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メイドさんの手作りビーフシチュー

尚、ガチの模様

 ある文化圏においては、紅い月夜を不吉の前兆と考える事がある。普段のほの白い月とは違い、赤褐色に煌々と輝く月を見上げながら、私は煙草を一息吐き出した。


 場所はコンビニ脇の喫煙スペースだ。会社の帰りに夕飯の調達に車で立ち寄った、地方には多い広大な駐車場付のコンビニ。そこの喫煙スペースに据えられた、円筒形の灰皿に幾人かの暇人達に混ざって一服している。


 普段会社へは電車で通勤しているが、今日は朝から雨だったのでスーツが濡れるのを嫌って車で通勤した。スーツは営業の顔だ、濡れてへろへろになった状態で外回りはできない。ただ、雨雲は昼過ぎには風に吹かれて去ってしまったので、今では雲が殆ど見えない穏やかな夜空が顔を出している。


 雨上がりの夜空は澄み切っていて、ビロウドの幕を落としたかのように黒い。そして、漆黒の演壇の真ん中で、奈落の奥から輝くような赤い月が一人で踊っていた。大阪の地上から反射する光の多い空では、星は殆ど見えないので、孤独な月の独壇場であった。


 我々の低性能な光学知覚器官では、雨が降った後で水蒸気が多かったり、粉塵が多い際は月の光が拡散され、赤い波長の光だけが届くので月が赤く見えると聞く。昼の雨が残した水気が、月を赤く染め上げたのだろう。


 こうして見上げると、赤い月夜はとても幻想的だ。普段と異なる装いというのは、それだけでとてもロマンチックに映る。夜空に浮かぶ赤い満月は黒の中で非常に映えていた。


 これほどにロマンチックな光景が不吉の前兆と言われるのは、何時もと違う格好をされると不安に感じてしまう人の習性からか。そして、火山の噴火など大気中に粉塵が巻き起こる自然現象の後には月が赤くなるから、赤い月=不吉の前兆、というようになったのだろう。


 たまにお洒落して普段と違う姿を見せたら驚かれる、というのも酷い話だと思った。こうやって、直ぐに物に感情移入して擬人化するのは日本人の民族性による所なのであろう。


 しかし、日本人という生き物は月が好きだ。ほんの少し前まで、星座なにそれ美味しいの? という勢いで、歌にも詩にもただただ月だけを詠んできた。その月が、赤くなっただけで不吉だと恐れるのも変な話ではないか。


 まぁ、変な話とは言ったが、赤は血の色でもあるから分からないでも無いが。昔は、今よりずっと血なまぐさい世の中だったのだろうし。


 不意にお腹が鳴き声を上げる。コンビニで愛飲している煙草と弁当を調達したが、まだ食べていないのだ。先に一服しよう、と思うあたり自分も随分と煙草吞みになってしまっているようだ。高校生の頃は、何が楽しくて高い金払って自分の肺をヤニ付けしているんだか、と馬鹿にしていたものだが。


 軽く紫煙を吸い込み、口腔に貯まった煙を舌先で軽く攪拌し香気と味を楽しむ。嗅ぎ慣れた甘く優しいココナッツの風味が賑やかだ。一頻り堪能した後で、煙を肺へとゆっくり導き新鮮だった空気を汚染してから吐き出す。不純物を含んだ血液が脳に流れ、鈍る思考に陶酔する。世の中、逃避の先が幾らかあった方が楽で良い。


 いい加減短くなった煙草を灰皿に放り込み、一緒に買ったコーヒーのプルタブを開ける。小気味の良い音を立てて開いたコーヒーを一口啜り、あまり美味しくないなと思った。


 私は紅茶党だが、自販機の飲み物ではコーヒーが好きだ。何故なら、缶の紅茶は香味も風味も死んでいて美味しくないから。仄かな鉄っぽい味と態とらしい匂いに渋みばかりが目立つ味。カフェインの摂取が目的なら、いっそ舌が慣れていなくて違いの分からないコーヒーの方が幾らかマシだ。


 ふむ、しかし味気ないことも、また事実。食事も最近は体力が無くて自炊できておらず、出来合いの物ばかりだ。そうなると、手料理が恋しくなるな。


 胃が伝えてくる物寂しい痛痒にも似た空腹と、普段と装いを異にする月の雰囲気にあてられて、更なる非日常を欲してしまう。


 そういえば、あのメイド喫茶、ランカスターでは食事もやっているのだったか。初めて行った数日後、改めて刷られたであろう招待状を模したチラシが来ていたのだが、予約の段階で注文すればちゃんとした食事も採れるらしい。


 明日は土曜日で半ドン……今の子に言ってもイマイチ伝わらないかも知れないが、とりあえずは半日業務だ。帰宅は三時過ぎだろうから昼食は無理だが、夕飯はあそこで食べようかな。


 そんな事を考えながらコーヒーを啜っていると、いつの間にか中身は空になっていた。直ぐそばに据えられているゴミ箱に放り込み携帯を手にする。スマホの電話帳には、ランカスターの番号を入力済みだ。


 時刻はまだ夜の八時にもなっていない。時間からして、まだまだランカスターは営業時間の筈だ。私は車のキーを操作してロックを外しながらコールした。


 数コールの後、受話器が上がり通話が始まる。耳朶を打ったのは、一度聞いた事がある凛とした声だった。


 「はい、正統派メイド喫茶ランカスターでございます。どちら様でしょうか」


 電話口の向こうに居るのはランカスターの女中頭こと櫻さんだった。耳に心地よい澄んだ声だ。込められた感情が薄く、何処か平坦さを感じさせる声だが、その平坦さは返ってプロとしての気高さを引き立てる。


 「ああ、すみません、予約をしたいのですが……」


 要件を切り出した所で櫻さんは私の名前を出した。電話越しの声だけで、一度来た客の名前を思い出せるのか。彼女はアポインターとしての才能があるのかもしれない。


 「はい、ご予約でございますね。何時頃お帰りになられますか?」


 電話の時点で既に女中モードらしい。こういった細かい所まで雰囲気を大切にしてくれるのは嬉しい所だ。


 「明日の夕方六時からは行けますか?」


 「はい、旦那様のお帰りを拒む理由は何処にも御座いません。御夕飯のリクエストなどは御座いますでしょうか?」


 ほう、メニューを提示してではなく、リクエストを聞いてくれるのか。凝った物を大量に頼んだら、それなりの値段がしそうだが……まぁ、ここはかなり良心的な値段設定だ、特に心配することもないだろうさ。無為に通牒へ財を積み上げるのではなく、偶には社会に還元させねば。


 しかし、これといって食べたい物は思い当たらない。子供の頃は好物が沢山あって、好物を山ほど並べた豪華な食卓に憧れるものだが、歳をとって大人になると、ただ漠然と“美味しい物が食べたい”という欲求だけが強くなる。


 その“美味しいもの”には個別具体的な例は無い。理由も指標も無く、ただ美味しい物が食べたくなるのだ。さて、どうしたものか。


 数十秒ほど逡巡するも、やはり良い物は思い当たらなかった。寒いから何か暖かい物が良いとは思うのだが、じゃあ、それが何かと考えると思いつかない。暖かくて美味しいものなんていくらでもあるのに。


 「えーと……何か、温まるものでオススメってありますか?」


 結局、私は答えを見つけられず疑問文に疑問文で変えすという、何処かのカウボーイに馬鹿にされそうな返答を吐くしかなかった。


 「そうですね、苦手な物やアレルギーがあるものはおありでしょうか?」


 「生のトマトが苦手、という事を覗けば苦手もアレルギーもありません」


 どうしてもトマトは好きになれないのだ。あの、どろっとした感触と奇妙に柔らかい歯ごたえ。そして、口の中で弾けた後で爆発的に広がる生臭さが耐えがたい。


 「承りました。お酒は、如何なさいましょう?」


 おや、酒を出すのか? 酒を出すとなると法規制の区分が変わって面倒くさい事になると思うのだが。まぁ、呑めるというのなら悪くはないが。そうだな、折角あるというのならばいただくとしよう。


 「大丈夫です。そこまで強くないものであれば」


 「はい、それではご用意させていただきます。内容は、着いてからのお楽しみ、で如何でしょうか?」


 ふむ、お楽しみか。良いな、悪くない。楽しみがあれば仕事にも張りが出る。私は一も二も無く、その案に従った。


 「では、明日の六時でお待ちしております。旦那様、お相手のメイドに指名はおありでしょうか?」


 そういえば指名もできるんだった、それも無料で。とはいえ、私が知っているのは女中頭の櫻さんと料理人兼客間女中の椿さんだけだから、何とも言い難いのだが。とりあえず、ありませんと応えておいた。


 「では、明日は私が旦那様のお相手を務めさせて頂きます。それでは、女中一同、旦那様のお帰りを心よりお待ちしております」


 「はい、それじゃあよろしくお願いします」


 先に電話を切りながら、傅いてくる相手にも敬語を使ってしまうのは違和感があるな、と感じた。とはいえ、相手もサービス業だ、本気で傅いている訳でも無いので別に良かろう。


 携帯を腰のポーチにねじ込みながら、私はキーを挿入しイグニッションまで捻る。通勤用のルノー シンボルがエンジンを起こし、機嫌良さそうに低い駆動音と共に車体を鳴動させた。


 通勤用とは言ったが、実際はこのルノーしか持っていないから通勤用もクソも無いのだが。主に通勤用途で使っているこのタリア型のシンボルも少し型落ち感が漂っているも、動作は軽快だ。蒼く輝く、コンパクトに丸みを帯びた四角いセダンタイプボディが愛らしい。


 ギアを操作し、私は緩やかにコンビニの駐車場から抜け出した。街灯が寒々しく照らす街路を助手席の粗末な夕飯を道連れに走ると普段なら憂鬱な気分になるが、今日は別だ。


 さて、明日の仕事は頑張るとしよう…………。











 土曜日の仕事はつつがなく終わり、私はATMで弾丸を補充した財布を懐に電車に揺られていた。


 澄ました顔で文庫本片手に乗っている私だが、その内心は期待で沸き立っている。


 綺麗なメイドさんを愛でて精神力を回復した上に、メイドさんの手作り料理が食べられるときた。そこいらのメイド喫茶で出てくるなんちゃって手作りではないのだろう。まぁ、裏で何やってるかなんて分かったものではないが、そう思っていた方が精神衛生上よろしいので深くは想像しない。


 とにかく、暖かい手作り料理だ。それも、あのお菓子と紅茶という、とても良い前例があるのだから味にも期待できる。


 味の想像で気も漫ろになっており、文庫本の内容はあんまり頭に入ってこなかった。電車を待つ時間や乗っている時間で十数ページは読み進めたが、後で栞の位置を後退させる羽目になりそうだ。内容なんて覚えていないのだから。


 駅から出てランカスターまでの道を歩く。時間が時間だからだろうか、ちらほらと帰途にある人々の姿が見えた。私もスーツのままだが、三時過ぎには帰宅して一息入れている。


 彼等は今まで働いていたのだろうか。そう考えると、土曜日に半ドンで帰れる自分は恵まれている方だろう。


 郊外へと出て、前と同じ路地を曲がると遠目にランカスターが見えてきた。こぢんまりとした洋風の佇まいは、日没が早くなった年末の闇の中で厳かに佇んでいた。窓から溢れる柔らかな光や、石畳の通用路を照らすガス灯風の明かりが洒落た雰囲気を演出している。


 ふと見やると、門の前に一人のメイドが立っていた。あの二人と同じく、落ち着いて整ったヴィクトリア調の黒いエプロンドレスに身を包んだメイドだ。ただ、彼女達ではない。比べると背が低くて体の起伏が随分と大人しいからだ。


 門との距離が埋まると、彼女の姿を鮮明に観察できるようになった。小柄な少女だ、年の頃は一七かそこらではなかろうか。


 自然な艶を放つ栗色の髪はセミロングに揃えられ、視界を遮らないように紅葉を象った髪留めで留められている。中分けにされた前髪の合間から覗くのは、少し幼い風貌であった。


 大きく丸みを帯びた目と、低いとは言えないがこれまた少し丸っこい鼻に大きめの唇は幼さを強め、美人というよりも可愛らしいという印象を与える。僅かに肩をすくめ、そこはかとなく自信なさげな態度が可愛らしさと相まって小動物的な印象を醸し出していた。


 背は低い。私の胸元辺りだから一五〇cmには達していまい。未発達な体は均整は取れているものの、起伏は無く穏やかなラインを描いていた。


 彼女も此方を視認したのだろう。更に身を縮こまらせながら私を見ている。はて、私は人に怯えられるような凶相はしていないはずだが。知人曰く、毎日会わないと思い出すのに苦労する顔らしいしな。大きなお世話だと言いたい所だが。


 門の前まで到達すると、彼女は確認するように私の名を様付けで呼んだ。首肯すると、一度姿勢を正した後でスカートの端を摘み、慇懃に頭を下げてくれる。


 「お、おかえりなさいませご主人様。私、雑役女中の紅葉もみじと申します。お待ちしておりました」


 消え入るような声は甘やかなソプラノで、何処かアニメの吹き替えめいた響きとイントネーションだった。ただ、作ったのではなく素だと思えるのは彼女の仕草が一々酷く自信が無さそうだからであろうか。


 しかし、容姿や声も相まって普通のメイド喫茶の方が似合いそうな少女だ。呼び方も櫻さん達と違いご主人様だったし。悪い気はしないがね。


 「そ、それではお部屋にご案内致します」


 今日の出迎えは彼女なのか。確かに女中頭を名乗る以上、櫻さんは色々指導する事もあって忙しいのかもしれないな。


 紅葉と名乗った少女はポケットから何か小さな装置を取り出し、そのボタンを押した。すると門が独りでに開いていく。操作スイッチだったようだ。確かに、車も悠々と通れる門を細身の少女が手で開けるのは無理だろう。


 「暗いので、お足元に気をつけてくださいね」


 「ああ、ありがとう」


 通用路を抜けてランカスターへと入った。紅葉さんが開けてくれた扉を潜って入ったホールは、寒い外を歩いて来た私を迎え入れるかのように暖房が効いていた。部屋の隅で、大型のオイルヒーターが稼働しているのが見える。


 オイルヒーターは暖かいが、効果が現れるまで時間がかかる。この廊下まで含めると随分広いホールが温まっているということは、、相当前から稼働させて出迎えの準備をしてくれていたようだ。


 「お帰りなさいませ、旦那様」


 ホールの真ん中で櫻さんが深々と腰を折って迎えてくれた。迎えは紅葉さんだが、今日の担当は彼女なのでここからは彼女の仕事ということだろう。


 「ああ、ただいま」


 雰囲気に浸るために答えてみた。ただ、やっぱり気恥ずかしくて頬が寒さ以外のもので赤らむのが自分でも分かる程だが。


 「こ、コートをお預かり致します」


 「ありがとう」


 背後に回った紅葉さんがコートを脱がせてくれる。ちょっと格好付ける為に、着ているコートは両親が成人の祝いで買ってくれた総カシミヤのコートだ。素材が素材なので少し重いが、暖かさは抜群だった。


 「では、こちらにどうぞ。準備ができておりますので」


 コートを預けたら櫻さんに部屋へと通された。この間入った部屋の隣だ。隣の部屋には、“ご帰宅”という看板が下がっている。今日は私以外にも客が居るようだ。


 それもそうだろう、こんな凝ったサービスを受けられる店ならリピーターが多くなるのは不思議ではない。私だって、その一人になろうとしているのだから。


 部屋の作りは全て同じなのか、始めて来た時に通された部屋と大して変わらなかった。調度が異なるのと、雰囲気の演出の為か明かりが部屋の各所に灯された蝋燭になっている程度だ。弱い光源は部屋を薄暗くさせるが、無機質な蛍光灯の明かりよりはずっと情緒がある。


 しかし、蝋燭も安くは無かろうに。蝋燭が短くなってきたら継ぎ足したりと手間も多いし煤も出る。果たしてここは採算が取れているのだろうか。


 椅子を引いて貰い席に着いた。染み一つ無い真っ白なテーブルクロスが敷かれたテーブルには、何枚かの皿や食器が既に並べられ夕餉の準備が整っている。


 「では、直ぐにお持ち致しますので少々お待ちください」


 言って表に出て、そう間も開けないで戻ってくる櫻さん。流れは前と一緒なのだろう。


 うん、夜は夜で雰囲気がある。席は上座に据えられたせいで窓は見えない位置にあるのだが、微かな灯りに照らし出される部屋の全景が観察できる。中世の洋館、その中に居ると言われても違和感が無い程雰囲気に満ちていた。少し狭いのはご愛敬だ。


 ふと、気になる事があったので聞いてみることにした。メイド喫茶なのだからメイドさんとお話しても、本物のメイドと主人という訳でもないので子細無かろう。これが、本当の主従であったなら軽々しく声を掛けられたら向こうが困るのだろうが。


 「そういえば、あの紅葉という子は……」


 「ああ、紅葉ですか。彼女はいわば見習いというところです」


 雑役女中、オールワークスのメイドというのは役割を細分化された女中を何人も雇う余裕が無い家が抱える女中で、広く浅く何でもやる分、専門的な女中よりも一段劣るものとして見られている。


 ただ、その立場をメイド喫茶に置くというのに違和感を禁じ得なかったのだ。なる程、見習いという称号を雰囲気を崩さないままに付与するのなら、確かに雑役女中というのは実にらしい。カタカナにすればオールワークスなので更に違和感は薄れるだろう。


 「旦那様の前に一人で出すのに不安があるメイドは雑役女中として、所々の仕事をやらせております。皿洗いや掃除、邸内の細かな手入れや備品の補充などですね」


 見習いだけではなく、そのまんまの雑役女中でもあるのか。まぁ、この店は異様な程に凝っているので分からないでもないが。


 一つ疑問が解消すると、次々に疑問が沸いてくる。例えば、ここの経営はどうなっているかだ。ちょっと気になって名前をインターネットで調べたが、それらしいホームページは引っかからなかった。いくつかの掲示板で、ここのメイド喫茶良いよ、と勧められている程度の書き込みしか見当たらない。


 経営母体が分からないのだ。勿論、考えるまでも無く企業母体ではない個人営業なのだろうが、そもそも利益も上がるまいにこんな所でメイド喫茶をやる意味が分からなかった。何と言うべきであろうか、中途半端なのだ。


 確かに、高級ホテルの中にある喫茶店並の値段は要求してくるが、回転効率は比べるまでもなく低いだろう。客単価が高くリピーターが付こうが、毎日満員御礼とは考え難い。となると、当然の如くコストに見合うペイは期待できない訳だ。


 そんな事は帳簿すら見ていない素人の私にも理解出来る。では、何だってこんな事を、という話になる。店主に何か遠大な目的があるのかは分からないが、出店した目的はあろう。それがどうしても推察さえできない。


 とはいえ、微妙に金の匂いがして現実臭い事をメイドさんに聞く気にもなれず、結局私は疑問を飲み込むことにした。気分の良い幻想に浸るためにやって来ているのに、こんな所で現実的な思考を巡らせて何になるというのか。


 社会人になると純粋に物事を楽しめなくなるのが嫌だな。何かを見ても、これってちゃんと予算に見合ってるのか、とか考えてしまうのが悲しい。企画部署でもないのに。


 内心でどうでもいい悲嘆に暮れていると、控えめに戸がノックされたので入室を促した。やはり、前回と同じようにカートを押した料理人兼客間女中の椿さんが現れた。


 「お待たせ致しました、旦那様。食前酒で御座います」


 カートの上に乗っているのは一つだけの小さなグラス。大きくて数人分の料理を運べそうなカートには酷く不釣り合いで、なんだか少し笑えてきた。


 真っ赤に染められた食前酒用グラスにはクリスタルカットが施されており、菱形の起伏が特徴的なデザインになっている。中で揺れる薄紅の液体は何らかの果実酒をベースにしたカクテルだろう。


 しかし、ヴィクトリアンメイドがフランス発祥の食前酒を饗してくるというのは若干違和感を感じる。まぁ、世界中に広がって割とメジャーになりつつある文化ではあるけれども。


 「食前酒はキールに致しました。リキュールと白ワインのカクテルで御座います」


 キールはショートカクテルの一種で食前酒の代表格の一つだ。白ワインにカシスリキュールを混ぜて作られる。その色は白ワインでありながらも淡い緋色に染まっており、グラスを透過した光に照らされて幻想的に輝いていた。


 グラスを手に取ると、よく冷やされている。キールは氷などを用いずにステアするカクテルなので、予め材料やグラスを冷やして饗するのだ。指先が痛いほどに冷やされたグラスの中身もまた良く冷えており、するりと飲める爽やかさがあった。


 ベースにした白いワインは辛口のものだったのだろう、キリッとした風味とアルコール混じりの強い渋みが清々しい。そして、それをほんのりと混ぜられたカシスの香りが引き立てている。


 キールは白ワインがベースだけあって白ワインの風味を楽しむことを前提としており、その為に配分は殆どがワインだ。作る際のコツとして、カシスリキュールは涙の滴三つ分と言われるほどである。何とも洒落た表現ではないか。


 一息吐いてグラスを返すと、椿さんが直ぐさまグラスが引き下げ、カートの側面をスライドして開く。ああ、そこ収納スペースになっているのか。大きな箱形のカートだとは思っていたが、単にでかいだけではないらしい。


 恐らく保温性が高く作られているであろうそこには、三皿の料理が載せられていた。


 一つは色鮮やかなサラダだ。スライスされたタマネギにパリッとしたレタスが盛りつけられ、彩りの為かラディッシュの姿もあった。そして、それらの上には半熟卵とクルトンが載せられ真っ白なシーザードレッシングがかかっている。


 二つ目の更には切り分けられたバケットが乗っていた。斜めにカットされたバケットはきつね色に焼き上げられていて、対称的に中身は洗い立てのシーツを連想させる純白だ。きっと、外は硬くて中は柔らかい本格的な物なのだろう。


 そして、三つ目、最後の皿は深皿で、盛られているのは黒々とした液体だった。いや、灯りの加減でそう見えるが、実際は深い茶褐色をしていた。粘度がある水面から浮かぶのは角切りの牛肉やカットされたジャガイモに人参。湯気と共に香しい芳香を放つメインはビーフシチューであった。


 密閉されていた料理がカートから出されると共にあふれ出した香りが蠱惑的に嗅覚を刺激する。僅かにアルコールが入って動き始めた胃が体内で俄に顫動するのを感じた。


 匂いは食欲を増進する。例え、そこまでお腹が減っていなくても、例えようも無く良い匂いがしたらお腹が空いてくるものなのだ。残業して疲れた後、帰宅途中に飲み屋から漂うおでんの匂いは正しく犯罪的だ。


 目の前に並べられた夕餉に、小さく感嘆の声を上げてしまう。暖かい物が良いとリクエストしたのでコース料理ではないと思っていたが、これは素晴らしい。変に凝った訳でもなく、さりとて物足りないわけでもない。そして、一番安心したのはヴィクトリア調だからと言って安易にイギリス料理じゃないことだ。一度出張で行った事があるが、あれは酷かった。


 とりあえず、過去を思い出すと真剣に飯が不味くなるので止めておこう。今は、目の前の美味しそうな夕飯に集中したい。


 次いで、空の儘に置かれていたグラスに椿さんの嫋やかな手からワインが注がれていく。仄かな黄色を帯びた液体は白ワインだ。ワインらしい澄んだ白ではないが、微かに色づいた爽やかな色味が心地よい。


 「サリーゴールドで御座います」


 これは後で調べて知った事だが、イギリス産のワインでデンビーズという国内最大シェアを誇るメーカーの品らしい。


 ワインがグラスに満たされた所で椿さんが深々と礼をして一歩下がった。準備は終わったということだ。


 「いただきます」


 手を合わせて言うも、ここまで洋風な場所で洋食を前にやるのは違和感がある。とはいえ、私はかの十字教徒ではなく日本人に多い仏教徒と神道寄りの無宗教なので神に捧げる祈りを知らないし持たない。


 だが、どんな要式を取ろうとも、極論すれば作り手と犠牲になった命に感謝が伝わればやっている事は一緒だ。大切なのは感謝の気持ちと美味しく頂くことだろう。私はフォークを手に取り、まずはサラダの小鉢に手を出した。


 ぷるぷると震える卵を割り、ドレッシングと混ぜながらサラダに十分に絡ませた。半熟卵は黄身が絶妙なとろみを帯びており、サラダの引き立て役としてはこれ以上無いコンディションにある。


 軽く突き刺して口に運ぶと、まず舌先に感じたのはドレッシングと半熟卵の味だ。強いシーザードレッシングの甘みを濃厚な黄身が柔らかくし、口当たりを良くすると同時に野菜そのものの味を邪魔していない。


 レタスは歯ごたえもしっかりとしていて、瑞々しく安物にありがちな青臭さも感じず、丁寧に水にさらしたのかタマネギには特有の甘さだけが引き立ち辛さは微塵も感じられなかった。


 実に美味だ。ラディッシュも独特の歯ごたえを保ちながら不快に辛くは無い。むしろ、あっさりとした辛みがドレッシングによく合っている。収穫時期が遅れたラディッシュは辛くて食べられた物では無いが、これは本当に丁度良い。もしかしたら、あのオランジェリーで自家栽培しているのだろうか。


 サラダは、その野菜の質どれか一つでも悪ければ苦かったり渋かったりで味の調和は崩れる。だが、このサラダはバランスが考えられ完璧な調和が保たれていた。気がつくと、私は全て食べきってしまっていた。


 フォークを定位置に戻し、一息。味が濃くて少し諄く感じる事もあるシーザーサラダなのに一度も口を飲み物で濯がないで食べ終えてしまうとは。これはちょっと驚きだ。


 では、メインのビーフシチューに手を出そうか。ただ、その前に前の味を流し、口を潤す為にワインを一口煽る。おお、これも美味しい。香りには桃や林檎の風味が混ざり、微かに感じる清涼さは恐らくハーブであろうか。とても甘いフルーツフレーバーと対称的に、舌を洗い流す味は引き締まった辛口だ。さっぱりしていて口直しには最適と言えた。


 後味もあっさりで、香りの良さも相まって実に吞みやすい。気の利いたつまみが一つあればぐいぐいとやってしまいそうだ。この引き締まった辛口なら濃厚なスモークチーズなんかが合いそうだ。


 スプーンを手にシチューを掬う。スープはとろりと粘性が高く、一緒に掬い上げられたジャガイモは一口大だが角が一切無く、外側が溶けたのか柔らかそうだ。長時間丁寧に煮込まなければ、こうはならないだろう。


 ふと、仕込みをどうしてるのか考えてしまった。予約はしたが、一人分のためだけに作るわけにもいくまいて。それに、どうやら既製品は使っていないように思える。相当手間が掛かるだろうに、本当にどうなってるんだろうか、この店は。


 細かい事をまた考えてしまったが、雑音のような思考をかき消すほどにビーフシチューは美味しかった。音を立てないように気をつけながら口に運ぶと、ジャガイモは淡い雪のように勝手に解けてしまい味だけが口内に広がっていく。スープの味は濃厚だが、ジャガイモの味と混ざると丁度良い濃度になりしつこさを感じない。むしろ、ほんの僅かに感じるローリエの香りのおかげで清涼さすら覚えるほどだ。


 急かされるようにスプーンは独りでに動いていた。美味しくて、勝手に体が求めてしまうのだ。次には、角切りの牛肉と一緒に掬って口にスプーンを差し入れている。


 牛肉は柔らかさを求めて煮すぎると返って硬くなり味が失せる。だが、この牛肉はそんな事は無かった。ビーフシチューの味が染みこんでいるのも去る事ながら、何よりも柔らかい。噛みしめるまでもなく、臼歯に押しつぶされると勝手に繊維に従って解けてしまうのだ。粗悪な肉なら三桁に届く回数を噛んでも飲み込めないのに、これは僅か五回噛んだだけでとろけてしまう。


 しかも、その柔らかさは解けるからこその柔らかさであり、噛むときに歯ごたえはしっかりとあるのだ。肉の味も失せきっておらず、噛む度に染みこんだビーフシチューの味に混ざって存在を主張してくる。にも関わらず臭みは全く無いときた。


 具材はたった三種類のシンプルなビーフシチューなのに、ここまで美味いとは。代わり映えしないはずの人参でさえ柔らかく、特有の匂いはしないのに利点である甘みはむしろ強まりさえしている。家の母親も料理は下手な方では無いが、これと比べると申し訳ないが月と何とやらだ。


 しかし、種類を選んでも煮崩れし易いジャガイモと人参、そして煮なければ味が染みない肉が完全に姿を保ちながら美味を維持している。これはどうやったのだろうか。


 それぞれタイミングを変えて入れれば煮崩れは防げるかも知れないが、完璧な迄にバランスを維持するのは如何ほどの難易度が……。


 難しい事を考えていると自然と匙が進み、更に数度口に運んだ所で、手を止める。いかん、没頭するあまりにパンを忘れる所だった。バケットに浸して食べるのも、また格別に美味いのだ。


 バケットは皿に四切れ乗っている。一つはおしりの方の断面以外は外側だけで出来ている硬い部分。私は、これがひたひたになるまで漬けて食べるのが好きなのだ。見た目とマナー的には些か宜しくないが。


 バケットの外皮は硬く焼き上げられており、指で押すと折れる。折れ目を起点に裂くと、内部は真綿の如く柔らかく伸びていった。


 硬いバケットをシチューに浸し、十分に染みた所で口に運ぶ。すると、装いを新たにした味が口腔を満たし、鼻から薫り高いビーフシチューの香気とパンの香ばしさが抜けてった。


 シチューに浸したおかげでバケットは柔らかくなり、パンの香ばしさとシチューの味を有しながらも優しい歯ごたえを返してくる。シチューを吸ってしっとりとした中身のおかげで味はよりしっかりと感じられた。


 バケットの皮が特有の堅さを失う過程で得る柔らかさは筆舌し難い絶妙な食感だ。柔らかすぎず、さりとて歯が立たぬほどでは無い堅さ。噛みしめることでシチューに足りない、食べている、という実感がわいてきて空腹が失せていくのが分かった。


 後は、無心に食べていくだけだった。時折舌を飽きさせないためにワインで味覚をリセットし、再びシチューへと挑みかかる。一番楽しみにしていたバケットのお尻の部分は、断面からシチューが染みこむのに下が硬くて汁が逃げ出さないので、口に入れた後はたっぷり染みだしてきて一番の食べ応えだった。もう、最後の方は夢中になりすぎて口を汚さずに食べられたかの自信が無い。


 すっかりと空になってしまった皿を前に、大きく吐息しながらスプーンを置いた。もう、どの皿にも何も残っていない。下品だから食べるのを断念した滴が残っているだけである。


 最後は真っ白なテーブルナプキンで口元を拭う。白い生地にあまり茶色が移らなかったので、見苦しくない程度には綺麗に食べられていたのだろう。


 「ご堪能なさいましたか?」


 にっこりと椿さんが微笑む。緩く垂れた目が細められ、眉尻が下がると常の微笑が強まり蕩けるようだ。この笑顔が今は自分にだけ向けられていると思うとなんだか嬉しくなってくるな。


 自然と、たどたどしいものだが賞賛の声が口から溢れていた。営業職である以上、口下手ではいられないので語彙は豊富な方だと思っていたが、正しく小学生並みの感想、という仕上がりになってしまう。緊張してしまうと身につけた技術というのは得てして発揮できないものだと我が身を以て実感させられてしまった。


 「お褒めにあずかり恐悦至極に存じます。それでは、デザートをお持ち致します」


 テキパキと流れるような素早さで櫻さんと椿さんが食器を片付け、ほんの僅かに溢れたパン屑さえ残さずテーブルクロスを掃除する。その後で椿さんは礼を残し部屋を出て行った。


 と、言う事はアイスのような冷たいデザートなのかと期待する。やはり、諄くなくともビーフシチューは味が濃い。味が濃い食事の後に食べるさっぱりとしたアイスは、美味しいだけではなく得も言えぬ爽快感がたまらないのだ。


 柑橘系なら尚良いな、などと思っていると、ふと二人も人が周りに居て食事を見ているのにそこまで気にならない事に気がついた。相当に今更な事だが、本当に気にならなかったのだ。


 私は小市民だから、作り手を交えて食べている所をまじまじと見られたら落ち着かない。これでも人並みに異性との付き合いもあったので、手料理を振る舞われる事があり、そんな事態に直面した事があるから分かるのだ。


 しかし、今日の夕飯では全く気にならなかった。そこに存在していながらも全く気負わせない、これがメイドという物の本来のあり方なのだろう。


 ただ、それでも此処はメイド喫茶だ。静かな雰囲気に浸るのも良いが、次はお話でもしてみようか。もしかしたら、面白いことが聞けるかも知れない。


 満ち足りた気持ちで、背もたれに体を預けながらゆったりしていると椿さんが再びカートを押して戻ってくる。その上では、食後の紅茶とデザートのシャーベットが乗せられている。薄い黄色も眩しい半球型に成型されたシャーベットからは柚の香りが漂っていた。


 まるで自分の内心を読んだかのようなチョイス。食後のもてなしとしては、これ以上無いほどに最高だ…………。












 「さっむ」


 室内と外気との差に驚いて思わず呟いた。櫻さんにコートを着させて貰って出たランカスターの外は酷く冷え込んでいた。外気と室温の差が高いと、温度差のせいで体感温度は格段に下がる。


 それでも精神的には美味しい物を食べたばかりなので満ち足りていて暖かい。腹の辺りから体が温もるようだ。ついでに、財布からは樋口さんが一人旅だっただけなので懐も寒くは無かった。


 「お寒いのでお体にお気を付けください、旦那様」


 石畳を歩き、門まで向かう道に櫻さんが付き添っている。客が帰るまで見送るサービスも付いているのだ。しかし、彼女は上着も羽織らず普通のメイド服なので酷く寒そうに思えるが、そんな素振りは微塵も見せない。ただ、頬が僅かに赤らんでいるので寒くない訳ではなさそうだ。凄いプロ根性である。


 私も雨が降りしきる寒い中歩いて取引先に行っても笑顔を浮かべてハキハキ喋る自信はあるのだが、流石にここまで完璧には自分を取り繕えない。


 門に近づくと緩やかに門が開いていく。後ろで目立たないように操作しているのだろう。


 門の前で立ち止まり櫻さんに向き治る。彼女は無表情を保ちながら慇懃に腰を折った。


 「それでは旦那様、お早いお帰りを我ら侍女一同心待ちにしております。どうかお気を付けて行ってらっしゃいませ」


 完璧な礼と仕草だ。こんな風にメイドさんに送り出して貰えるのならば、仕事にも身が入りそうだと感じた。とはいえ、今から帰って寝るだけなので、やる気を出してもどうしようもないのだが。募るのは、また来ようという意思だけである。


 門を抜けて道に出ても、櫻さんはその場に留まり続ける。来た時と同じ角を曲がってランカスターが見えなくなるまで、彼女はずっと、静かに私を見送っていた。


 今日は良かった。そう思い何度目か分からないが感嘆の息を吐く。肺腑の奥から溢れでた吐息は、まだ夕餉の温かさを残すかのように白く息を立ち上らせた。


 空を見上げると、昨日とは打って変わって真っ白な月が浮かんでいた。満月からほんの僅かに身を陰らせた夜の女王は、今日も一人で舞台に立っている。


 「さて、次は何時頃来ようかね」


 茫洋と月を見上げ、そぞろに足を運びながら私は懐を漁って携帯灰皿と煙草を取り出し、何とも無しに呟いた…………。

 私です。何で試験前って試験勉強以外が捗るんでしょうかね(白目)


 お待たせしました。盗作は100%私が食べたい物で構築されております。後、コンセプトは飯テロ作品なので基本深夜投稿になると思います。何時もですが。


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