1-1 萌姉ちゃん
萌が木製の手すりをつたって一階に下りていくと、学校組の二人が長テーブルに仲良く並んで座っていた。胡麻バターをたっぷり塗ったトーストを美味しそうに食べている。
「あ~ら、誰かと思えば、萌様じゃございませんこと。ホホホ」
千種が早速、鼻にかかるような声で話しかけてきた。
「貴方様は、もう少し遅いお目覚めでも宜しかったんですのよ?」
「よく言うよ、姉さん……」
萌は千種を恨みがましい目で見ながら向かい側の席に着いた。
少し茶色がかった肩までの黒髪に、目鼻立ちのはっきりとした顔。睫毛は長く、少し伏し目がちにすると憂いを帯びた表情に早変わりする。きちんと白い制服を着こなして優雅にミルクティーを飲む様は、まるで深窓の令嬢といった様相を呈している。
「はぁ、おいし」
そんな雰囲気をあっさりと返上した千種は、飲み干したティーカップを静かにテーブルに置いた。
「萌、もう一杯」
「えぇっ? ポットはすぐそこにあるじゃないか。飲みたいなら自分で注げばいいだろ」
「萌のほうが近いじゃない。ちょっとの距離なんだから、ガタガタ言うんじゃないの」
「――ひでぇ」
「何か言った?」
「え? 何か聞こえた、姉さん? 俺には聞こえなかったけど」
萌はわざとらしくはぐらかしつつ、白地に花柄模様のついたティーポットで千種のカップに紅茶を注いだ。牛乳パックは千種の手元にあったため、そちらは自分で注いでいる。
「あ、萌姉ちゃーん、あたしにもお願い」
「あのなぁ、亜里紗……」
萌はこめかみを指で押さえた。
「呼び方を直したら、注いでやってもいいぞ」
「いいじゃん、萌姉ちゃんで」
「よくない! 俺は兄ちゃんなの。男、兄さん、男性。分かった?」
「――うっわ~っ」
亜里紗は露骨に顔を顰めた。
「妹相手にムキになっちゃって、萌姉恥ずかし~」
「ふっ……。必死ね、萌」
「どうしろってんだよ……」
萌は両目を閉じ、拳を握り締めた。
亜里紗は髪をおさげにして、ピンクの小さなリボンをつけていた。本人曰く、「最近のお気に入り」らしい。両手を組んで「お願ぁい」と頼む様子は、身内の贔屓目を抜きにしてもそれなりに可愛らしいが、流石に毎日ともなれば鼻につく。
「ちゃんと呼べ、亜里紗」
「萌、兄ちゃん」
「よし」
萌は真面目腐った顔で亜里紗のカップに紅茶を注いだ。
「う~ん。でも、萌兄って何か言いづらいよねぇ」
亜里紗はテーブルに肘をつき、人差し指をくるくると回した。
「うんっ。だからやっぱり萌姉ちゃんね。萌姉ちゃん萌姉ちゃん萌姉ちゃん萌姉……」
「うるせぇー!」
今まで何度となく繰り返されたやりとりだ。それもこれも、「萌」という名前をもった宿命かもしれない。「浩美」や「正実」などといった男性がテレビに映るたびに、「きっとあの人達も苦労したんだろうな」と、彼らの子供時代をしのばずにはいられなかった。
「あらあら、賑やかね」
システムキッチン型の台所から、母の幸子がやってきた。
「はい、ちーちゃん。お弁当」
「ありがと、お母さん」
千種は恭しく弁当の包みを受け取ると、そっと手提げ鞄にしまった。
幸子はもう片方の手で、二つのカップの把手に指を通していた。こちらは、萌と幸子自身の分だろう。
すでに四十代にもかかわらず、千種の姉といっても十分に通用する容姿を保っている母幸子。見た目も華奢で、とても四人の子持ちとは思えない。
元アイドル、か……。本当、母さんって、俺が物心ついたときから全然歳取らないよね。
萌はトースト二枚に薄く胡麻バターを塗ると、一枚を手に取って一口囓った。
「萌ちゃん、お早う」
「うん。お早う、母さん」
萌は挨拶した。と同時に、ふとやり場のない怒りが胸に去来する。
名前を決めたのは萌の両親――すなわち、母の幸子と父の信太郎であった。もちろん、二人が意地悪でつけたはずがない。五月に生まれたため、「草木が芽を出すように、元気に育ってほしい」という願いを込めて付けられたのだ。それはもう、耳にタコが出来るほど聞かされた。疑う余地はない。
名付けられた当時は、多少女の子っぽいものの、特にどうということはない名前だった。他人に付けられていたとしても、「ふぅん」と言う程度で、気にも留めなかっただろう。萌自身、今でもその気持ちはある。
ただ、この十四年の間に、萌を取り巻く世界が大きく変わってしまったのだ。
「ごめんなさいね」
「え?」
不意に謝られ、どきりとする。
「お母さんね、今日は萌ちゃんの学校がお休みっていうの、忘れてたわ」
「あ、あぁ……」
名前について謝罪したのかと思った萌は、安堵の息をついた。
「うぅん、俺のほうこそ、母さんに言うの忘れてた。ごめん」
そう言って、もう一口囓る萌。
多分、バカ姉に言っただけで済ましてたんだな。一番言ってもしょうがない相手に。
萌は自分の愚かな行為を振り返って、自嘲気味に笑った。
瞬間湯沸かし器が白い湯気を激しく噴きだした後、カチリと音を立てる。沸騰した合図だ。萌は席を立ってそれを持ってくると、ティーポットの蓋を開けてお湯を注ぎ足し、ティーバッグを二つ入れた。きっかり二分後に速やかに廃棄。岩崎家のルールである。
そのとき、やけに軽快な電子音でラデツキー行進曲が鳴り始めた。
「お父さんからだわ」
幸子がいそいそと箸立ての脇にある子機に向かう。
「あ、いいよ。俺が取る」
萌は湯沸かし器を戻すと電話を取った。
「はい、もしもし」
『オ~ゥッ! グッドモ~ニン、エブリバ~ディ』
――ピッ。
萌は無表情で電話を切った。
「萌……。あんた、切るの早すぎ」
千種が苦笑した。
「お父さん、しょげるわよ?」
「いや……。なんか、いつにも増して脳味噌が蕩けそうな声だったから」
「何それ。ひどい奴ねぇ」
「お兄ちゃん、最低~」
「こんなときだけマトモに呼ぶなっ!」
萌は亜里紗をキッと睨んだ。
すぐさまコール音が鳴った。今度はちゃんと電話に出る。
「お早う、父さん」
『はははは、恥ずかしがり屋さんだなぁ、萌は。父さんちょっぴり、ハートブレイクだったぞ?』
嘘だ嘘だ、泥棒の始まりだ。
萌は再び電話を切りたい衝動を何とか堪えた。
「あのさぁ。いつも思うけど、朝っぱらから無駄にテンション高いよね、父さん……」
『いや~、そりゃもう、半日近く時差があるからな』
「ニュージーランドだよね、そっち?」
『う~ん、切れ味鋭いツッコミだぞ。タイミングもばっちりだ』
「そりゃあ、何度も言われりゃあね……」
ほんの十数秒のやりとりにもかかわらず、萌は早くもげっそりとしていた。
お笑いコンビ「フニフニ一家」としてブレイクした、「シゲっち」こと片山茂吉と、「シンちゃん」こと岩崎信太郎。彼ら二人は、妙なキャラ同士のやりとりによるシチュエーションコントを得意としており、「魔王とケント」や「店員」シリーズ、はたまた「揉み師カタヤマ」など数々のレパートリーを持っていた。現在は、コンビとしての活動はあまりなく、シゲっちはラジオのパーソナリティーとして、父は俳優としての仕事が主となっている。
『では、萌とのスキンシップはこのぐらいにしておこう。大和は帰ってないのか?』
「――大学に入り浸ってるよ」
危うく、「別に肌は触れあってないだろ」とツッコむところだった。向こうが期待してないようなことまで言ったら、冗談ではなく泣きだすだろう。嬉し泣きで。絶対にごめんである。こんなやりとり、いっぺん義理でツッコめば十分だ。
ちなみに、大和は萌の兄で、四兄妹の一番上にあたる。サークルとバイトと研究棟に出ずっぱりで、最近家には寄りついていない。彼も父に負けず劣らず個性的な人物だ。一言で表すなら「漢」である。
『そうか。では、母さんに代わってくれるか』
「分かった」
萌は幸子に電話を渡した。二、三言話したあと、千種に、そして亜里紗にも電話がバトンタッチされる。朝と夜の二回、家族との会話。もはやすっかり見慣れた光景だ。
信太郎は現在、海外のファンタジー映画の撮影中で、長期にわたって家を留守にしていた。なんでも、仲間としての一体感を出すために、「撮影中はニュージーランドを離れず、クルーと一緒に生活する」というのが条件だったらしく、旅立つさいに滅茶苦茶泣いていたのを思い出す。そういえば、信太郎は滅多に家を空けなかった。これだけ留守にするのは萌の記憶によると初めてである。
電話は一周して再び幸子の手に渡った。父から撮影時の面白エピソードを聞いているのだろう、終始笑いっぱなしだ。
「さぁて、と」
食事を終えた千種が席を立った。
「それじゃあ、行ってきまーす」
「あんまり遅くならないようにね」
受話器の口を押さえ、優しく注意する幸子。
「大丈夫よ、お母さん」
軽く手を上げると、千種は手提げ鞄を持って玄関にある大きな鏡の前に立ち、身だしなみをチェックしてから高校へと向かった。
しばらくした後、母が「じゃあね、信ちゃん」と電話を切るのと時を同じくして、亜里紗も食べ終わった。
「んじゃ、あたしもそろそろ行くね」
「いってらっしゃい、亜里紗」
「こら、亜里紗」
萌がテーブルの皿を見咎めた。
「食べたらちゃんと片付けろよ」
「萌姉ちゃんが片付けといて。可愛い妹からのお・ね・が・いっ」
「ふざけんな」
顔を顰めた萌をよそに、亜里紗はランドセルを背負うと、幸子に手を振った。幸子も手を振り返す。
「車に気をつけるのよ」
「うん、分かってるー。んじゃ、いってきまーす」
亜里紗は屈託無く笑うと、そのまま小学校に行った。
「――本当に置いていきやがった」
「まあまあ。いつもは片付けるんだから、たまには、ね?」
「それって、俺がいたからそのままにしたって事? ったく……」
萌はテーブルの上に残された食器を渋い顔で眺めつつ、二杯目のミルクティーを飲んだ。賞味期限が気になりだしたため、牛乳を使い切ろうと多めに入れたせいか、萌には少々妙な味だった。




