5-3 読み合いの果て
「なっ……!?」
萌が叫んだ瞬間、辺りは紫の閃光に包まれ、爆音が鳴り響いた。萌は続けて「コーチ剣!」とも叫ぶと、片目を開けたまま一目散に左前方にある階段へと駆けていく。ラヴィにではない。ラヴィにさえ向かわなければ、障害物は何もない事は確認済みだ。
視界がほとんど利かないが、思い切って全力で疾走する。
目が慣れてきて、階段を下りる寸前に振り返ると、ラヴィは人型を崩し、大きな水溜まりのような姿で地面に広がっていた。
やっぱりだ……。いきなり突っ込んでいたら、足が触れた途端に口を塞がれて、一巻の終わりだった……。
萌は階段を駆け下りて道に出ると、右側へと折れた。そのまま博物館と学校の間にある道を全力疾走する。
こけしも剣も、鮮血のような赤に染まっている。これが力の開放ということらしい。
――穢れた力だ。
萌は一蹴し、代わりにラヴィ対策を練り始めた。
触れただけで成仏と言っていたが、あれは記憶が戻る前のことだ。大妖怪らしいから、コーチ剣だけでは多分一撃で倒せない。ラッキーヒットで倒せるなら、あそこまで余裕綽々の態度はとれないからだ。今のハリマヤ・ボンバーでも大してダメージは無かったようだし、決めるとすれば、やはり必殺技だ。アシズリムロト・スラッシュ……。くそっ、結構長い技名だ……。せめて「あー」ぐらいなら、刺し違える覚悟で何とかなるのに……。
「待てぇっ!」
亀の上に人が立つ銅像を左手にやりすごしたとき、背後から声がした。もう人間体に戻ったらしい。速い。
「一度力を解放すれば貴様など要らんのだ! しかし、私は寛大だ! 吸収などせん! それを寄越して恭順の意を示せば、お前だけは見逃してやる!」
萌は、しっかりとこけしを握り締めた。
「それにな、どこまで逃げても匂いで追えるのだぞ! どこへ行こうというのだ!?」
萌は構う事なく、出た先の横断歩道を渡り、左側のごみごみした裏道へと入って行った。
今日はとても暑かった……。なら、必ずあるはずだ。
果たして、萌の予想通りにあった。
とあるマンションの前に打ち水がしてあった。角を曲がった所には、水道のホースとバケツが置いてある。
後ろを見ると、ラヴィはまだ来ていない。ひたすら曲がってきたため、視界内にもいない。ほんの僅かだが、距離が出来たらしい。
萌は素早く服を脱いで上半身裸になると、頭から思い切り水を被った。誂え向きに非常階段もあったので、濡れないよう蛇口裏の芝生に服を置き、音がしないよう階段を駆け上がる。
――匂いで追うと言ったな。じゃあ、これはどうだ。今日のシャツはよく汗を吸っている。水を被った僕よりも嗅ぎやすいだろう。
ほんの二秒でいい。お前が角を曲がって、僕がいない事に気付いた瞬間、手すりから乗り出して必殺技とともに斬りつける。たった二秒騙せればいい。
さほど遠くない場所から、ラヴィの歩いてくる靴音と声がした。
「裏道か……? 貴様はこの辺りの地理に詳しいのか? 袋のネズミだ、馬鹿め!」
そのとき、ラヴィの動きが止まった。萌の脈拍が上がっていく。
大丈夫だ……。信じろ、落ち着け……。
萌は深呼吸をした。水で滑らないよう、ズボンで手とこけしをしっかりと拭く。
やがて、匂いを嗅ぎ終えたのだろう、ラヴィのゆっくりとした足音が再び聞こえてきた。
「おやおやぁ……? どこに行ったのかなぁ?」
獰猛な笑みが目に浮かぶようだ。しかし、角を曲がる前に宣言したという事は、向こうはほぼ確実に「萌は角に隠れている」と思っている証拠でもある。こけしを握る手に一層力がこもる。
――捕獲準備は万全ってわけか。いいさ、匂いの元はすぐそこだ。来いよ。
逸る気持ちを押さえて、一歩一歩の音を聞いていく。頭の影が見えた。あと三歩という所だ。実物が顔を出した瞬間に飛び出す。覚悟はとっくに出来ている。
しかし、この土壇場に来て。
――ああ、そんな……!
スマホから、エルガーの「威風堂々」が流れてきた。
――くそっ! 自棄気味に萌は電話を受ける。
ラヴィは音が鳴った途端、ピタリと歩みを止めた。何も喋りかけてこない。
人物ごとに音楽を変えていたため、受話器を耳に当てなくても大和からの電話だというのは分かった。しかし、いかんせんタイミングが悪すぎる。
――どうした、電話ぐらい誰でも使ってるさ。さっさと来い!
しかし、無情にも、ラヴィの影は少し道の奥側に寄った。
そして次の瞬間、黒ゴシック服を着た腕が覗く。
手には、ちえりのコンパクトが収まっていた。
息を殺していた萌は、それを見下ろして硬直した。
コンパクトの角度があれこれ変えられてピタリと止まった途端、高笑いが響き渡る。
「水も滴るいい男だな、モエモエ」
――失敗した!
萌は全身に寒気が走り、よろよろと後退った。
あれほど繋がらなかった電話が、このタイミングでかかってくる……。しかも、必死に潜伏していたのに「堂々」とは、神様はよほど皮肉が好きなようだ。
「角に潜伏しているよう思わせて、上から奇襲か……。なるほど、切羽詰まった中で考えたにしては、なかなか良い作戦だったな」
ラヴィが賞賛した。
「知謀もある、行動力もある、度胸もある……。でも、悲しいかな……。運がない」
ラヴィも非常階段を上ってきた。一段一段響く音が、死の旋律として萌の耳元に届く。
――飛び降りるしかないか? でも、体を自在に変化させるような相手だ。空中で刺されたりするかもしれない。隙を狙って飛び降りないと……。
『……、……萌!』
萌はそのとき、大和がずっと喋っている事に気付いた。
そうだ、近ければ駆けつけてくれるかも。
萌は急いで受話器を耳に当てた。
「兄さん、今どこ?」
『おお、ようやく繋がったか! こっちは今、蔵前橋の上だ』
つまり、隅田川沿いに走っていったということだ。川から離れた萌にとっては絶望的な距離である。
非常階段からマンション内部に入ろうと試みた萌だったが、無情にも扉は開かなかった。鍵がないと開かない仕組みになっているらしい。萌はひとまず上に逃げた。
『実はな、萌。このレディが気になる事を言ったのだ。その確認をしたい』
「何? こっちは今それどころじゃ……!」
『聞け』
有無を言わさず大和が話し出した。
話が進むうち、萌はペタリとしゃがみこみ、知らず知らずのうちに涙が溢れだした。ぶつぶつと呟いたのち、涙は全く止まらなくなる。
『大丈夫か、萌?』
ずっと喋っていた大和だったが、萌の返事がないのを不思議に思ったらしい。
「うん、大丈夫……。聞いてる、聞いてるよ、ちゃんと……」
萌は鼻声で答えた。
すでに逃げる気は失せている。最早そんなこと、どうだって良くなっていた。
非常階段をゆっくり上っていたラヴィは、一つ下の踊り場までやってきた。
「おやおや……、泣いてしまったのかい? どうやら、今のが最後の策だったようだね」
ラヴィは饒舌に喋りだした。
「不意を打てない限り、君が必殺技を言い終わるよりも私が口を塞ぐほうが早い……。諦めろ。そして、今のうちにたっぷりとこの世にお別れを告げるといい」
萌はぎこちない笑顔を作った。
「僕が言うのは、そんなに長い言葉じゃないよ……」
「はて」
ラヴィは首を傾げた。
「では、何だ?」
「『コーチ剣、終了』!」
萌が叫ぶと、剣は消えた。ラヴィは目を見開くが、すぐに嘲笑する。
「一度力を発揮すれば、あとは剣を消しても継続されるのだぞ? その証拠に、こけしは赤いままだ」
「別に問題ないよ。今のは準備だもの、魔法の言葉を言うためのね」
「何っ?」
「じゃあ、言うよ」
萌は呼吸を整えると、こけしの顔をラヴィに向けた。
「『けんぴビーム』」
その途端、こけしの目から芋けんぴのような細長いビームが何本もラヴィに当たった。
「いてっ、いててっ、いてっ」
ラヴィは手で必死に遮っている。地味に痛そうだ。
「お、お前……。いつの間にこんな技を……?」
「他にもあるよ。ここではやらないけど、『黒潮スプラッシュ』とか『よさこいダイナマイツ』とか。うっかり反応すると困るから、剣を消したけどさ」
「あ、あっ……あれぇ~?」
ラヴィはさっきまでの極悪な表情も忘れ、こめかみをぽりぽりと掻いている。
「もしかして……聞いちゃった?」
「うん、聞いた」
萌は涙を流して笑った。
「ぜーんぶヤラセだってね、宇宙人さん」




