プロローグ 創立記念日の朝
東京都目黒区にある閑静な住宅街に、クリーム色の外壁にチョコレート色の屋根が乗った、ごく普通の一軒家があった。
「萌ちゃーん、朝よー」
岩崎萌は、階下からの母の呼び掛けによって目を覚ました。
何だか得体の知れない、不思議な夢を見ていた。よくは覚えていないが、あまり良い内容では無かった気がする。頭に靄がかかったようにすっきりしない。
枕元にある快獣ブースカの王冠を押してそのまま持ち上げると、もうすぐ七時半だった。寝惚けた頭が一瞬、「仕度しろ、学校だぞ」と警告したものの、今日は光輝く免罪符があることを思い出す。
「母さん……。今日は創立記念日だってば」
寝返りをうちつつ、欠伸混じりに反論する。学校からもたらされた、「休日」という名の恩寵。もう一眠りして有効活用するつもりだったから、あまり自分から大声を出して頭を目覚めさせたくない。今の声では母には到底届いていないだろうが、カレンダーにも記入している事だし、きっと誰かが気付いて指摘してくれるはずである。
しかし、現実は甘くなかった。
「コラ、萌。さっさと起きなさいよ」
ノックもせずに姉の千種が入ってきた。そのまま有無を言わさず布団をめくり上げようとするが、萌もすかさず内側から手と膝で押さえて抵抗する。長年に亘って暴挙の数々をくぐり抜けてきたのだ。この程度の大きなお世話などとうにお見通しである。
しかし千種は、制服の襟元のリボンを弄りつつ眉を顰めた。
「ふぅん。萌ってば、人の親切を蔑ろにするような非道い奴だったんだ」
「あのねぇ、姉さん……。今日は休みなの」
「はいはい。萌の中ではね」
「創立記念日だよ!」
千種は、「あ~」と言いつつ、軽く手を叩いた。
「分かった? だから、今日はいいんだってば」
「――そうねぇ。御免なさいねぇ」
何気なく呟きざま、千種は勢いよく布団を引っ張った。まさかのタイミングだったため、萌はたちまち布団を剥がされてしまう。
「何するんだよ!」
「フフンッ。あたしがこれから眠気を堪えて高校の授業受けるってのに、萌だけ布団でぬくぬくなんて許されるわけないでしょ?」
布団を床にうち捨てつつ、さっさと部屋から出て行く千種。階段を下りていく足音が聞こえてきたということは、戻ってきて布団を優しく掛け直してくれるような慈悲深さは欠片も持ち合わせていないらしい。分かっていたが。
「最悪だよ、あのバカ姉……」
全身を外気に晒された萌は、思わず身震いした。のそのそとベッドから起きて掛け布団を拾うと、ひとまず敷き布団の上に置いてきちんと広げ直す。今の小競り合いによってぐちゃぐちゃになってしまったためだ。めくれ上がった布団の隅を悪戦苦闘しながらなんとか元通りにすると、どうにか格好がついた。もうすぐ夏とはいえ、隙間が空いていると足先が寒くて仕様がない。防寒対策は安眠の基本である。
余計な手間をかけさせてくれちゃって、まぁ……。
萌はぶつくさ言いながら布団の間に体を滑り込ませた。体温がまだ残っていたため、すぐにぬくぽかモードに突入する。
あぁ、これだよ、これ。この温もりがあれば、俗世の嫌なことをみんな忘れられるね。
萌はじっくりと惰眠を貪ろうとした。
「いっよ~ぉ、萌姉ちゃ~ん!」
まさにそのとき、今度は妹の亜里紗が入ってきた。声変わり前のキンキン声は、今の萌にとって姉以上の強敵だ。萌はすぐさま布団を頭まですっぽりと被り、音波攻撃に備えた。
「ほーら、ほーら。可愛い妹が起こしに来てあげてるんだからさ~ぁ? さっさと起きなよ~。てか、起きろよ~」
「早くも命令口調かよ、亜里紗……」
布団の中で両耳を押さえる萌。よく通る声なのだが、それだけに前頭葉にじんじんと響く。
「萌姉ちゃんが起きないからだよ」
「今日はいいんだよ」
「五秒で起きないと必殺技出すから」
「おい!」
萌が布団越しに抗議するが、毎度のごとく問答無用らしい。
「ごーお、よーん……」
「こら、やめろ亜里紗」
「さんにーいちゼロ」
「早っ!」
超速でカウントし終わるや否や、腹の辺りに強烈な重さを感じた。思わずカエルの潰れたような声を上げてしまう。
「エルボ~ドロップ~!」
「乗ってから言うなよ……」
カウントは早口にしたくせに、必殺技の名前は直撃の後なんだな……。
萌は仕方なく布団をめくって上半身を起こした。亜里紗は、してやったりという顔で軽やかにベッドの脇にどく。
「あのなぁ、亜里紗。今日は中学校は休みなんだよ」
「あー、はいはい。『萌姉ちゃんの中では』でしょ? 分かる分かる」
「創立記念日だよ! 姉さんと同じ反応するな!」
「あっ、そうだったんだ。んで、リアクションも同じ? いや~、さすがは姉妹よね~」
人の安眠を思いきり邪魔したというのに、しれっとしている。眉毛の形が憎たらしい。
「亜里紗……。お前、姉さんに何か言われなかったか? 『今日は創立記念日だからいい』とかさ」
「うん、ばっちり言われた。『亜里紗、萌を確実に起こしてきてあげて。スマイルでね』って」
本当にバカ姉か! こんな事にばっかり頭を使うなよ! 萌は布団に突っ伏した。
「ま、お姉ちゃんも起きてくれば? 朝食の用意だって出来てるし」
「――分かったよ」
どたばたして頭もすっかり覚めてしまった。萌は渋々、ベッドから起き上がった。
「でもなぁ、亜里紗。一つ訂正しろ」
「え、何?」
きょとんとした顔の亜里紗。
萌は疲れた様子で、大きく息を吸った。
「俺は、兄さんだよ!」
岩崎萌、十四才、性別男。これは、彼の尊厳と誇りを懸けた物語である。




