5-2 シキ
白タイルの上の広大な空間には、見渡す限り誰もいなかった。
右手の方には両国駅のプラットホームが見える。間を遮る建物もないため、列車の発車する際の音がよく聞こえてきた。
「ここを墓標と定めたわけか。――なるほど、荘厳だな」
ラヴィは振り返り、白く巨大な建造物を見上げた。
「ま、これにふさわしいほどの大人物かどうかと言うと、そうでもなさそうだが」
「うっせ……」
ラヴィは全く息を切らしていない。やはり狩猟者は手加減していたらしい。口は悪辣で容赦無かったが。
「さてと……。そろそろ喋るのも飽いた。俊平よ、ちえりを差し出せ。今の私は頗る気分がいい。お前の努力に免じて、大人しく献上すれば、お前だけは殺さずにいてやるぞ?」
ちえりの出血は止まったようだが、ぐったりしている。気を失ったようだ。
「俊平っ……」
萌は俊平の様子を窺った。俊平は、真剣な眼差しでラヴィを見据えている。
「随分と、サービス精神旺盛なんだな……」
「今頃気付いたのか? 寛大な心の持ち主なんだよ、私は」
「嬉しいぜ」
微笑んだ俊平は、背負っていたちえりをゆっくりと地面に下ろした。
「俊平?」
萌が驚愕の表情を浮かべるのとは対照的に、ラヴィは極めて満足そうな笑みを浮かべた。
「実に……、実に賢明な判断だよ、俊平……。では、エスカレーターに乗って下りていけ」
「その前によぉ……、慈悲をくれたラヴィ様に、感謝してぇんだ」
「ほほぉ、殊勝な心掛けだな。それでは、靴でも舐めてもらおうか」
「畏まりました、ラヴィ様」
「俊平っ……!」
萌は悲痛な顔でラヴィに近付く俊平を見ていた。
制止しようにも、自分にそんな権限はない。到底守られるとは思えない口約束でも、じゃあ逆らえと命令する権利はないのだ。
しゃがみこもうとして俯いた俊平は、ふと動きを止めた。
「んむ? どうした、俊平?」
「靴を……」
「そうだよ、靴だ。這い蹲って舐めてくれると、身悶えするほど嬉しいぞ」
俊平は顔を上げた。拳を固く握り締める。
「舐めるのは、よぉ……」
俊平の左足がふわりと上がる。
「テメエだ、ラヴィーッ!」
俊平渾身のハイキックが、ラヴィの顔面に思い切り炸裂した。
ラヴィが吹っ飛ぶのと同時に、俊平は雄叫びを上げる。
「俊平!」
「へっ……。元サッカー部、左SBの実力を見たか!」
強がっていたが、体は震えている。息も荒い。
「俺は船だ……。行かなきゃならねえときは、どんな大時化でも航海に出る! そういうもんだろ!」
「蛮勇だな」
萌と俊平はぎょっとした。倒れたラヴィの輪郭が崩れ、足下からヌルヌルと液状に蠢きながら形作られていき、足、腰、胴、肩、腕、そして頭と出来上がっていく。白服から一転、今度は黒ゴシックだ。
「それは、桃源郷どころか、深淵へと続く棘の道だよ……? すぐに後悔する」
首を高速回転させてピタリと正面で止める。手にした紫の槍が毒々しい。
「俊平よ……、お前が旅する海はない。あるのは三途の川だけだ」
「うるせぇ! タダでやられてたまっかよ!」
「――四万十ストリーム・ヴィヴァルディ《四季》『冬』」
ラヴィが流麗に呟いた途端、弦楽器の音が聞こえてきた。寒々しさを感じさせる音色だ。
「お前へのレクイエムだ」
「へっ……四季と死期をかけてるのか? くだらねぇ!」
「よせ、俊平!」
そこから先の動きは、ひどく緩慢に見えた。叫んだ直後、俊平にラヴィの槍が袈裟懸けの要領で振り下ろされる。為す術なく食らう俊平。棒立ちのまま、体が左右に振れる。
「しゅ……俊平っ!」
萌が叫ぶと、俊平はスロー再生のようにゆっくりと振り返った。
「へ、へへっ……。何だよ、虚仮威しもいいところじゃねえか……」
首から下を見た途端、萌の鼻にツンときた。歯を食い縛って堪える。
「なぁ、萌……。こいつ弱いぞ。お前反対側に回って、挟み撃ちだぜ……」
「俊平……」
「だからよ、萌……。その顔やめろって……。まさか、俺の格好良さに惚れたか……?」
「しゅ、俊平……」
もう限界だった。目から滂沱の涙を溢れさせた萌は、小刻みに頭を左右に振りつつ俊平の腹部を指差す。
怪訝な顔をした俊平が、恐る恐る手を当てると、そこにべっとりと血糊が付着した。
「なんじゃあ、こりゃー!」
呆然とした顔で、がくんと膝をつく俊平。そのまま横に倒れ込む。
萌は大声で俊平の名前を連呼しつつ、駆け寄って手を強く握り締める。
「俊平! 俊平!」
「知らなかったぜ……。今日が、俺の命日だったなんてな……」
「もういい! 喋るなっ、俊平!」
俊平は浅い呼吸を繰り返していた。綺麗なクリーム色のシャツには、柘榴を剥いたような赤が飛び散っている。
「驚いたぜ……。別に、痛くねぇんだもんなぁ……」
「……ッ!」
萌は、人に痛覚があるのは、無理な動作をしないためという話を耳にしたことがあった。
――とすれば、今痛みを感じないのは、もう、その必要がないから……? 生きる見込みが、ないから……!?
萌は感情の濁流に呑み込まれていた。
「でもよぉ……」
俊平の声は小さくなった。
「その代わり……。滅茶苦茶、眠い……」
「寝ちゃ駄目だ! 寝たら……!」
その続きが、萌にはどうしても口に出せなかった。
俊平は優しく微笑んだ。
「お前は『こけしマン』だろ……? なら、兄貴みてぇに強くなれよ……」
俊平は激しく咳き込んだ。
「よく聞け……。俺が斃れたら……、奴はお前にこけしを渡してくる……」
「僕でなきゃ、力を引き出せないからだね……?」
萌は頷きつつ、鼻を啜った。
「でも、決して怒るな。平常心を保て……」
「で、でも……」
「よく見ろよ、怒ってこのザマだ」
濡れた手を震わせつつ、俊平は自嘲した。
「あぁ、くそ……。眠い……」
俊平は顔を覆った。手の隙間から涙が見える。萌もまた、とめどなく涙が溢れ出す。
ひび割れた俊平の唇は、最後の力を振り絞るように、弱々しく言葉を紡いだ。
「ち…………、え、り……」
その直後、満足したかのように手が力無くこぼれ落ち、顔に紅い線が引かれた。安らかな顔だった。
打ちひしがれた萌は、よろよろと立ち上がった。
ひどく寂しい場所に思えた。――今立っている場所がではない。
この、世界が。
「人生は歩く影、哀れな役者に過ぎぬ」
背後から、ラヴィの澄んだ声が聞こえてきた。
「ほんのいっとき舞台の上で、見得を切ったり喚いたり、而して後は消えるだけ」
萌はゆっくりと振り向いた。
「マクベスだよ、これは……。惨めな彼に、ピッタリだと思わないか?」
「……」
霧散した萌の感情が、静かに集まり始めた。この身が燃え尽きそうなほどの憤怒。しかし、今は爆発させるべきではない。エネルギーを蓄積させるだけだ。
ラヴィは小馬鹿にしたように笑った。
「おやおや……、第一楽章アレグロ・ノン・モルトは終わってしまったようだね……。『四万十ストリーム・終了』」
音楽はたちまち鳴り止んだ。ラヴィは『シェイク・スピアー、終了』とも呟くと、こけしを萌に放り投げてきた。
「これはサービスだ。武器無しでは可哀想だからね。敵討ちに来るといい」
萌はこけしを受け取った。俊平を葬り去った、忌まわしき物体だ。
――平常心を保て、か……。
萌はこくんと頷くと、俊平の重たい体を引き摺って、ちえりの手と重ね合わせた。
最後の言葉、これでいいよね……?
萌は空を見上げた。何の変哲もない空だが、堪らなく愛おしかった。ポケットティッシュを取り出すと、涙と血糊を拭いてくしゃくしゃに千切る。
俊平の意志、無駄にしないよ……。必ず倒す!
「さぁ、そこの無様なモノなど放っておけよ。私を倒す大チャンスだぞ?」
萌は真正面からラヴィを捉えた。
――行くぞ!
萌はさっとティッシュを耳に詰めて叫んだ。
「ハリマヤ・ボンバー!」




