3-2 黒い狸
精神の消耗が著しい。とくに、ラヴィの弁舌攻撃にはすっかり疲労困憊だ。幽霊といえば、普通はその姿形に畏怖するものだが、ラヴィの場合、その艶やかで潤いのあるスミレ色の唇が、堪らなく乱暴で恐かった。
萌は手の内にあるこけしをじっと見た。頭に来るぐらいツンと澄ました顔だ。強く握り締めたところで眉一つ動かさない。おそらくラヴィは、斬ってやると脅したところで、萌の性格などとうにお見通しだろう、出来るはずがないと高を括っているのだ。そして、悔しい事に実際その通りなのである。
「これからだけど……」
躊躇いがちにちえりが尋ねた。
「敵が大挙してくるのよね? その前にきちんとした対策を講じておきたいんだけど」
「あぁ、それなら問題ない」
ラヴィが軽く請け合った。
「マハ・ラッカが空に向かって咆哮しただろ。あれは、『私の獲物に手を出すな』という宣言だ。おかげで二線級の悪党共はおいそれとはお前達に手を出せなくなったぞ。いやぁ、実に目出度いな」
「ちっとも嬉しくないのは何故かしら」
強敵だという太鼓判を押されて心が弾むようなゆとりは、今の萌達にはない。
しかし、そんな萌達とは裏腹に、ラヴィはさも意外そうな顔をした。
「気付いていないようだな。つまり、マハ・ラッカを倒せば、雑魚達は恐れをなして襲撃して来なくなるんだぞ」
「あ、それはちょっと嬉しいかも」
「だろ? そこでだ、追跡を行うぞ。奴が怪我を負っている今こそ最大のチャンスだ」
「狐狩りだね」
萌の台詞に対し、ラヴィは肯定代わりに口角を上げてみせた。
「相手がいかに強かろうが、今なら赤子の手を捻るより簡単だ。先んずれば人を制す。ましてや、追っ手が掛かることなど露ほどにも考えておらぬ狐など恐るるに足らずだ。一気に肉薄し、容赦なく殲滅。けつねうろんの出汁にしてしまおうぞ」
「話がまとまったようね」
ちえりは俊平の肩を叩いた。
「百万石。そういうわけだから準備して。出掛けるわよ」
「おぅ、土産は東京ばな奈でな」
「あなたも行くのよ!」
「何だよ、理不尽な話だな。まあ、もうすぐ前引けだから、それまで待て」
「岩崎君と株と、どっちが大事なの!」
「両方。――株って言ったら萌に失礼だもんな。心配りを忘れない俺って、渋すぎ?」
「バカ!」
怒鳴りつけたちえりは、急に馴れ馴れしい声音で語りかけた。
「そうね……。あたしとジャンケンして勝ったら、終わるまで待っててあげてもいいわ」
「おっ?」
俊平も意外に思ったらしい。
「いいのか?」
「ええ。それも、出す種類まで教えてあげる。グーよ」
ちえりは慈愛に満ちた表情を浮かべつつ、左腕を俊平の首にしっかりと回すと、固く握った右拳を脇腹に抉り込むようにして押し当てた。
「さぁ、好、き、な、の、出して」
「おいおい……。俺様、パーの二枚看板なのに、負ける気満々だぜ」
お手上げのポーズをとった俊平は、骨の髄まで戦意を喪失した。傍目でもありありと見てとれるぐらいだから、素敵な表現力といえる。いい大根役者になりそうだ。
「ったく、しょうがねえな。行くとするか」
俊平は素早くパソコンを切ると、席を立った。
「こら、幽霊。時給の高い俺を担ぎ出すんだから、場所は当然把握してるんだろうな」
「任せろ、楽勝だ」
「本当かよ」
俊平は依然として胡乱な目つきのままだ。
「俺達が無駄足踏んでも、幽霊だから足がないとかいった笑えない冗談かました挙げ句、『悪しからず』の一言で済まそうって腹じゃねえだろうな」
「う……。だ、大丈夫だ」
口調が途端に弱々しくなった。これがあるから一抹の不安が拭えない。
「ラヴィ」
萌が疲労を覚えつつ声を掛けた。
「一応訊くけど、どうやって分かったの?」
「正確には、マハ・ラッカの場所が分かったわけではない。奴の匂いを辿っていくのだ。奴はどぎつい香水の匂いを振り撒いていたから、苦もなく追跡できると踏んでいるぞ」
「そんな匂い、してた?」
「してた」
これには相当の自信があるらしい、ラヴィは力強く頷いた。
「まあ、嗅覚の錆び付いた現代人には、風に紛れて嗅ぎ取れんかったかもしれんがな」
「そういえば……」
ちえりが気付いた。
「さっきあいつ、狸がどうこうって言ってたわね」
萌もマハ・ラッカの台詞を思い返していた。その時は一々尋ねる余裕もなかったが、少し違和感を感じたのを覚えている。
「妙に引っ掛かる言い回しだったけど、あなた、もしかして……」
「ご明察」
ラヴィは自嘲気味に笑うと、頬から左右三本ずつのヒゲを出してみせた。
「その通り、私は狸だ。人への変身期間が長くて、すっかり忘れていたがな」
「いつ思い出したの?」
「ついさっき、奴に言われたときだ。腹太鼓に狸鍋……やれやれ、肝心な事を敵の揶揄で思い出すとはな。全く癪に障る話だ」
ヒゲをぴーっと伸ばしたラヴィは、パッと離してすぐに引っ込めた。
「まあ、そのおかげで変化の力を取り戻せたのだから、一応感謝しておくかな」
「――聞きたい事は山のようにあるけど、今は一刻を争うから控えておくわ」
「ありがとう。こちらも助かる」
ラヴィは軽く頭を垂れた。
「それでは、早速行くぞ」
「待った待った」
萌が慌てて制止した。
「いくらなんでも、その紫はまずいよ」
萌は、ラヴィの紫色の髪や唇を指摘した。
「変か?」
「不思議と似合ってるけど、滅茶苦茶目立つのは確かだね」
ゴシック風の服も相まって、このまま街に出たら否応なく人目を惹くだろう。ラヴィは構わないかもしれないが、いざマハ・ラッカと遭遇したとき、野次馬に囲まれた中での大立ち回りとなったら、大勢の人を巻き添えにするかもしれない。それだけは断固として阻止しなければいけなかった。
「違和感なく溶け込める色に変えたらどうかな」
「ふむ。まあ、改めるのに吝かではない」
ラヴィは綺麗に切り揃えられたボブカットの前髪を軽くつまんだ。数回擦る間に、爽やかな紫色が純和風の艶やかな黒髪へと変貌を遂げていく。瞳の色も落ち着いた焦げ茶に、唇は潤いのあるサーモンピンクに様変わりした。顔の造形は一緒なはずなのだが、印象としてはすっかり別人である。
ラヴィはさらさらの髪を優雅に撫でつけた。
「そちらのポニーテールの美少女殿、手鏡を持っておられるか。貸与願いたいのだが」
「――とってつけたような口調ね」
「やはり駄目か」
ちえりは苦笑した。
「いいわよ、貸したげる」
ちえりは鞄の中からポシェットを出すと、更にその中から桃色のコンパクトを取り出した。ラヴィは礼を述べると、角度をあれこれ変えて色合いをチェックする。
「んむ、やはり天使の輪っかが一番くっきり出るのは黒髪だな。――よし、ありがとう」
「ちょっと」
速やかに自分のポケットに仕舞うラヴィに、ちえりが突っ込んだ。
「コンパクト」
「こんなキラキラしたもの、見たことない。ぜひとも、一日貸してほしい」
「――ちゃんと返してね?」
「もちろんだ」
ラヴィは微笑んだ。
「では皆の衆、今度こそ行くぞ」
「コラ、勝手に仕切るなよ。さあ、野郎共、行くぜ」
「あなたも仕切ってるじゃない」
「まあまあ。行くよ?」
萌の言葉に、てんでばらばらに返事を寄越す三人。
かくして、いまいちまとまりに欠ける一行は、九尾の狐退治のために外へと繰り出した。




