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29章 新鮮な白身魚のエスカベーシュ

朝、椅子で寝ていた彼が目を覚ました時、視界には慧音の顔が大きく映し出されていた。

目を右手で擦って、朧げに映っていた彼女の姿がはっきりと見えるようになる。

何事かと身を起こすや、慧音も気づいたのか彼から一旦離れる。


「…やっと起きたのね。寝坊よ」


「…んあ?今何時だ?」


机上に置かれたデジタル時計は朝の8時を示していた。

昨日こいしが言った時間である9時とはまだ1時間もある。寝坊と言う表現は適切ではないはずだ。

彼はその真偽を確かめる為、目の前にいては何故か微笑んでいた慧音に話しかけた。


「…まだ1時間あるし、寝坊はしてないぞ」


「あのね…。…まさか皺だらけの服のまま私の部屋に行こう、なんて思ってないよね?」


「思ってた。だって面倒だし」


彼は欠伸をすると、慧音はそんな彼の頬を優しく突いた。

急に頬に凹みを感じた彼は驚き、椅子から転げ落ちる。何とも滑稽な絵であろうか。

前に置かれた机の衝突し、その衝撃で机上に積み重なっていた調査書の何枚かが彼の上に静かに落ちていく。

調査書と言う布団で寝ているかのようにも見えた。


「…いくら何でも、これは勤務内容よ!怠慢しちゃダメ!」


所長らしく注意をするも、彼には全く効き目ナシ。彼は束縛事が大嫌いだ。

だからこそ流浪の旅を好むのであって、ツアーガイドを嫌悪する。

法律など、秩序を守るうえでの束縛は流石に仕方ないが、私的な束縛は意地でも解くのが彼だ。


「…面倒な事に変わりは無いんですよ」


「ったく、私が来てみればこの有様!…もう少しは綺麗にしたら?女性に好かれないわよ」


「結婚なんて興味ないんで。…したところで何の意味も無いと思ってるし、恋愛何で面倒なんで」


彼はそう言うと、慧音は何処か居心地が悪い気がした。

彼は結婚には興味ない。恋愛に金を沢山つぎ込むなら、流浪の旅の資金にでも充てた方が余程いいからだ。

彼は結婚や恋愛を否定してるわけでは無い。ただ、自らがその立場に置かれると嫌なだけだ。

この流調が今、フィラデルフィアで流行っており、少子化が懸念されてるのも事実であるが。


「…夢の無い男ね。…もう少しは異性に興味を持ったら?」


「もう少しは旅に興味を持ちます」


彼は自分の上に散乱していた調査書を片付け、机上に纏める。

彼女の思想なんて、所詮は自分を陥れようとしてるだけの洗脳に過ぎない、と思っていた。

積み上げてあったカップラーメンの山に影響が及んだのか、一つ彼の元に落下する。

―――シーフードラーメンだ。


「…今日の朝はシーフードかな」


「…毎日毎日、朝昼晩、カップラーメンで飽きないの?」


「飽きないから食べてるんだよ。…しかも手軽で、尚且つ普通に美味しいからな」


T-falを取り出し、カップラーメンを食べようとした矢先、彼女はそんな彼を制止させた。

驚いたのか、彼はT-falを持った手を滑らせてしまいそうになる。

危うくも助かった彼は事の発端となった慧音に冗談交じりの怒りを見せる。


「な、何をするつもりなんだ」


「貴方に朝ごはんを…特別にこの私が奢ってあげるわ。…偶には付き合いなさいっ」


◆◆◆


そのまま彼女に連れられて、慧音の車に乗りこんだジェネシス。

駐車場に停めてあったトヨタの白いエスティマ。大きいと名高い車には既に3人が乗っていた。

…こいしにパチュリー、そしてマター博士だ。窓から顔を覗かせている。

彼はそのまま中に入り、慧音は運転席に座る。


「来るのが遅いわ」


「お前は昨日、私の車の中で爆睡してたからな。さぞ目覚めが良さそうで」


彼もそのままエスティマに乗り込むと、全員の乗車を確認した彼女は運転席から確認した。

ケット・シーはこいしの上に座っている。よほど気に行ったのだろうか。

有明が空では輝いている。美しき雲々の流れは何処までも続くように…。

マター博士は顎から生える長い白髭を右手で靡かせながら、今頃来たジェネシスへ話す。


「そういやのう、ジェネシス。お主は線文字Cが解読出来たようだが」


「…ああ、はい。其れがどうかしましたでしょうか」


彼はマター博士にだけは丁寧に接する。と言うのも、やはり恩師と言う一面が大きいからだろうか。

彼をここまで育て上げたのは、まだ名誉教授に選ばれていない時代の彼であった。

だからこそ、彼は立派な考古学者になれたのかもしれない。…よく失踪するが。


「…まあ、話は食事での席にしよう。実際、この食事もわしらの為だけに用意されたものじゃしな」


「じゃあ他の若干名が不必要な気が…ぐぼべっ」


「ハイハイ、誰が"不必要"だって~?」


彼が話している間に肘打ちを喰らわすパチュリー。

腹部に当てられた衝撃は不意な一撃となって、彼をそのままノックダウンさせる。

ボクシングで例えれば"一発KO"だろう。女性にやられた悔しさなのか、手を震わせながら上に翳す。

エスティマの床部分に寝転がるように倒れていた彼の脇腹の上に、更に居心地の良さそうな椅子を見つけたケット・シーはこいしの元から移動して来た。


「あっ、ネコさん…」


こいしは移動したケット・シーに呼びかけるが、当の猫は南国のリゾート地で満喫するセレブのように寛いでいる。薄暗い天井を広々とした大空に見立てて、猫は気持ちよさそうにする。

しかし乗っかられたジェネシスの息苦しさは更に増すばかりだ。皺だらけな服に埃が大量に纏わりつく。


「ワイはこっちの"ソファ"の方が良さそうでんな~」


「人をソファ呼ばわりするな…」


起き上がろうとするが、怒っているパチュリーは足で彼を撃退した。

再び威勢の良い声を出したと同時に起き上がれない事を覚ったのか、絶望している。

朝早く、彼は彼女の足の下で動けない…そう、「囚われの身」になっていたのだ。


「…こ、こらー!何勝手に暴れてるんだ!?…ジェネシスか!」


「あっ、やめて…ちょ、私は何も悪く…ぐぼべっ」


彼は暴れた代償として慧音に追撃のビンタを蒙った。

倒れたままで動けない彼の臀部に鮮烈な音が響く。…何時から彼はネタキャラに下がってしまったのか。

理不尽な蒙りを受けた彼は意気消沈し、そのまま疲弊仕切ってしまった。

まだ朝である。しかし、彼はトラック何周分に相当するような体力を浪費したと感じた。

全く以て無駄な浪費体力と言えよう。


「…まあ、これで気が済んだでしょう。…行きましょ、今から私行きつけの料理店に案内するわ」


◆◆◆


エスティマはそのまま高速道路に乗って、フィラデルフィアの中心街に赴く。

ケット・シーはジェネシスと言うソファに座って、何やら地図を読んでいた。其の地図はエスティマ内に置いてあった、常備用の簡易的パンフレットであった。

扱いやすい点も功を奏してか、背丈の低い猫でも容易に扱う事が可能だ。


朝焼けの中に佇むフィラデルフィアの街並みは美しいものであった。

エスティマ内に設置されたカーナビには、フィラデルフィアの戦時状況を伝えるニュースが垂れ流しにされていた。そのアナウンサーの声がしっかりと、床で起き上がれない彼の鼓膜にも届く。


「昨日未明、フィラデルフィア空軍はハルバード空軍と対峙しました。

場所はフィラデルフィア南東の砂漠、今現在では数からの判断で此方が攻勢との見方があります。

しかし、ハルバード軍は何時、この安穏な街に手を出すかは予測されていません。

国民の皆様方は万全な対策をするよう、ご協力をよろしくお願い致します」


…どうやらフィラデルフィア空軍はハルバード空軍に勝っているらしい。今現在は。

この平和な光景も、戦時中の国とは思わせないものだ。多く林立するビル街から木漏れ日とも示唆出来る橙の朝日は幻想的な物であった。


こいしは朝早いのが原因か、寝息を立てて静かに目を瞑っている。

マター博士はパチュリーと会話していた。お互いが笑顔で話している姿は何処か微笑ましい。

ケット・シーは何時までも地図を読んでいる。どうやらハルバード王国の方を見ているようだ。

慧音はその目的地に向かって、ハンドルを握ってはフロントガラスの向こうに広がる世界を見つめていた。


高速道路ではエスティマを抜く車がいたり、抜かれる車がいたりと飽きを見せない。

彼は床で倒れていたが、何か"幸せ"を感じ取れた気がした。

…何が幸せなのだろうか?…やはり気の合う"仲間"の存在だろうか?…彼は分からなかった。


エスティマは何時の間にかインターチェンジに突入し、そのまま一般道に入る。

ビル街の中の整備された、網目状の道路の中に入ってはいちいち設置されている信号に頭を悩ませていた。

彼は行先について何も言及されていない。…此れから何処へ行くのか、分からないでいた。


「…ほら、見えてきたよ」


慧音がそう呟くと、地図を見ていたケット・シーはすぐさま反応して助手席に移る。

奥に見える、周りの高層ビルとはかけ離れた、黒い建物…金色の文字が彫られている高級感を漂わせて。


「…慧音はん、今からワイらは何処へ行くん?」


「そうね、"フィラデルフィア帝国ホテル"かしら」


「帝国ホテル!?…ファッ!?」


ケット・シーが退いたことで動けるようになった彼は聞いたフレーズに驚きを見せる。

…"帝国ホテル"…そう、其の名から察せる通り、高級ホテルである。

しかも「高級ホテル」と言う範疇の中でもずば抜けた存在でもある。彼にとっての夢でもある。


「…偶にはいいじゃない。…勿論、泊まりはしないよ。朝飯を食べに行くだけ」


慧音はそのまま帝国ホテルに設置された駐車場に入っていく。

マター博士とパチュリーは最初から行き先を知っていたのか、腹の虫を余裕そうに響かせていた。

嗚呼、恨めしや。何故自分だけこんな玩具みたいな扱いなのだろうか…。

彼はそう考えながら、これから訪れる場所への期待を膨らませていた。


◆◆◆


停車したエスティマから降り立った時、彼の服は埃だらけであった。

…最初から彼が予測していた事象である、簡単に手で払うと元の皺だらけの服に戻った。

冷たい空気が肌に触れる。寝ていたこいしをパチュリーが起こし、一行はホテルへと向かった。


隣接されている、如何にも高級感漂うホテル。彼は改めてタブー視しそうになった。

このホテルは高級である。勿論、宿泊代も馬鹿にならない値段である。疎遠な存在でもあるのだ。

そんな場所に来てみると、やはり恐ろしさなどを感じ、身を震わせてしまう。

借金代理人になって失敗した人たちのノンフィクションがテレビで放送されている中、彼はそんな事態に陥ってしまうのではないかと畏怖していたのだ。


「あ~お腹減ったわ~」


気楽そうなパチュリーはそのまま慧音の後について行った。

続いてマター博士、ケット・シーにこいしだ。しかし彼女は震えている彼を見落とさなかった。

小さながらも暖かな肌触りの手を彼に差し伸べて…。


「…ジェネシスさん、大丈夫。全部慧音が払ってくれるよ?」


「…ああ、そりゃあどうも」


彼は彼女の一言で安心できたような気がした。が、身体は嘘をつかない。

やはり震えは止まらない。だけども、空腹状態である。ひもじい感覚を身に募らせて、そのまま敷かれたカーペット上を歩む。

フロントに着くと、豪華なシャンデリアを始めとした数々の高級インテリアが広がっていた。

慧音は軽そうに受付で済ませると、一行をホテル内のレストランへ案内する。

パチュリーは涎を垂らしていた。…そうだ、これは今さっき足で撃退された時の反撃への理由に使える、と。


「喰らえ!涎は汚いぞ、っと!」


彼は彼女に対して肘打ちを試みたが…呆気無く身体を逸らされてしまったのだ。

そのままカーペットにダイブする彼。そんな姿を見ては溜息をつき、呆れたパチュリーが彼を起こす。

パチュリーの謎の親切対応に彼は理解出来ないでいた。


「…狙うなら正確に狙いなさい」


「…すみませんでした」


右肩を持っていたパチュリーに気づいたこいしは彼の左肩を持つ。

まるで病人を運んでいるかのような滑稽な絵にホテルのホテルマン達は話題の種としていた。

そんな姿を見つけたマター博士は若さが故の光景に微笑み、慧音は 一緒に魂も漏れていそうなほど大きなため息をついた。


◆◆◆


レストラン内は極めて豪華で、朝早いという点も功を奏してか中は余り人が見掛けられないでいた。

そのうちの1つの机に案内された一行は席につく。勿論ケット・シーの分までしっかりと用意されている。

どうやら今日の食事形式はバイキングらしい。それぞれに高級そうな食器が配られる。


「まあ、後は適当に食べてね」


慧音はそういい残すと、早速食事を取りに消えてしまった。

続いてパチュリーやこいし、マター博士も行く。が、彼はその場に留まっていた。


「あれ、ジェネシスはんは行かんの?」


「…いや、何だろう…ぼんやりしてた。…今から行かなきゃ」


彼はそう言うと、そのまま席から立ちあがっては去っていった。

ケット・シーは猫型ロボットである。しかし、彼の言ったことについて内部に組み込まれた論理的プログラムで考察を続けていた。

しかし、答えは導けなかった。…何故彼はぼんやりしてたのか、何処か片隅に思いを置いて。


◆◆◆


それぞれが食事を楽しみ、最終的に生き残ったは男同士2人組である。

彼らは車内で振られた話題について話し合っていた。…線文字Cの件である。

ジェネシスは食器に自らが盛りつけた、新鮮な白身魚のエスカベーシュをフォークに刺して、口に持って行きながら会話をしていた。

エスカベーシュに乗っていた色取り取りの野菜が綺麗な音を響かせる。


「…線文字Cの件の事じゃが…ジェネシスよ。また新たな遺跡が見つかったらしくてのう。これじゃよ」


マター博士は事前に持っていた鞄から何枚かの写真を取り出した。

その写真には遺跡について撮られたものばかりだが、どれにも似たような言語が彫られている。

壁などに刻まれた文字を見て、ジェネシスは呻った。


「…線文字Cですね。…流石に公の場で解読するとあれなので、此処では言いませんが…」


「だからのう、ジェネシスよ。…今度わしらで此処に行こうと思うのじゃ」


彼がそう話を切り出すと、ジェネシスはマター博士の顔を見てはしっかりと頷いた。

考古学者として、自らの使命は全うするまでだ。…そう思っていたが、何時も流浪の旅に出ては失踪し、肝心な時に姿を消す彼が言える台詞では無かろうが。


「…場所は何処にあるんですか?」


「…わしらの研究所から熱帯雨林に入った奥地…まだ地上からの到達は出来ていない状況じゃ。

この遺跡の写真を撮った人たちはヘリコプター操縦中にたまたま発見し、写真を提供してくれたのじゃ。

…あれじゃな、"チャーターヘリ"と言う物じゃのう。

で、場所の位置はGPSで既に登録してある。…バギーに乗って行くつもりじゃ」


「バギー、って何かの考古学的冒険映画を彷彿とさせますね」


オフロード走行が可能なバギーなら、木々が入りくねった熱帯雨林の中でも走行可能だ。

彼はその言葉を聞いた時、幼い時に見たような映画を思い出した。題名は忘却の彼方に消えていたが。

聖櫃アークを求める旅が主な映画の趣旨だったような気がするが、面白かった事は覚えている。

ただ、名前は目の前に広がる事象に埋もれて、取り出せないだけだ。


「…まあ、行きましょう。…何かの発見に繋がると思いますし。

最悪、ハルバード王国に遺跡を破壊される前に考察を行えば…何とかなると思います」


「なら、話は決定じゃ。日は明日、それまでに準備を済ませておくように。

まあ何時も旅を好んでしてるお主ならすぐに装備が整いそうじゃが」


食べ終えたジェネシスは満腹そうにして、右手で腹を押さえた。

さっきから2人以外が静かに感じ、見渡すと席にはいなかった。フロア全体を見渡すと、朝っぱらから牧場しぼりの高級ソフトクリームを食べている。其処にはケット・シーの姿もあった。


「…まあ、準備は任せてください。…パチュリーたちにこの話は…」


「もう事前にしてあるのう、安心じゃよ。…後はお主だけの返事だったから、これで行く事は決まったのう」


マター博士は嬉しそうに盛り付けられた食事を食べていた。

花畑を彷彿とさせる豊富な野菜と共に盛り付けられたポワレを口に含み、その味を堪能していた。

淡白な魚である鯛が一層風味を醸し出し、美味しさを引き立てる。


「…分かりました」


彼はそう了承すると、静かに頷いた。

ホテル内は何処となく静かであったが、彼の中では盛り上がっていた。

…新たな遺跡の調査である。やはり前代未聞の未踏地帯に足を踏み入れることは嬉しい感情が込みあがる。


―――しかし、何故彼だけが線文字Cを解読出来るのだろうか?


非科学的ながらも、彼はマター博士が差し伸べた、机上の写真をじっくりと眺めた。

写真内の壁に刻まれた文字はやはり老朽化が進んでおり、朽ちかけて読めない点も存在したが、ある程度は解読出来た。


…その時、何かが繋がったような気がした。

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