名だけだったことを知ったのは、なし崩し的に入会させられた後のことだった……。
※ ※ ※
『……って事なんだけど、聞いてる?』
「え?」
どうやら、予想以上にぼぉっとしていたらしい。
「あ、ごめん。ちゃんと聞いてなかった」
『もう、しっかりしてよ』
「ごめんごめん。――で、何?」
『だからぁ、今度こそ部に昇格させるために、ちゃんとした活動成果を出したいのよ。夏は霊の季節でしょ? 綿密な案を練るには今しかないのよ。それで、集まって話をしようって言ったの』
「うーん。だからって、今日しかないっていうのは言い過ぎじゃないかなあ」
『でも、結局学校では決まらなかったじゃない。四月、五月はもう過ぎちゃったわよ?』
「そうだけど、でも、わざわざ休日に集まるのは……」
『で、会議場所なんだけど』
「無視!?」
萌は思わず大声になった。
『いつも通り、百万石の家だから。今から三十分後に集合ね』
「いや、そう言われても……」
『――あ。もしかして今日、どうしても外せない用事とかあった?』
「うぅん、別にないけど……」
『じゃあ決定』
すかさず言い切るちえり。口を挟むスキがない。
『待ってるからね』
流麗な台詞の余韻を残して、電話はあっさりと切られた。
萌は、受話器を胸に持ったまま天を仰ぐと、脱力感たっぷりに溜め息をついた。
「なあに、萌ちゃん。お友達から電話?」
「――うん、まあね」
萌は弱々しく幸子に微笑みかけた。
「ちょっと、百万石……じゃない、加賀君の家に行ってくる」
二年に上がって同じ学級になった加賀俊平。彼こそが、ちえりに入会させられたもう一人の会員である。ちなみに、研究会に三年生はおらず、数人いる一年生は幽霊会員ばかりだ。「オカルトだけに幽霊も多いよな」とは俊平の弁である。
「お昼はどうするの?」
「うーん、多分いらない。ファミレスかどっかで適当に食べることになると思う」
「遅くなりそうだったら電話してね」
「はーい」
萌は二階に上がって、若草色のシャツに茶色の長ズボンという格好に着替えると、幸子に「いってきまーす」と言い残し、加賀邸に向かって歩き出した。
昨夜降った雨の影響で、道には所々小さな水たまりが残っている。通勤通学から外れた今の時間は、人通りも少なく、普段見慣れた灰色の塀や電柱もどこか新鮮に映った。
――百万石の家は、ここから十五分ってとこか。もっとも、入ってから俊平の部屋に着くまでに三分かかるんだけどね。
萌は目的地の屋敷と付近の家々とを頭の中で比較して、その桁違いの大きさに改めて苦笑した。
俊平の父親は、不動産によって財を成した、いわゆる成金という人種であった。バブルの荒波もなんとか収支ゼロ程度で乗り切り、家賃収入を得ては新たな物件を仕入れるというのを繰り返した挙げ句、今や十数個のマンションを始めとする数多の物件のオーナーになっているらしい。「賃料で稼げば、あとは寝ててもお金が入ってくる」と俊平は話していた。スケールが大きすぎてさっぱり実感が湧かないが、自宅周りのセキュリティが異様にしっかりしている事と、結構広いと思っていた萌の家が楽々四つは入る庭付き一戸建てという訳の分からない物件に住んでいる事から、なんとなく凄さの一端は垣間見ることが出来た。エレベーターがある家の実物を見たのも初めてなら、お手伝いさんがいる家も初めてである。つくづく、金持ちの底知れなさを教えられた。
本当、お金ってあるところにはあるよね……。
萌はそんな事を考えつつ、加賀邸への道をぶらぶらと歩いていた。
そんな時である。
「――何だこりゃ?」
曲がり角を折れた直後、萌は道の真ん中に堂々と突っ立っている古ぼけたこけしに目を留めた。
こけし……そう、丸っこい頭と円筒形の胴からなる、木製の人形玩具である。目の前に直立していたのは十五センチほどの細長い形状のもので、切れ長の目におちょぼ口という、純和風のおすまし顔でこちらを見ていた。どこからどう見ても、こけしに間違いない。
ただ、面白いことに、おかっぱ頭の色といえば普通は黒をイメージするが、このこけしは紫だった。胴体の色も、木目の上から薄紫に着色されているようである。
ふぅん、珍しい配色だけど、どうしてこんな所に……。
萌は訝しんだが、少し離れた場所にあるゴミ捨て場に目を留めて合点がいった。
おそらく、古くなって廃棄されていたものを、近所の子供が面白がって拾い出し、道の真ん中に立てたのだろう。で、そのまま子供はどこかに行ったが、こけしは偶然倒れずに残っていたのだ。
萌はこけしを持った。やはりというべきか、微細な傷が目立つ。萌は推測があっている事を確信すると、まだ未回収だったゴミ捨て場のビニール袋の隙間からこけしを押し込んだ。
ふぅ、これでよしと。
萌はパンパンと手を払うと、手の甲で汗を拭った。
その瞬間。ありえるはずのないモノが視界に飛び込んでくる。
「――え?」
萌が拭った右手。その手には、さっき捨てたはずのこけしがすっぽりと収まっていた。
あまりに自然すぎて、始めのうちは意味が分からなかったが、確かに捨てたのにと思った刹那、背筋にぞくりと寒気が走る。
普段と変わらない町の静寂が、急に薄気味悪いものに感じられた。ふと、右手に持ったこけしと目が合ってしまい、軽く悲鳴を上げて投げ捨てる。アスファルトの地面に当たって乾いた破裂音をたてた紫色のこけしは、数メートルほど転がったのち、何の変哲もなく静止した。
萌は、先程捨てたはずのゴミ袋の中を急いで検めたが、こけしの姿は無かった。つまり、たった今投げ捨てたのが、さっき袋に突っ込んだはずのこけしで間違いないのである。
つ、疲れてるのかな……。いや、汗でひっついたんだ。――そうさ、ひっついて、たまたま離れなかったんだよ、きっと。
萌は胸に手を当てて小刻みに呼吸したのち、静かにこけしの傍にしゃがんだ。そっと掴み、今度こそしっかりとゴミ袋の中に入れる。手に持ってない事を改めて確認したのち、袋の口をきつく縛り直す。半透明の袋には、確かに紫色のこけしが入っていた。
――ふぅ。オカ研に入ったせいで、こんな些細な事にも敏感になっちゃってるんだな。苦手なんだよ、気味が悪いのは……。
萌は怖くなって、そそくさとその場を後にした。
こけしが手に戻ったなんて、そんな馬鹿な事があるはずない。
萌は頭を振りつつも、加賀邸につくまで、右手をずっとグーの形にしていた。
手の平にじんわりと汗が滲む。心臓は依然として、激しく脈打っていた。




