2-5 VS赤いきつね
直径三メートルはある車輪が相手では、あっという間にペシャンコだろう。その前に、恐怖に駆られて対峙すらままならない気がする。
「よし、書けたわ!」
ちえりはお札状に細長く切った紙の束を手に持つと、セロテープを千切って窓の上部に一枚貼り付けた。
「みんな、貼りに行くわよ!」
「あー、度々水を差すようで悪いが」
ラヴィは頭を掻きつつ間延びした声で言った。
「招かれざる客はとっくに庭に来訪したぞ。途中で加速しおった」
「えっ!?」
慌てて萌が窓から顔を覗かせると、そこには更なる予想外の光景が待ち受けていた。
「わ、輪入道じゃ、ない……!?」
「えぇっ?」
萌の戸惑いに驚愕した幼馴染みコンビも、両脇に立って庭を見下ろした。輪入道であれば二人には見えないはずなのだが。
「――誰だよ、あの峰不二子は?」
俊平も呆気にとられていた。
庭に立っていたのは、深紅のチャイナドレスを着た妖艶な女性だった。色白で切れ長の目をしており、年齢は二十台後半といったところか。大胆なスリットが入っており、それがいかにも扇情的な印象を与えるが、それより気になるのは、彼女に沢山の金色の尻尾が生えていることである。妖怪関係者なのは明白だ。
「七、八、九……九本生えてる」
萌は指差し確認した。
「動物の尻尾かな、あれ」
「多分、白面金毛九尾の狐ね」
「は、はくめ……え?」
「白面、金毛、九尾の狐」
ちえりはゆっくりと繰り返した。
「玉藻前に化けたことで有名な妖怪よ。イメージとしては、狐の妖怪の親玉と捉えてくれればいいわ」
ちえりは額の汗をハンカチで拭うと、そのまま握り締めた。
「なるほど……、空を高速移動するために、輪入道に化けてきたってわけね……。まったく、参っちゃうわねぇ。一度はお目にかかりたい妖怪と、こんな真っ昼間に、それも自宅のすぐ近くで相対するなんて」
「どんな妖怪なの?」
「非常に博識で、妖術の力も凄まじいっていう、兎にも角にも驚異的な相手だわ」
「何ぃっ、胸囲の敵?」
俊平が耳聡く聞きつけ、ちえりと庭の女性とをしきりに見比べた。
「ふむふむ、確かになぁ。あのマスクメロン二つVSちえりの関東平野じゃあ、正直言って話にならんチャボラァー!」
鳩尾に憤怒の一撃を食らった俊平は、そのままウォーターベッドのマットに沈み込んだ。
「何ふざけたこと抜かしてるの! 殴るわよ!?」
「もう殴ってるじゃねえか!」
「今のは、瞬間的に強く撫でただけよ」
ちえりは拳を固く握り直した。
「涅槃までの片道切符、今ならタダだけど?」
「と、当方、まだ使用予定ないので、そちらで処分なさって下さい……」
早々に白旗を上げる俊平。対ちえり戦線は、またもや全面降伏という形で終結した。
「マハ・ラッカだな」
そんな二人をよそに、外の様子を窺っていたラヴィがひっそりと独白した。
「奴の分類については門外漢だが、名前は知っている。あやつの名はマハ・ラッカだ」
「個体として知ってるの?」
ちえりは驚いた。
「それじゃあ、弱点も押さえてる?」
「無論だな」
「本当!? 何?」
勢い込むちえりに、ラヴィは耳打ちするかのごとく、そっと口に手を当てた。
「冷え性」
ちえりは、激しく打ちひしがれたかのように、頭を抱えて項垂れた。
「滑稽なことに、そのくせ薄着が大好きな奴でな。今も、露出度の高い衣装なんか身に着けおって、あれは相当無理しているはずだぞ? さぞかし骨身に応えているだろうな」
「真面目に聞いてるのよ、私は!」
「やれやれ、喧しい奴だなぁ。耳元でそうがなり立てるな。――ウィットに富んだ諧謔は、コチコチになった心身を弛緩させ、一服の清涼剤となりうるのだぞ?」
「あのねぇ、この状況で……」
「まあ聞け。気持ちにゆとりがないと、良質のアイディアだって浮かばん。アルファ波を出すためのリラックスだと考えろ」
言いたい事は概ね分かるのだが、どこまでも暢気な物言いである。気持ちを逆撫でしているとしか思えない。
ラヴィは、憤懣やるかたなしといった様子のちえりに、悠然とフォローを入れた。
「まあ、私とて、伊達や酔狂で無駄口を叩いていたわけではない。戦う術を記憶から手繰り寄せていたのだ。無事に思い出したから、賞賛することを許して遣わすぞ」
「えぇっ?」
萌は仰天した。
「ど、どうやって戦うの?」
「しれた事。こけしを握り締めて秘密の言葉を叫び、退魔の剣を出現させるのだ」
「――え?」
萌は猛烈に嫌な予感がした。
「ちょ、ちょっと待て」
復活した俊平が尋ねた。
「こけしってよぉ……、どのこけしだ?」
「もちろん、萌に固着していたこけしに決まっておる。そういえば見かけんな。どこだ」
萌は持ってきていない。
「伊藤さん……」
萌は、かすれ気味の声で質問した。
「こけしって、持ってきた?」
「え? うぅん、ブーケと靴だけよ? 岩崎君が持ってきたんじゃないの?」
「いや、てっきり伊藤さんが持ってくるかと思って……」
「私は、岩崎君が持ってると……」
「……」
部屋には重苦しい沈黙が立ちこめた。
「――おい」
静寂を破ったのは、俊平の呻くような呟きだった。
「あの女……、何か拾ったぞ」
険しい顔でマハ・ラッカを指差す俊平。萌も慌てて窓から上半身を乗り出す。
「あぁーっ!」
目を見開いた視線の先。九尾の狐、マハ・ラッカの右手には、薄紫色のこけしが握られていた。
「なっ!」
口をあんぐりと開けたラヴィは、次の瞬間、あらん限りの力を込めて萌の胸倉を掴んだ。
「何やってるんだ、バカーッ!」
初めて感情を剥き出しにするラヴィ。今にも泣き出しそうな表情で萌を揺さぶる。
「なんで肌身離さず持ってないんだ! あんな不思議なこけし、最重要アイテムに決まってるだろうが!」
「頭飾りとか靴下とかを持ってて、つい忘れちゃってたんだよ!」
「言い訳か!? 過失が赦されるなら警察いらんわ!」
「そんな大事な物なら、もっと早く思い出せよ!」
「無茶言うな! 忘れてた事実すら忘れ去ってて思い出せるか!」
ついさっきまで、あれほど手から離れる事を痛切に望んでいたのに、今は所持していない事を頭ごなしに怒鳴られる。つくづく、神様は料理を作るべきではないと思った。皮肉の香辛料が効き過ぎて、涙が出そうなほど塩辛い。
マハ・ラッカは、萌達を見上げると、小馬鹿にしたような嬌声であざ笑った。
「あらあら、揉め事ぉ? こけしを放っぽり出して、あまつさえ放置しておくなんて、今度の勇者様は随分と太っ腹なのねぇ。実にお似合いよ、太鼓腹のへなちょこ狸ちゃん?」
「め、女狐風情が……」
ラヴィは口惜しそうに歯軋りする。怒りで目からレーザーが発射できるなら、今頃何発も照射して真っ黒焦げになっていることだろう。主に自分の両目が。
「取りにいらっしゃいな。案外、リボンを付けて進呈してあげるかもしれないわよ?」
「誰が行くか! 萌!」
「何?」
「――行ってきてくれる?」
「コラァー!」
土下座をしたって渡してくれるはずなどない。こんな事を真顔で言う辺り、相当テンパっているのだろう。表面上はあまり変化が無いだけに尚更タチが悪い。
こけしを弄り回すマハ・ラッカは、可笑しくてたまらないといったふうに嘲弄すると、おもむろに口を開けてこけしを丸呑みした。ラヴィも負けず劣らずポカンと口を開ける。瞳孔も開ききっている。流石は幽霊、「今にも死にそうな表情」などお手の物らしい。
マハ・ラッカはこけしを嚥下すると、満足そうに息を吐いた。




