2-7 偉大な言葉
「もういっそ、嫌がらせって宣言してくれ! むしろその方が納得できる!」
「ノーノー。この技名は、高知駅前から南に約1キロの場所に佇む、『え、これが?』と皆様にある種の驚きと感動を提供し続ける有名な播磨屋橋とは、何の縁もございません」
「説得する気、欠片もないだろ! 嘘ならもっと上手くつけ!」
「岩崎君」
ちえりが宥めるように言った。
「納得しづらいのは分かるけど、ここはお願い。あの妖怪、今は庭を踊り回ってて私達の事を全く気にしてないけど、もし襲い掛かって来たらひとたまりもないわ」
確かに言う通りである。現状がいかに危ういか、頭では充分理解している。
しかし、感情の折り合いがどうしてもつかないのだ。
萌は下唇を噛み、天井を見上げた。納得するには時間がほしい。しかし、今はその時間がない。分かっている。分かってはいるのだ……。
「――ラヴィ」
萌は苦悩に顔を歪めつつ、何とかこう切り出した。
「爆発の規模は、どの位の大きさになるのかな?」
「んむ、結構大きいが、効果を及ぼす対象は限定されている。妖怪や幽霊といった、幽世に棲まう者達のみだ。人や建物にさしたる被害は生じないぞ。この距離なら私は大丈夫だから、遠慮会釈なしにシャウトしてくれ」
最大の懸念は取り除かれた。萌は首肯すると、気持ちが萎えないうちに再び息を吸い込んだ。
――いくぞ。
萌は腹を括った。
「ハリマヤ・ボンバー!」
全身全霊をこめて絶叫した、次の瞬間。
紫色の光が視界を覆い尽くし、耳をつんざくほどの激しい爆発音が部屋に木霊した。
――しまった! 爆音は発生するんだから、みんなに耳栓を勧めればよかった……。
後悔先に立たずである。萌はムンクの「叫び」のような体勢をとり、爆音という叫びから両耳を守りつつ、目を瞑ってひたすら光の収束を待った。
ほどなく、萌の服を軽く引っ張る感触があった。
「萌、ちえり」
ラヴィの囀るような声が聞こえてきた。
「あと、刺身パックのバランよりもついでに、俊平」
「をい」
俊平の愚痴と一緒にちえりの明るい笑い声も聞こえてきた。どうやらみんな無事らしい。
「三人とも、もう大丈夫だぞ」
ラヴィの声に、萌はそっと目を開けた。確かに閃光は消滅している。俊平がぶつくさ文句を垂れているが、軽やかに無視しておくことにする。
庭を見下ろすとマハ・ラッカの姿はない。さっきの爆発で消滅したのだろう。
「んむ。どうやら、綺麗さっぱり害虫は駆除できたようだな」
「そうだね……ってえぇぇーっ!?」
振り返った萌は、ラヴィの胸に空いた巨大な風穴を見て腰を抜かした。
「ラ、ラヴィ! それ大丈夫なの?」
「それ? 代名詞が何を指すのか、判然としないな」
「胸の穴だよ!」
灯台下暗し。他人の事は見えやすいが、自分の事は却って気付かないものらしい。
ラヴィは、萌に指摘されて初めて、自分の胸をまじまじと見た。
胸部の丁度中央に、超弩級のコルク栓を抜いたかのような直径十五センチほどの円形がポッカリと口を開けている。人間なら問答無用で致命傷だ。
「ほぉ、これはビックリ。爆発は存外強かったんだな」
世間話でもしているかのような、緊張感のない反応だ。萌のほうが余程焦っている。
そのとき、ラヴィは唐突にオリーブの首飾りをハミングし始めた。
「何だよ、鳩でも出す気か?」
俊平にいたっては、全く狼狽していないどころか、仏頂面で軽口を叩く余裕すらあるようだ。
ラヴィは、曲の合間に鼻で笑うことで返事の代わりとすると、両手を悠然と前にかざした。手の平を見せたら、今度は手の甲。そのまま両手で胸の穴を隠すと、軽く左右に揺すってみせる。
「ワン、ツー、スリー! じゃ~ん!」
効果音も自分で言ってのけるラヴィ。覆っていた手がどくと、穴は見事に埋まっている。
「……っ!」
萌はその直後、顔を朱に染めて視線を逸らした。
「どうだ、簡単に治っただろ?」
「ドレスが直ってない、ドレスが!」
至近距離での真っ白な柔肌は、萌にとって破壊力抜群だ。下手をしたら先程以上に慌てふためいた萌は、ラヴィのほうを極力手で遮蔽して見ないようにした。
「だらしねえな、萌。俺なんか、それこそ穴が空くほど堪能……しぢゃ駄目でつね、ぱい」
下心丸出しの俊平は、ちえりによって両頬を万力のように挟まれると、顔の向きを強制的に変更させられていた。おそらく、金剛力士像並みの凝視も付随している事だろう。
「百万石」
ちえりが低い声で言った。
「あんまり変な事ばっか言ってると、見なくていいものまで見る羽目になるわよ? 自分の血とか」
「う~ん、鼻血かなぁ? しょうがねえ、今日は出血大サー……ぁああああ」
豪奢で重厚な調度品の揃った部屋に、貧相で軽薄な少年の悲鳴が響き渡った。孫悟空の輪っかのように頭を締め付けられたらしい。ひび割れたサイレンの如き奇声を上げて悶絶しつつ、床に俯せに突っ伏す。尻だけ妙に浮き上がっており、非常に格好悪い体勢だ。
「ラヴィ、早いところ服も直しちゃって」
「そうしよう」
ラヴィもあっさりしていた。
「よし、萌とエロガッパ、もういいぞ」
穴塞ぎ同様、さしたる手間は必要なかったらしい。そっとラヴィを見やると、今度はフリルのついた白い服に変わっていた。
「あれ?」
萌は思わず呟いた。
「ウェディングドレス、やめたんだ」
「んむ。どうせ直すなら着替えてしまおうと思ってな」
ラヴィは襟元を調えながら答えた。
「実体化したとはいえ、所詮は幽霊だからな。ちょいと想像力を駆使すれば簡単に変更できたぞ。今度はゴシックに挑戦だ。黒は人選が不問だから、敢えて白でな」
「――あ、そう」
幽霊は衣装代が掛からないらしい。いかなる突飛な服も思いのままで、オーダーメイド代ゼロ、移動時間ゼロ。自分だけのために開かれた、年中無休の店――。
萌はさほど衣服を気に掛けた事はなかったが、それでも少し羨ましくなった。
『うぅ……。おのれ……』
その時、非常に怨念じみた呻き声が耳に飛び込んできた。慌てて周囲を見回すが、とくに不審な所はない。
「岩崎君、どうかした?」
「いや、何か妙な声が……」
「百万石じゃなくて?」
「何で俺なんだよ」
床に伏せっていた俊平は、足をもぞもぞと伸ばすと、ごろりと仰向けになった。
「さっきみてぇに、萌だけに聞こえるっていう怪奇現象じゃねえのか?」
そっか……、だとしたら。萌はラヴィを見やった。
「確かに、私にも聞こえたぞ」
ラヴィはあっさりと認めた。
「何やら嫌な予感がするな」
「みんな! あそこ!」
突如、ちえりが庭の松を指差した。
「あぁっ!」
頂上近くの枝に、焦げた油揚げのような色合いの大狐がいた。
『くそぉ……ひ弱な蛆虫どもめ。舐めた真似を……』
憎悪のこもった目で睨み付けるマハ・ラッカ。焼け爛れた様子はないが、体からは淡い白煙が立ち上っており、負傷の深刻さが窺える。九尾の狐のアイデンティティだったであろうふさふさの尻尾も、今は萎れた花のように力なく垂れ下がっているだけだ。
『狐の矜持を穢しおって……。傷が癒えたら八つ裂きだ、狸鍋にしてくれるわ……』
前足で忌々しげに踏みつけていたこけしを、勢いよく蹴り捨てたマハ・ラッカは、空に向かってひと声甲高く啼くと、白塗りの塀を軽々と飛び越えて姿をくらました。
「ふむ、正に尻尾を巻いて逃げ出したと言ったところだな。九本だから速さも九倍か?」
「そんな暢気な事言ってる場合じゃないよ」
声が聞こえたせいもあってか、萌が一番狼狽えていた。
「今度は復讐にやって来るつもりだ。ど、どうすればいいと思う?」
「心配性だな、萌は。大丈夫、我々の屋台骨とでもいうべき、偉大な言葉があるぞ」
「え? な、何?」
ラヴィは可憐な微笑を湛えて、萌の両肩を頼もしそうに叩いた。
「年貢の納め時」
あながち冗談でもないらしい。萌は頬を引き攣らせた。




