夢の呼び水
しかし近頃はこの夢も見なくなっていた。忙しさにかまけていれば、あまり見ないからこそ、彼は働き続けていたのだ。
(何が呼び水だ?)
寝る前、特別に何かをしたわけではなかった。ルーチンとして誰に届けるつもりもない言葉を呟く事も、いつも通りだった。
そもそも帰宅してからは、彼はルーチンでしか動いていない。
仕事も、いつも通りの単純作業で終わっている。
(そうか、あの女…。確か名前は、金城、千代)
何かを探している、トラックをすり抜けた彼女を思い出す。姿形は、"ねーね"に酷似していた。
彼女にそっくりな金城を見た事で、夢を呼んだ可能性は、決して低くない。
彼にとってはできれば見たくない夢ではあるが、もしも原因が彼女であるならもう見る事はしばらくはないだろう。
彼女と彼との間に、偶然以上の接点など無いのだから。
(あんなのに、そうそう会って堪るものか)
心の中で独りごちて、彼は着替えを済ませると玄関に立つ。
手荷物は少なく、時計と財布、そして入館証だけを無造作に上着のポケットに突っ込んでいる。
「行ってきます」
家の鍵を持ち、誰にも届かない言葉を呟いて、またいつもと変わらず扉を開ける。
ここからはいつも通りの延長戦でしかない、とでも言うように。
だからその先に待っているのは、曇り空の中のどんよりとした空気、の筈だった。
「どうも、こんにちは!」
底抜けに明るい声で挨拶をした彼女・金城千代が、何故か彼の目の前に立っていた。
「………は?」
何が起きたのか一瞬わからず、彼は眉を寄せて声を上げることしかできない。
声には嫌悪感などは篭っていない。ただ、もう会わないだろうと思ったばかりなのに、という困惑はある。
「えへへ、探しましたよ、三崎さん!」
"ねーね"そっくりな姿で、加えて今度は明確な意思を持って、彼女は現れたのだった。
困惑する彼とは裏腹に、とびきりの笑顔を携えて。