5-1 狩りの時間
灼熱の太陽の下でも時間は凍り付く。そんな簡単な事を、まざまざと思い知る羽目に陥った。
「――え?」
ちえりが腹部を押さえて地面に倒れ込む。何が起きたのか分からない、そんな顔だ。
萌も、絶句という言葉すら生温いほど、脳内の思考が停止した。
白昼夢を見ているような感覚だった。大和が突然目の前に出現したとき以上に、信じ難い、ありえない光景だ。
「ラ……ヴィー!」
俊平の怒号が響き渡った。
「何やってんだ、お前ーっ!」
咆吼しながら慌ててちえりに駆け寄る俊平。傷口は小さいが、服にはべっとりと血糊がついている。焦げ臭い、肉の焼けた匂いが鼻をついた。
「何をした……、だって? 簡単な事さ」
ラヴィは、ネジが三本ほど外れた殺戮者のような笑みを浮かべた。
「敵だから刺した。それだけだよ?」
「……!」
萌の足が独りでに震えた。あれだけ暑さを愚痴っていたはずなのに、物凄く体が寒い。
「ば、馬鹿な……!」
俊平も、たったそれだけを言うのに随分と時間がかかった。
「お前が……、敵、だと……?」
「そう。東京は港区、麻布狸穴町生まれの極悪狸。それが私の正体さ」
ラヴィは恍惚とした表情を浮かべつつ、ゆっくりと語り出した。
「今を遡ること二十五年前――。当時すでに大妖怪だった私は、より強大な力を得るため、このこけしを手中に収めんとした……。しかし、前のこけし保有者は大層頑固でね。まあ、所詮私の敵ではなく、倒す寸前までいったのだが……。いやぁ、人間というのは追い詰めると怖い怖い。命と引き替えに、封印を施そうとしてきたんだよ。こけしに封印されたら、清純な存在以外は消滅の憂き目に遭ってしまうからね。流石の私もそれは避けねばならない。そこで、先手を打って、自らに偽記憶を植え付けたわけさ。悪事の記憶さえなければ私も消滅せずにすむ、そう考えてね……」
ラヴィは川沿いの柵に悠然ともたれかかった。
「無論、本物の記憶はこけしの封印が破られたときに思い出せるよう、ちゃんと暗示をかけた。これは賭だったが、思い出すのがやや遅かった以外は見事に勝利したようだな」
質問したい事が口に一気に殺到して、うまく喋れない。
ラヴィが敵? あのラヴィが?
傍若無人ながらもどこか憎めなかったラヴィ。ハンバーガーをパクパクと食べていた無邪気なラヴィ。素敵な笑顔を見せてくれたチャーミングなラヴィ。朝出現してから、あっという間に三人に馴染んだ人懐っこいラヴィ……。
「――嘘だっ!」
萌は感情を爆発させた。
「お前はラヴィじゃない! ラヴィに乗り移った悪霊だ! 早くラヴィを返せ!」
「いいや、違うね……。悪行の限りを尽くした大悪党こそがラヴィの本性だ。仲良く戯れていたのは仮初めに過ぎんのだよ。ご愁傷様だな、萌くん。いや、モエモエ」
ラヴィはさもおかしげに哄笑すると、穂先を萌に向けた。
「『シェイク・スピアー』は持ってる者の言葉にだけ反応する。攻撃対象は人間でも構わない。マハ・ラッカはただ純粋にこけしの力を欲していたようだが、そんなものは児戯にも等しい、いわばオマケに過ぎん。真価を発揮するには、生け贄を捧げねばならんのさ」
「生け……、贄?」
やけに生々しい単語の登場に、萌は唾を飲み込んだ。
「この武器はまだ未完成だ。誰か人間を屠ることによって、初めてこのこけしは深紅に染まり、莫大な力を放出するのだよ。まあ、選ばれた者にしかその力は引き出せんから、つまりはモエモエごと吸収して、我が血肉となるわけだな。光栄に思えよ?」
「――ふざけるな!」
萌は思い切りラヴィを突き飛ばした。よける気がなかったのか、ラヴィはぺたんと尻餅をつく。妙に可愛らしい仕草だったが、今のラヴィは気味の悪い笑みを顔に貼り付け萌を凝視している。うすら寒くなる光景だ。
「俊平!」
「任せろ!」
萌が振り返りざま叫ぶと、俊平はすでにちえりを背負っていた。萌と俊平は一目散に大和が走っていった方向へと駆けだしていく。
「追い掛けっこか? いや、これは狩りか! ふはははは、面白い」
ラヴィの声が背後から迫ってくる。
「逃げ切れると思っているのか? とくに俊平! お前はいわば、苦悩の錘を背負って走っているようなもの! さっさと捨ててしまえよ! 楽になるぞ!」
「俊平! 耳を貸しちゃ駄目だ!」
「うるせっ! 分ぁってら!」
体力の消耗が激しい。萌はまだしも、俊平はあっという間に息が上がっている。それでも追いつかれない理由は、追跡者が全く本気を出していないからだ。
「電車だ! 電車に乗ろう!」
「ほほぉ~、良い考えだ」
ラヴィの甘美な声がした。
「お前達が乗ったせいで、脱線しなければよいなぁ。ん?」
「……っ!」
――こいつは、ただ遊んでいるわけじゃない……。ひどく狡猾だ……。
萌は戦慄した。
こっちの精神を磨り減らして……、いたぶり抜いてからトドメを刺すつもりだ!
遮二無二走った萌達が大通りに出ると、タイミングよく信号が青に変わった。ひとまず両国駅西口へと逆戻りしたが、電車やタクシーといった交通機関にはとても乗れない。今のラヴィなら躊躇無く線路を切断したり車を横転させて、大事故を引き起こすだろう。
「こっちだ、俊平!」
萌が先導しながら、必死の疾走が続く。しきりに大和に連絡を取ろうとしている萌だったが、留守番サービスに繋がるだけで一向に話せない。
「鳴る、ように……とけ……」
「着メロが鳴るようにって? わ、分かった!」
いつ連絡が来てもすぐに分かるように、萌は素早く着信音の設定を変更した。
駅の西口から国技館を右に折れていくと、長い上りエスカレーターが目に飛び込んできた。俊平を見ると、未だに走れる事が奇蹟に思えるほど汗だくで、顔面蒼白だ。限界などとっくの昔に通り越しているだろう。横にある大階段を尻目に、萌は迷わずエスカレーターに飛び乗った。俊平も何とか辿り着くと、手すりに倒れるようにしてもたれかかる。
「あぁ……。駄目だ……、足痛ぇ……」
そんな俊平の耳元で、背負われたちえりが蚊の泣くような声で囁いた。
「ごめ、ん……、俊平……」
「うっせぇ、黙れ……!」
「あたしが、こんな……」
「だぁら……! 怪我人はよぉ……。黙って、ろぃ……!」
俊平はゲホゲホと激しく噎せた。
萌はなおも電話を掛け続けるが、大和には繋がらない。向こうも死闘の真っ最中なのか、あるいはとんでもない奥の手を食らったか……。嫌な予感ばかりが頭をちらつく。
エスカレーターは段差のないスロープ状になっていたため、摺り足のように前へと進むことが出来た。長いエスカレーターを何とか上りきると、そこには江戸東京博物館の大きな建物がある。
「有明に浮かんでる奴に……、どことなく似てるなぁ……」
こんな時にもかかわらず、俊平は軽口を叩いた。少しは回復できたらしいのは良い事だ。
しかし、悪い事もあった。
「なぁ、おい……。お前もそう思うだろ、ラヴィ?」
横の階段を使って先回りしていたのだろう。ラヴィは口角を上げ、獣の牙を覗かせた。




